【明大スケート部誕生秘話】山岳部から始まった歴史と100年の歩みを振り返るスケート部誕生秘話

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※本記事は、平成30年7月1日および10月20日発行の『炉辺通信』(No.187・188)に掲載された「Play back 100年 あの日、あの時(第5回・第6回)」を再構成・編集したものです。

目次

スケート部誕生秘話

スケート靴のブレードは厚さ数mmと薄く、初めて履く人なら動くこともままならない。このスケート競技はスキー同様、ウィンター・スポーツの花形として冬季オリンピックや世界大会で人気を博し、日本人選手も華々しい活躍を見せている。そうしたなか、大学スケート界の常勝軍団・明治大学体育会スケート部は、アイスホッケーやスピード競技で好成績を残し、2015(平成27)年に創部90周年を迎えた。

本学スケート部は“山岳部によって創られた”と言われ、また、炉辺会員名簿の誉田実(大正12〜昭和2年)の欄に“スケート部創立者”と記載されているにもかかわらず、これまでこの空白の事実を明らかにすることはかなわなかった。

今回、100周年記念の連載にあたり、山岳部とスケートがなぜ結び付いたのかという不可解なテーマに迫り、山岳部からスケート部の設立に至った道を探っていきたい。この「スケート部誕生秘話」は、ある意味、山岳部の裏面史として綴ってみた。

さて、山岳部の機関誌『炉辺』並びに会報「炉辺通信」には、スケートにまつわる資料はほとんどなく、学内および学外の資料に頼るしかなかった。初めに1957(昭和32)年に発刊された『明治大学年鑑』によると、「スケート部=山岳部スケート班から独立したのが1925(大正14)年である」と紹介されている。

また、明治大学体育課編『体育会略史』(1982年11月1日発行)には、「大正14年創部。当時スケート部は山岳部の中の一グループであった。塚本強、誉田実、新田義夫(新田義美の間違いでは)の諸氏が、赤城湖畔に合宿を始めたのが当部の前身である」とある。

この記述を読むと、スケート部が創立されたのは山岳部創部の3年後であること、さらに山岳部内に“スケート班”的なグループが存在し、“スキー競技班”のように部内で活動していたことが窺える。そのグループの中心として塚本強(大正11〜14年)、誉田実、新田義美(大正11〜15年)の名前が記載されているのは興味深い。赤城湖畔(群馬県)での合宿は後に触れる。

日本のスケート隆盛の前夜

1905(明治38)年、中央線が開通すると、信州にある諏訪地方は代表的なスケート地して脚光を浴び、1907(明治40)年ごろには、正月や冬季の休暇を利用して関東、関西方面からスケート愛好家が諏訪湖に詰めかけた。

こうした人気の高まりを見せるなか1909(明治42)年2月、“諏訪湖一周スケート大会”という、日本で最初のスピード・スケート競技会が開かれ、スケートは単なるレジャーからスポーツ競技としても注目される。

時代が大正に入ると、氷結した湖面を単に滑るだけでなく、フィギュア・スケート、またアイスホッケー競技が生まれ、スケートを楽しむ幅は広がっていった。

日本最初の組織「日本スケート会」が創られた1920(大正9)年秋になると、スケート人気は一層高まり、学生たちに身近な冬のレジャーとして広まっていった。

1923(大正12)年には、北海道帝国大学(現・北海道大学)の本科と予科の間で日本初のアイスホッケーの試合が行なわれる。

翌1924(大正13)年、鉄道省(現・JR)からスキー場並びにスケート場を紹介する最初のガイドブックともいうべき『スキーとスケート』という本が出版される。スキーやスケートを楽しむのは特権階級や学生だけでなく、一般の愛好増えたことを物語っている。

スケートを嗜む山岳部員たち

これまでの調べからスケート部誕生への道筋を大雑把に説明すると――雪山登山やスキー練習に明け暮れる山岳部員の中に、行き帰りの途中、凍った湖や沼の氷上を滑るスケートに興味を示す部員が数人いた。

冬のレジャーとして頭角を現したスケートに、登山やスキーの合間を縫って打ち込み、そのうち同じ湖で滑るほかの大学生と親しくなっていった。

やがて学生同士でスケート競技をしようとなり、山岳部活動と並行してスケートを愛好するグループが、スケート部誕生への布石となる働きとなった。

こうした行為は、今の時代の感覚なら逸脱していること甚だしいが、当時は部活動に対する寛容度が高く、自由に行動できる雰囲気があった。

そうしたなか、山岳部員がスケートを嗜むだけにとどまらず、あろうことか、他校とのスケート競技に参戦しようという大胆不敵な行動に至ってしまう。当時、スキー競技が流行り、同じウィンター・スポーツだから山岳部の活動範囲と捉えていたのだろうか……。

さて、スケートに関して「炉辺通信」に掲載されている唯一の記事を紹介する。

山岳部草創期の部員・三木文雄(大正12〜昭和3年)が、山岳部創立当時のメンバーを振り返り「炉辺通信」に寄稿している。その中で塚本強について、「スケートも大部お上手で、体の形のよい面倒見の良い人で、スキージャンプの飛型審判もされたようです」と紹介している。

また、塚本の1年後輩の誉田実については、「誉田さんはスキーも山もスケートもやられ、今日スケート部の創立者と思っております。スケートがお好きで、塚本さん、遠藤さんと共に鶴見の花月園へよく行かれましたね。アイスホッケー創設に熱心で、塚本さんと苦労されました」と記述している。

この三木の記述と前記の『体育会略史』を参照すると、当時の山岳部員でスケートを嗜んでいたのは塚本強、誉田実、新田義美、遠藤久三郎(大正12〜昭和3年)などであったようだ。

スケートはスキーと違い、山奥に行かなくても麓の湖や沼が凍れば天然のリンクとなり、スケート靴さえあれば楽しめる手軽さがあった。とりわけ新潟出身でスキーが得意な遠藤は、スケートもすでに嗜んでいたのかもしれない。

当時の部員たちは、妙高・関温泉でのスキー合宿の行き帰り、通い慣れた山麓の湖や沼でスケートを楽しんだのではないだろうか。また、三木の一文に「鶴見の花月園へよく行った」とあるように、帰京してから神奈川県の鶴見にあった花月園(後にスケート倶楽部が立ち上がると、身近なトレーニングのリンクとなる)に行き、人工のリンクでスケートをしていたことも分かる。

山岳部員の塚本、誉田たちは、スキーで雪の斜面を滑降する疾走感に負けず劣らず、平坦な氷上でも風を切りながら楽しめるスケートの虜になったのだろう。彼らは進取の気性に溢れていたのかもしれない。

全国学生氷上競技連盟の旗揚げに参画

さて、明大スケート部のホームページによると「大正12年頃、山岳部員が赤城湖畔(群馬県)にて合宿を始めたのが、明大スケート部の前身と言われている」とある。

この“1923(大正12)年のスケート合宿”に焦点を当てると、後に記述する大学間でスケートを競う大会が大きく影響しているように思われる。

身近な冬のレジャーとしてスケートを愛好する学生をはじめ一般の人たちが増えると、諏訪湖はスケートのメッカとなった。

学生たちが暮れから正月にかけ諏訪湖でたびたび顔を合わせるようになり、お互いスケート談義やテクニック自慢を披露する場になったようだ。

1923(大正12)年の冬休み、諏訪湖に集まったのは早大、慶大、明大、東京帝大、日本歯科医専、旧制松本高校(現・信州大)などの学生たちだった。

このころ、スケート部として活動していたのは早大と東京帝大ぐらいで、それも今の同好会のような集まりで、競技指向にはまだほど遠かった。

そのうち学生有志の発案から、年明けにお互いスケートで試合しようと盛り上がる。そこで本学は、スケートを嗜む山岳部のグループに任せろと、仲間で赤城山山頂湖の大沼や小沼などでスケーティングの特訓に励んだのだろう。

それがスケート部の前身となる合宿ではなかったかと推測する。年が明けた1924(大正13)年1月、諏訪大社秋宮脇の特設リンクでアイスホッケーの対抗試合が行なわれた。

参加したのは早大、東京帝大、慶大、旧制松本高校の4校で、明大は人数が揃わなかったのか、それとも技術不足だったのか、赤城山での特訓も空しく不参加となる。この対抗試合は、結果として学生主体のスケート連盟発足へと結び付いていく。

その1924年秋、「日本学生氷上競技連盟(学連)」の前身となる「全国学生氷上競技連盟」が旗揚げする。この連盟発足について『日本のスケート発達史』に、「学生連盟を作ろうと話の具体化を始めたのは早大・小口孫六、柳沢敏文、両角政人、千田正、慶大・髙島直定、帝大・佐藤昌彦、中西久、村津要、日本歯科医専・木末弘、明大・塚本強の諸君で、これらの学生諸君は、さらに全国の大学、高専に呼びかけて学連設立について努力を続けた」と記載されている。実はこの学連設立に関する記事が、本学の新聞「駿台新報」61号(大正13年12月8日発行)に載っている。

「ウィンター・スポーツの季節を控へて昨今、各大学では夫々準備に没頭して活躍せんものと、来る冬休みを待ち構へて居るが、先に日本ウィンター・スポーツ協会の設立を見たが、東大、早大、慶大、日歯、北大(札幌)、二高(仙台)、松高(松本)に本学を加へた8校が種々協議の結果、氷上競技の発展を期すため日本インターカレッジ・エート・スケーティング・ユニオンを組織し、他の競技会に比して甚だその発達の遅々たる氷上競技に貢献せんとして居る。目下、研究材料としては洋書を除く外、殆んど信頼すべき参考書、規則書を有しない日本のために先ず、スピード、フィギュア・スケーティング並びにアイスホッケーの競技規則を作成して同競技の進展を図る筈である」

と記載されている。

この8校によって創られた「日本インターカレッジ・エート・スケーティング・ユニオン」は「全国学生氷上競技連盟」の前身を、また「日本ウィンター・スポーツ協会」は「日本スケート会」を指しているものと思われる。

すでにスケート競技に励む北国の大学や旧制高校に加え、都内ではスケートクラブのある大学とスケート愛好グループのある大学が「全国学生氷上競技連盟」を組織したのだろう。この連盟設立に明大側で尽力した人物こそ、山岳部員の塚本強であったことに改めて驚かされた。

ところで、競技種目としたスピード競技、フィギュア・スケート、アイスホッケーに関する競技規則やルール、さらに採点方法などが整わず、外国の規則集を参考にしなければならない実情があった。

すなわち“スケート”という競技は、まさに何もかもゼロからのスタートであったことが窺える。裏返せば、運動クラブの1つとしてスケート部が置かれている大学はまだ少なく、明大の場合も競技クラブとして活動するより、山岳部の一部の部員たちが、冬のレジャーとしてスケートを楽しんでいたのが当時の姿であった。

第1回学生氷上競技会にエントリーするも再び無念の辞退

学生の氷上競技連盟が創られた翌年の1925(大正14)年1月6〜7日、記念すべき第1回の学生氷上競技会を開くことが決まる。そこでスケート技術の一層の向上と選手の養成が急務となった。連盟加盟した本学はどうしたのか、参考になる史料が前出「駿台新報」61号の一文に引き続き書かれ、山岳部と関わりを示す興味深いコメントが記載されていた。

「尚、明春1月3、4日頃を期してインターカレッジの第1回競技会を諏訪湖、若しくは同湖が結氷せぬ場合は、信州浅間の大リンクに於て行ふ計画である。本学山岳部員の中からアイスホッケーに対する研究を重ねて、同競技に参加することになってゐるから、同競技は氷上競技発達に一大転機を来すことであらう」

と記事は締めくくっている。

第1回競技会に山岳部員の中から選手を出すとあり、それもアイスホッケーにエントリーすると記載されており、驚きを禁じ得ない。前記の三木文雄のコメントにある「誉田はアイスホッケー創設に熱心で……」を裏付ける史料ではないだろうか。

同じ三木の言葉を借りれば、競技会に向け孤軍奮闘する誉田を、連盟設立に関わった塚本とスケート経験のある遠藤がサポートしたと思われる(因みに駿台体育会の昭和49〜50年度OB名簿に、塚本強は「スピード・スケート部」所属と記載されている)。

さらにスケートを嗜む山岳部員はじめ、すでにあった陸上ホッケー部の部員を寄せ集め、アイスホッケーの練習を重ねたのではないだろうか……。

それにしても“氷上の格闘技”と呼ばれるアイスホッケーに、いきなり参戦するとは驚きである。順当に考えればひとりでも参加できるスピード競技が無難な選択であろう。

しかし、当時スピード競技やフィギュアはまだ実力不足と判断、アイスホッケーで初陣を果たそうと考えたのだろうか。それとも、点数ではっきり勝負がつくアイスホッケーが性分に合うとエントリーしたのだろうか。いずれにしても、アイスホッケーという競技を選択した理由は、今をもって分からない。

ところが、あまりにも促成のチームで無理があったのか、前年(1924年)の1月に引き続き、記念すべき第1回の大会も辞退することになる。

この辺のことが「駿台新報」105号(大正14年12月5日発行)に「因に昨年第1回大会には、選手の都合が出場出来なかった—-」と記載されている。“選手の都合”という理由は、試合できるまでレベルが向上しなかったのか、それともチーム編成に必要な人数が集まらなかったのだろうか。いずれにしても、出場辞退に追い込まれてしまった。

1925年1月6〜7日の両日に開かれた第1回学生氷上競技会は、結氷しない諏訪湖から急遽、長野県松本市郊外の六助池に移され、前年同様の早大、慶大、東京帝大、旧制松本高校4校という同じ顔ぶれとなる。

スピード競技は暖冬異変で結氷せず中止、フィギュア男子は人数が揃わず個人競技となり東京帝大、アイスホッケーは早稲田がそれぞれ初優勝を飾って終わる。“山岳部スケート愛好会”的な明大チームは、当時まだ登山やスキーの片手間にスケート練習する程度で、出場した4校との実力差、競技指向への希薄さは致し方なかったのかもしれない。

全国学生氷上競技連盟の発起校として名を連ねながら出場できなかった本校の無念さは、とりわけ山岳部で中心的内容を果たした塚本と誉田にとって残念至極であったことだろう。そのうち塚本強は1925(大正14)年春に卒業、スケート競技への態勢作りは、山岳部後輩の誉田実に託されることになる。

無念の大会辞退から「スケート倶楽部」発足へ

第1回学生氷上競技大会に涙を飲んで辞退したことは、学内でスケートをリードしてきた山岳部の塚本強や誉田実にとって無念であったことだろう。

塚本が卒業すると残された誉田は、これまで山岳部の部員たちが片手間で練習することに限界を感じ、他校と競い合うにはスケート競技に専従できる態勢をつくるしかない考えるに至る。

そして大会を辞退した1925(大正14)年1月から山岳部の誉田実が中心となり、翌シーズンに向けてスケート専門のクラブ発足を目論んだ。

度々史料にする「駿台新報」を調べると、1925年ごろから「スケート倶楽部」という言葉がしばしば登場する。山岳部員の誉田が牽引役となり、スケートに興味を持つ学生たちを募集し、学内に「スケート倶楽部」をつくった。

これが「明大スケート部」の前身と言える。スケート部のホームページはじめ体育会誌を見ると、明治大学体育会スケート部の創立は1925年となっており、それを裏付ける史料ではないだろうか。

さて、新生「スケート倶楽部」は第1回大会辞退の汚名を返上すべく、第2回学生氷上競技大会に向け本格的な練習に入る。「駿台新報」にその意気込みが記載されている――。

「本学スケート倶楽部では、明年1月5、6、7の3日間、信州・松原湖において挙行せられる第2回全国学生氷上競技連盟大会に選手を派遣する事になり、その準備練習のために予科学期試験終了後、直ちに多分22、23日頃より信州・松原湖か、或は富士見において合宿練習をなす由で、部員以外の一般本学学生の合宿参加を希望してゐる。(中略)今年は是非とも参加し、栄冠を獲得せんものと今から各委員は非常に意気込んでゐる」(1925年12月5日発行「駿台新報」105号より)。

また、翌週の「駿台新報」106号には――「スケート倶楽部:27日から一週間、信州・松原湖畔 南佐久郡北牧村・日野旅館に合宿してフィギュア・スケーティング、アイスホッケー、スピード・スケーティングの練習をする外、特に初心者の為めにコーチを置いて指導する。27日午後11時、上野出発」(1925年12月12日発行)と掲載されている。

このように第2回大会には何がなんでも参戦すると、事前に松原湖畔で強化合宿を実施、並々ならぬ意気込みが伝わってくる。その一方、この記事にあるように一般学生を対象に合宿参加を呼び掛け、初心者には専任のコーチを配置して指導するなど、新生「スケート倶楽部」のレベルアップに重点を置いている様子が窺える。

「スケート倶楽部」競技大会へ初陣

ようやく本学に誕生した「スケート倶楽部」に、待ちに待った初陣の時が訪れる。まだ実力が伴わないだろうという予想に反し、様々なハンディを乗り越え奮闘を見せる。その善戦ぶりが「駿台新報」111号(1926年1月16日発行)に――。

「我がスケート部では旧冬28日より新正の8日まで信州南佐久郡北牧村の萬屋旅館に合宿し、前の1週間は規則的な猛練習をなし、5、6、7の3日はインターナショナル氷上大会に今年初めて出場し、新進の名を辱かしめず大奮戦をなした。その成績は左の通りである。 5日 アイスホッケー:対北大に8対0にて敗(準決勝) 6日 スピード・スケーティング(200m):第3着 林君 アイス・リレー(2000m):第3着 7日 フィギュア(男子シングル):第2着 久保君 因みに第2回大会(1926年)には第1回出場の東帝大、早大、慶大、松高に、新たに明大、北海道帝大が加わり6校が出場した。総点数より見れば本学は第3位であった。なお一行は久保、梶、文尾、梅田、林、大和田、橋口の7君で、久保君は同大会が合宿中、種々なる奔走をなした同地青年団のために御礼の意味でコーチをなし、非常な好感を与へて8日解散した」

と記載されている。記事に6校とあるが旧制二高も参加、実際は7校であった。ここで注目したいのは、冒頭に「スケート部」と明記されていることである。「駿台新報」の記事には、この後も「スケート倶楽部」と「スケート部」が混在して出てくる。まだ学友会の公式クラブと認められる以前のときで、名称が不統一であったのかもしれない。

結果、松原湖で開催された第2回大会は、スピード競技で早大、フィギュアは北海道帝大、アイスホッケーでは東京帝大がそれぞれ優勝を飾る。本校はスピード競技総合で3位に入るなど各選手の健闘が光った。入賞した明大選手の顔ぶれを見ると、新に入部した学生で占められ、山岳部と二足ワラジを履く部員は、誉田実を除いて1人もいなかった。

山岳部員の誉田実が主将として牽引

先に塚本強が全国学生氷上競技連盟の発足に関わったことを記したが、もう1人、山岳部員の誉田実の関わりが見えてこなかった。

これまで史料にしてきた「駿台新報」に、ようやく誉田の名前が登場する。1926(大正15)年12月4日発行の「駿台新報」145号に、第3回目の大会に臨む記事が掲載されている――

「シーズンも近くなり本学スケート倶楽部も来る日の準備に忙し。アイスホッケーは主将誉田をはじめとし大いに活躍を期し、スピード・スケートの林、久保、梶の諸君は、既に定評ある人々であるから必ず好成績を得る事であらう。フィギュア・スケートは其人ありと云はれる久保の下は小口、越澤の両君あり、殊に久保の優勝は確実であらう。殊に本学スケート部は、他に先立ち6日より赤城山上大沼に一週間の合宿を行ひ、猛練習を成し、一度帰京の後、直ちに12月26日より全国大学専門学校氷上競技大会の行はるる信州・松原湖に合宿をなすとの事であるから、其の活躍こそ目覚ましいものであらう」

と、初めてスケート関連の記事に誉田の名前が載る。それも“主将”という肩書で、アイスホッケーに出場していた。このことから、三木文雄の証言と符合する誉田の実像が見えた。

この“主将兼アイスホッケー選手”という記述は、誉田が第1回大会のアイスホッケーに出場すべく頑張ったが無念の辞退となり、彼がリベンジを誓い、アイスホッケーに情熱を傾けてきたことを裏付けている。

また、「スケート倶楽部」の主将に誉田が就いてることは、それまでの彼の実績とリーダーシップが評価されてのことだろう。このことは炉辺会名簿に、誉田実が“スケート部創立者”と記載された証ではないだろうか。

大正時代から昭和初期にかけ、異なる運動部を掛け持ちする学生は多かった。山岳部でも馬術部や水泳部、ラグビー部などと二股を掛ける部員は少なくなく、誉田が「スケート倶楽部」と掛け持ちすることはなんら不思議なことでない。

因みに誉田実の山岳部での記録を調べると、1925年7月の夏山第3班に参加、翌26年2月には、上州・鹿澤温泉でのスキー練習に参加している。

また、26年6月に開催された炉辺会の発会式に出席し、同年10月には山岳部の正部員会にも顔を出している。誉田は「スケート倶楽部」を牽引しながら、山岳部の諸活動も決して怠ることはなかった。

ところが、誉田が主将として第3回学生氷上競技大会(1927年1月)に臨もうとしたところ、この大会は大正天皇の崩御で中止となり、学生時代の最後を有終の美で飾ることはできなかった。

1人の山岳部員が孤軍奮闘しながら立ち上げた「スケート倶楽部」は、時代が“昭和”に入ると、新たな部員たちが実力を発揮する。1927(昭和2)年12月に開催された第4回学生連盟競技大会で本学は、スピード競技で総合第2位に食い込み、強豪校の仲間入りを果たすまでになる。

学友会に認められ、「スケート部」が正式に誕生

同好会的な「スケート倶楽部」の活躍が認められ、ようやく学友会加盟する時が訪れる。1928(昭和3)年10月16日に開催された本学の全総務委員会で、また2ヶ月後の12月11日の学友会全委員会で、「スケート倶楽部」は学友会の補助部になることが可決される。

同時に、この学友会全委員会では山岳部から分離独立したスキー部も、学友会への加入が認められる。いみじくも山岳部が母体の「スキー競技班」と「スケート倶楽部」が、「スキー部」、「スケート部」という学友会加盟のクラブとして同時に巣立つことになる。

翌29(昭和4)年4月には補助部がとれ、名実ともに学友会の公式クラブとなる。「駿台新報」215号(1929年4月13日発行)には、「スケート部」主将に久保榮君(フィギュア選手)が就いたこと、また、同226号(同年7月6日発行)には、「スケート部 175円80銭」と予算も配分され、“明治大学学友会スケート部”は活躍の幕開けを迎えた。

今回、山岳部史に置き去りにされていた「明大スケート部」誕生の経緯を調べると、確かに山岳部員が先駆けとなり奔走する足跡が残っていた。

山もスキーもスケートもマスターした“三刀流・誉田実”という1人の山岳部員が、スケート部の前身となる「スケート倶楽部」を立ち上げ、その以前には草創期の山岳部員である塚本強が、全国学生氷上競技連盟の創立に関わっていた。

『スケート部85年史』の「昭和初期の強者たち」という項目に、塚本強について「山男の風格の人。部室で山岳部の方から良く消息を尋ねられた、親しまれた人だった様だ」とあり、また、誉田(ホンダ)実については「姓から『ヨタサン、ヨタサン』と呼んでいた。弁護士さん。話上手で理路整然」と記載されている。

山岳部草創期の2人には、若者特有の未知なるものへの純真な憧れと、他校との競争に燃える母校愛がみなぎっていた。この2人が切り拓いた「明大スケート部」への道は、氷上に光り輝き、その功績は決して小さくはなかった。

そして、ウィンター・スポーツの花形競技となるスキーとスケートのクラブを、本学に産んだ明大山岳部の多面性と包容力、そして底力を改めて知り、山岳部の知られざる側面垣間見た思いである。

(この「スケート部誕生秘話」を執筆するにあたり、本学スケート部OBで大学支援部長の福田敏行様に史料のご提供いただきました。ここに深く感謝申し上げます)

最後に

最後に横道にそれなるが、民俗学で名を馳せた高橋文太郎(昭和2年卒)が、日本古来の橇やスキーなど運搬や遊技用具について執筆した中に、スケートに関わる記述があるので紹介する――。

「スケートが、わが国に輸入されるずっと古い以前から、下駄の底に滑り具を付けた形のものがあった。最近、三河の北設楽郡下津具村で見たスケート下駄と呼ぶ氷滑り具は、下駄の底に滑り金具を付けたもので、何れも村人の自製であったが、斯の如く名前は新しいものであった」

と記している。高橋は先輩の塚本や誉田が、学内にスケート倶楽部を立ち上げたことを、果たして知っていたのだろうか……。

参考資料

  • 「駿台新報」61号(1924年12月8日発行)「いよいよインター・カレッジ・エート スケート・ユニオン8校協議の上 組織さる」
  • 「駿台新報」105号(1925年12月5日発行)「スケート部合宿 松原湖か富士見で」
  • 「駿台新報」106号(1925年12月12日発行)「寒い休暇中は、斯うして暮らします―スケート倶楽部」
  • 「駿台新報」107号(1926年1月2日発行)「期待されるスケート大会 愈々16日から―諏訪湖上で―」
  • 「駿台新報」111号(1926年1月16日発行)「初陣に功を奏したスケート部 成績は本邦で第3位 一行の気勢頼みに挙る」
  • 「駿台新報」114号(1926年2月6日発行)「スケート部 大飛躍 山梨県庁主催のスケート大会で」
  • 「駿台新報」145号(1926年12月4日発行)「松原湖上でスケート大会 飛躍を期すスケート部の面々」
  • 「駿台新報」146号(1926年12月11日発行)「冬休みプラン スケート部」
  • 「駿台新報」165号(1927年7月30日)「明大スケート倶楽部・久保信 スケートの札幌」
  • 「駿台新報」200号(1928年10月20日発行)「全総務委員会開催」
  • 「駿台新報」206号(1928年12月8日)「スケート部必勝を期して花月園リンクに猛練習」
  • 「駿台新報」208号(1928年12月22日)「掉尾の全委員会スケート、スキーは入部可決」
  • 「駿台新報」210号(1929年1月26日発行)「フィギュア選手権を久保君獲得 諏訪湖上に於いて」
  • 「駿台新報」213号(1929年2月23日発行)「関東氷上大会 久保君 惜敗 於日光精銅リンク」
  • 「駿台新報」215号(1929年4月13日発行)「活躍の運動部 各主将も決定」
  • 「駿台新報」226号(1929年7月6日発行)「明治大学学友会収支決算書(昭和4年5月)」
  • 「駿台新報」243号(1930年1月18日発行)「スケート第2位松原湖のインターカレッジ」
  • 「駿台新報」273号(1930年12月13日発行)「合宿希望者を募る 活躍期のスケート部 盛岡・高松池リンクにて 来る21日より」
  • 『山と溪谷』23号(1934年1月1日発行)高橋文太郎「橇とスキーの原始型二三」
  • 明治大学新聞学会『明治大学年鑑』1957年版(1957年発行)「スポーツ36団体紹介」
  • 『明治大学大鑑』創立85周年記念(1965年4月8日発行)「体育部一覧」
  • 『明治大学大鑑』創立90周年記念」(1970年8月18日発行)「体育会」
  • 「炉辺通信」54号(1980年10月10日発行)三木文雄「MAC創立当時の人物評伝」
  • 「炉辺通信」55号(1980年12月10日発行)三木文雄「続MAC創立当時の人物評伝」
  • 社団法人日本スケート連盟『日本のスケート発達史―スピード・フィギュア・アイスホッケー―』ベースボール・マガジン社(1981年11月25日発行)
  • 明治大学体育会『体育会略史』(1982年11月1日発行)「スケート部」
  • 長岡忠一著『日本スキー事始め』ベースボール・マガジン社(1989年1月31日発行)
  • 日本学生氷上競技連盟『日本学生氷上競技選手権大会75回史』(2003年1月6日発行)
  • 駿台スケートクラブ『明治大学体育会スケート部85年史』(2012年12月31日発行)

この記事を書いた人

鳥山 文蔵

  • 昭和49年卒部
  • 日本山岳会宮城支部 会報・編集出版委員会

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