明治大学山岳部の国内登山は、創部からわずか2年後の1924(大正13)年、信州側から積雪期の白馬岳に初めて登頂した快挙から始まります。同じ年には剱岳・八ッ峰を完登し、1930(昭和5)年には白馬岳から唐松岳への積雪期初縦走、1936(昭和11)年には前穂高岳北尾根の岩壁に母校の名を冠した「明大ルート」を拓きました。
戦後の山岳部を支えてきたのは、冬山・春山・夏山の合宿です。重荷を背負った縦走、胸までのラッセル、岩壁の登攀。このページでは、戦前の初登頂の記録から、戦後の合宿の記録まで、国内の山行の記事を紹介します。
まず全体を知る
明大山岳部と炉辺会の国内での主な登山は、「国内登山記録」の記事に一覧でまとまっています。
創部と戦前
1920年代の学生登山界では、スキーを使って雪山に登る登山が主流になっていました。創部2年後の1924年4月、馬場忠三郎ら3人は信州側の大雪渓から積雪期の白馬岳に初登頂します。馬場は同じ年、剱岳・八ッ峰の完登も果たしました。
1935(昭和10)年の暮れには、完成したばかりの八方尾根・明大山寮から後立山連峰の厳冬期縦走に向かい、大寒気団のなかキレット小屋に8日間閉じ込められながらも縦走を果たしています。翌1936年には、小国達雄と人見卯八郎が前穂高岳・北尾根第4峰の東南面に「明大ルート」を拓きました。
山行1924年山岳部 初の快挙とその後の絆 – 信州側からの白馬岳積雪期初登頂新たに見つかった馬場忠三郎の寄稿文から、信州側からの白馬岳積雪期初登頂の全容を明らかにする。
山行1924年信州側の大雪渓から積雪期白馬岳に初登頂(1924)スキーで雪山へ向かう時代に、信州側の大雪渓から白馬岳の頂に立つまで。
山行1924年剱岳・八ッ峰初完登(1924)剱岳に通い詰めた馬場忠三郎が、八ッ峰の初完登を果たすまで。
山行1930年白馬岳から唐松岳へ積雪期初縦走(1930)一度は強風雪で引き返した、白馬岳から唐松岳への積雪期初縦走。
Play back1935年吹雪よ静まれ! 生死を分けた厳冬期登山 ―後立山を初縦走した明大隊と加藤文太郎遭難の軌跡後立山を初めて厳冬期に縦走した明大隊と、同じ寒気団に襲われた加藤文太郎一行。
山行1936年前穂高岳・北尾根第 4 峰東南面「明大ルート」開拓穂高の岩壁に母校の名を印した「明大ルート」の開拓記録。
Play back1936年穂高の岩壁に刻んだ「明大ルート」 ―小国達雄と人見卯八郎、前穂高岳東南面への挑戦社会人クライマーとの交流で技術を磨いた小国達雄と人見卯八郎の挑戦。
戦後の合宿
戦後、部活動を再開した山岳部は、1947(昭和22)年3月に初めて極地法登山を実践しました。以来、冬山と春山の積雪期合宿が山岳部の柱となり、夏山合宿は積雪期に備えて体力やテント生活の技術、チームワークを鍛える場となっています。
1961(昭和36)年度からの「剱岳長期計画」では、4年をかけて剱岳周辺に通い、最終年に八ッ峰を完全縦走しました。部員が少ない年も、主将とリーダーたちは年度の目標となる「決算合宿」に向けて計画を練り上げてきました。
合宿1947年極地法で畳岩尾根から奥穂高岳へ(1947) – 昭和22年冬山合宿戦後の再出発。テントも足りないなか、極地法で畳岩尾根から奥穂高岳へ。
合宿1953年横尾尾根から滝谷登攀(1953) – 昭和28年度冬山合宿部長と監督が若返った年、横尾尾根から滝谷の登攀に挑む。
合宿1965年八ッ峰を完全縦走し剱岳へ(1965) – 昭和39年度春山合宿4年がかりの「剱岳長期計画」の最終年。八ッ峰を完全縦走して剱岳へ。
合宿1976年北仙人尾根~剱岳~早月尾根縦走(1976) – 昭和51年度冬山合宿1人の4年生主将が率いた、北仙人尾根から剱岳、早月尾根への縦走。
合宿1983年北尾根から前穂高岳(1983) – 昭和58年度冬山合宿新入部員が4名に減るなか、初志を貫いた北尾根からの前穂高岳。
合宿1987年南アルプス縦走と北岳バットレス登攀(1987) – 昭和62年度夏山合宿夏山合宿の伝統と、南アルプス縦走・北岳バットレス登攀の記録。
合宿1996年剱岳登頂とチンネ登攀(1996) – 平成8年度冬山合宿厳冬期の剱岳登頂とチンネ登攀を組み合わせた決算合宿。
合宿1999年栂海新道から白馬岳登頂 – 平成11年度春山合宿“未知なる山域での全員縦走”にこだわり、日本海の海抜0mから栂海新道をたどって白馬岳へ。
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