明治大学体育会山岳部の海外登山は、1939〜40(昭和14〜15)年の台湾遠征に始まります。戦後は1960(昭和35)年のアラスカ遠征で、日本人として初めて北米最高峰マッキンリー(現・デナリ)に登頂し、1965(昭和40)年には初めてのヒマラヤ遠征で未踏峰ゴジュンバ・カンⅡ峰(7646m)に初登頂しました。
その後も学生とOBが力を合わせてヒマラヤの高峰に挑み続け、2003(平成15)年には、学生とOBの手でヒマラヤの8000m峰全14座の登頂を果たしました。国内の大学で唯一の記録です。このページでは、炉辺会が公開してきた海外登山・遠征の記事を、時代の順に紹介します。
年表で見る海外登山・遠征
山岳部と炉辺会が送り出した海外登山隊の全記録です(海外登山史より)。隊名を押すと、各隊の記事が開きます。
- 1939〜40年台湾遠征明治大学創立60周年記念偵察隊が次高山・新高山などを踏査し、翌春の本隊が合歓主山や奇莱主山に登る。山岳部初の海外遠征
- 1960年マッキンリー登山隊創立80周年記念 アラスカ地域総合学術調査団5月5日、北米最高峰マッキンリー(現・デナリ、6190m)の南峰に日本人として初登頂
- 1964年ニュージーランド親善登山隊(第1次)マウント・クック(3764m)を目指すが、頂上直下で時間切れとなり断念
- 1965年ゴジュンバ・カンⅡ峰登山隊ネパール・ヒマラヤ学術調査隊初めてのヒマラヤ遠征。4月23日、植村直己とペンバ・テンジンが未踏のゴジュンバ・カンⅡ峰(7646m)に初登頂
- 1965〜66年ニュージーランド親善登山隊(第2次)ガイドなしでマウント・クックに再挑戦し、4名全員が登頂
- 1974〜75年チューレン・ヒマール登山隊10年ぶりのヒマラヤ。未踏の西稜からチューレン・ヒマール(7371m)に登頂
- 1976〜77年ヒマルチュリ登山隊東壁を突破するも頂上直下で時間切れ。下降中に近藤芳春が雪庇の崩壊で死去
- 1978年アンナプルナ南峰登山隊平均年齢24歳の隊が、未踏の南西稜からアンナプルナ南峰(7219m)に登頂
- 1976〜81年エベレスト登山隊明治大学創立100周年記念単一大学として初めてエベレストに挑み、西稜の8750m地点、頂上まで98mで断念
- 1987年カラコルム登山隊若手OB3名でラカポシを目指し、東峰(7010m)に登頂。主峰への縦走は断念
- 1989〜91年チョモランマ峰遠征隊明治大学創立110周年記念未踏の東壁カンシュン・リッジに挑むが、氷塊崩壊の危険から6400m地点で中止
- 1995年山岳部インド・ヒマラヤ登山隊学生の海外合宿。ガングスタン(6162m)に学生7名とOBコーチ2名が全員登頂
- 1997年マナスル登山隊北東面からマナスル(8163m)に全員登頂。明大隊として初めての8000m峰
- 1997年アンナプルナⅠ峰登山隊北面「鎌ルート」に初冬に挑むが、悪天候と雪崩の危険から6000mで中止
- 1999年インド・ヒマラヤ登山隊未踏峰ナンガール・チョティ(6094m)を目指し、約6000m地点で断念
- 2001年ガッシャーブルムⅠ・Ⅱ峰登山隊創立120周年・創部80周年記念ドリーム・プロジェクト第1弾。ガッシャーブルムⅡ峰(8035m)とⅠ峰(8068m)に全員が連続登頂
- 2002年ローツェ登山隊創立120周年・創部80周年記念ドリーム・プロジェクト第2弾。西壁からローツェ(8516m)に全員登頂。13座目の8000m峰
- 2002〜03年アンナプルナⅠ峰登山隊創立120周年・創部80周年記念南壁英国ルートからアンナプルナⅠ峰(8091m)に6名が登頂し、8000m峰全14座がそろう
- 2006年チョー・オユー、シシャパンマ登山隊加藤慶信と天野和明の2人が、無酸素・シェルパなしで2つの8000m峰に連続登頂
- 2011年マッキンリー登山隊創立130周年スポーツ記念事業・創部90周年記念学生と若手OBの7名が全員登頂。植村直己が消息を絶った山に27年ぶりに向き合う
- 2023年アニデッシュチュリ登山創部百周年記念事業東ネパールの未踏峰アニデッシュチュリ(6960m)に北壁から挑み、6600m付近で撤退
まず全体を知る
明大山岳部と炉辺会の海外遠征の歩みは、「海外登山史」の記事にまとまっています。山岳部や炉辺会の登山隊のほかにも、日本山岳会や社会人山岳会の遠征隊に加わったり、単独で世界の山に向かったりしたOBが大勢います。8000m峰の登頂者は21名にのぼります。
まとめ1939年〜明治大学山岳部および炉辺会の海外登山史:世界の峰への挑戦とその軌跡海外遠征の足跡を、台湾遠征から創部100周年のアニデッシュチュリまで一覧でたどる入口の記事。
記録1970年〜明治大学山岳部&炉辺会会員 – 8000m峰14座登頂クロニクルエベレストからシシャパンマまで、8000m峰14座それぞれの登頂者と登頂日。登頂者21名の一覧も。
記録1965年〜明治大学山岳部&炉辺会会員 – 7000m峰登頂クロニクルゴジュンバ・カンⅡ峰やナムチャ・バルワ初登頂など、7000m峰の登頂記録。
記録明治大学山岳部及び炉辺会の海外登山記録 – 単独行および部外登山隊とのクロニクル単独で挑んだOBと、部外の登山隊に参加したOBの海外登山の記録。
はじめての海外へ
1939(昭和14)年、山岳部は翌年の積雪期登山に備えて台湾に偵察隊を送り、1940年3月に本隊が台湾中部の山々に向かいました。しかし、この遠征に加わった部員のうち2人は、ヒマラヤへの夢を果たせないまま太平洋戦争で戦死しています。
戦後初めての海外遠征は、明治大学創立80周年記念の「アラスカ地域総合学術調査団」でした。外貨の持ち出しが難しい時代に、山岳部長の渡辺操先生の尽力で学術調査団の一員としてマッキンリーに向かったのです。1964年と65年には学生主体の隊がニュージーランドのマウント・クックに挑み、1965年にはネパールの登山禁止令の直前に許可を得て、初めてのヒマラヤ遠征でゴジュンバ・カンⅡ峰に初登頂しました。頂に立ったのは、フランスから合流した植村直己(昭和39年卒)です。
遠征1939〜40年明治大学台湾遠征(1939-1940) – 明治大学創立60周年記念偵察隊と本隊、2度にわたる台湾遠征の行動記録。山岳部初の海外積雪期登山。
Play back1939年創部後初めての海外遠征 ―当時の新聞記事から台湾偵察行のふみあと新たに見つかった新聞連載「台湾の山々を探る」から、偵察隊の足跡を再録。
遠征1960年明治大学マッキンリー登山隊(1960) – 明治大学創立80周年記念アラスカ地域総合学術調査団戦後初の海外遠征。手探りのなかで果たしたマッキンリー南峰・北峰への登頂。
Play back1960年アラスカ学術調査とマッキンリー登山 ―マルチなメディア戦略でアピール資金集めから新聞・テレビ・出版を巻き込んだメディア戦略まで、アラスカ遠征の裏事情。
Play back1964〜65年2年連続 南半球での海外合宿 ―明治大学体育会山岳部ニュージーランド親善登山隊東京オリンピックの年に始まった学生の「海外合宿」。2年続けてマウント・クックへ。
遠征1964年明治大学体育会山岳部ニュージーランド親善登山隊 – 第1次 – (1964)第1次ニュージーランド親善登山隊。ニュージーランド山岳会と交流し、氷雪技術を学ぶ。
遠征1965〜66年明治大学体育会山岳部ニュージーランド親善登山隊 – 第2次 – (1965)第2次隊はガイドレスでマウント・クックに登頂。
遠征1965年明治大学ゴジュンバ・カンⅡ峰登山隊(1965) – 明治大学ネパール・ヒマラヤ学術調査隊初めてのヒマラヤ遠征で、未踏峰ゴジュンバ・カンⅡ峰に初登頂。
Play back1965年波乱に富んだ、初めてのヒマラヤ遠征 ―登頂したピークはゴジュンバ・カンⅡ峰幻のギャチュン・カン計画、滑り込みの登山許可、山名の混乱。植村直己の手記と隊員座談会から。
Play back1967年国際アルピニスト集会に参加した明大の2人 ―植村直己と伊藤頌司、1967年シャモニフランスの国際アルピニスト集会に、日本代表として招かれた明大OBの2人。
ヒマラヤの高峰へ
ゴジュンバ・カンから10年、1975(昭和50)年にはヒマラヤ未経験のメンバーがチューレン・ヒマールに未踏の西稜から登頂しました。1977年のヒマルチュリでは東壁を登攀したものの、下山中に近藤芳春が雪庇の崩壊で亡くなり、明大の遠征で初めての犠牲者となりました。
明治大学創立100周年を記念する1981(昭和56)年のエベレスト登山隊は、単一大学のチームとして初めて世界最高峰に挑みましたが、頂上まであと98mで登頂を断念します。1991(平成3)年のチョモランマ東面カンシュン・リッジでも、崩れやすい氷雪のリッジに阻まれて撤退しました。
遠征1974〜75年明治大学チューレン・ヒマール登山隊(1974-1975)ダウラギリⅤ峰からの土壇場の転進。未踏の西稜からチューレン・ヒマールの頂へ。
遠征1976〜77年明治大学ヒマルチュリ登山隊(1976-1977)ヒマルチュリ東壁を登攀。帰路に近藤芳春を失った遠征の記録。
遠征1978年明治大学アンナプルナ南峰登山隊(1978)未踏の南西稜ルートからアンナプルナ南峰(7219m)に登頂。
遠征1981年明治大学エベレスト登山隊(1981) – 明治大学創立100周年記念創立100周年記念のエベレスト西稜。頂上まで98mを残した「エベレスト街道」。
遠征1987年明治大学カラコルム登山隊(1987)3人のOBでカラコルムのラカポシに挑んだ登山隊。
遠征1989〜91年明治大学チョモランマ峰遠征隊(1989-1991) – 明治大学創立110周年記念創立110周年記念。未踏のカンシュン・リッジからチョモランマを目指す。
8000m峰全14座へ
部員の少ない時代が続いた1995(平成7)年、主将の高橋和弘たちは学生の海外合宿でインド・ヒマラヤのガングスタンに登頂します。このときのメンバーが、2年後のマナスルで明大隊として初めての8000m峰に立ちました。
創部80周年に向けた「ドリーム・プロジェクト」では、2001年のガッシャーブルムⅠ・Ⅱ峰、2002年のローツェ、2003年のアンナプルナⅠ峰と、残る8000m峰4座に続けて登頂。1970年の植村直己のエベレスト登頂から33年をかけて、OBと部員の手で全14座がそろいました。アンナプルナⅠ峰登山隊は、2003年の植村直己冒険賞の特別賞を受けています。
遠征1995年明治大学体育会山岳部インド・ヒマラヤ登山隊(1995)10年ぶりに4学年がそろった山岳部が、海外合宿でガングスタンの頂へ。
遠征1997年明治大学マナスル登山隊(1997)北東面からマナスルに登頂。明大隊として初めての8000m峰。
遠征1997年明治大学アンナプルナⅠ峰登山隊(1997)北面「鎌ルート」からアンナプルナⅠ峰を目指した3人の登山隊。
遠征1999年明治大学インド・ヒマラヤ登山隊(1999)インド・ヒマラヤの未踏峰ナンガール・チョティの初登頂を目指す。
遠征2001年明治大学ガッシャーブルムⅠ・Ⅱ峰登山隊(2001) – 明治大学創立120周年・山岳部創部80周年記念ドリーム・プロジェクトの第一歩。ガッシャーブルムⅠ峰・Ⅱ峰に連続登頂。
遠征2002年明治大学ローツェ登山隊(2002) – 明治大学創立120周年・山岳部創部80周年記念西壁のローツェ・フェースからローツェ(8516m)に登頂。
遠征2003年明治大学アンナプルナⅠ峰登山隊(2003) – 明治大学創立120周年・山岳部創部80周年記念南壁英国ルートからアンナプルナⅠ峰に登頂し、8000m峰全14座を完登。
遠征2006年明治大学チョー・オユー、シシャパンマ登山隊(2006)加藤慶信と天野和明の2人が、無酸素でチョー・オユーとシシャパンマに連続登頂。
次の100年へ
創部90周年の2011(平成23)年には、学生部員と若手OBの育成を目的に、植村直己が消息を絶ったマッキンリーに登頂しました。創部100周年の2023(令和5)年には、OBと学生の4人がネパールの未踏峰アニデッシュチュリ(6960m)にアルパインスタイルで挑んでいます。
近年もOBの挑戦は続いています。2024年には三戸呂拓也がエベレストとローツェに連続登頂し、川嵜摩周がパキスタンのラーマンゾム西壁とシヤコゾム北壁を初登攀しました。
遠征2011年明治大学マッキンリー登山隊(2011) – 明治大学創立130周年スポーツ記念事業・山岳部創部90周年記念創部90周年記念。学生5名が先輩OBとともに北米最高峰の頂へ。
遠征2023年未踏峰アニデッシュチュリ登山について【創部百周年記念事業】創部100周年記念事業。未踏峰アニデッシュチュリ登山の趣旨と計画。
会員2024年ラーマンゾム西壁・シヤコゾム北壁を初登攀 ―川嵜摩周のアルパインクライミングパキスタンの未踏の西壁を拓き、未踏峰シヤコゾムにも初登頂。
会員2024年三戸呂拓也、エベレストとローツェ連続登頂に成功!20年の夢を実現登山を始めて20年。エベレストとローツェに2日続けて登頂。
会員限定の記事
次の記事は会員限定です。読むには会員用のパスワードが必要です。
- 届かなかった未踏峰アニデッシュチュリ ~2023年ポスト・モンスーン 明治大学山岳部登山隊の記録~ 隊長 天野 和明(会員限定)
- 力及ばなかったアニデッシュチュリ – 宮津洸太郎(2012年卒)(会員限定)
- アニデッシュチュリ登山隊に同行して – 中澤暢美(昭和62年卒)(会員限定)
- アニデッシュチュリ登山を終えて – 川嵜 摩周(会員限定)
- 創部100周年記念登山に参加して – 川嶋すず菜(会員限定)
- 2025年キラットチュリ西壁遠征|川嵜摩周(会員限定)
- 川嵜会員 2025 年秋、再びアニデッシュチュリへ(会員限定)
もっと読む
テーマから読む
現役の明治大学体育会山岳部の活動は、学生が運営する公式サイトでご覧いただけます。

































