戦後の昭和世代OBにとって「やまろく」(本来なら「やまろく旅館」とすべきところだが、親しみを込め「やまろく」と表記させていただく)という名前がしっくりくる方が多いことだろう。白馬連峰の登山口となる北安曇郡白馬村は、昭和31年まで「北城村」、登山口の八方は「細野」と呼ばれた。また、JR大糸線の白馬駅はかつて「信濃四ッ谷」という駅名で、戦前および戦後の山男たちの憧憬を誘う名である。
我が部にとって白馬連峰は、切っても切れない深い結び付きがある。創部から2年後の大正13(1924)年4月、馬場忠三郎ら3人は北城村の人夫2人を伴い、白馬大雪渓から積雪期初登頂を成し遂げ、昭和5(1930)年3月には、交野武一ら3人に細野の人夫1名で白馬岳から唐松岳までの積雪期初縦走に成功した(「国内活動記録」参照)。
また、八方尾根明大山寮建設の際と二代目の山寮再建では、地元関係者の方々に大変お世話になった。そして山岳部史上、未曾有の遭難者を出す白馬二重遭難が昭和32(1957)年3月に起き、このときも地元の方々から惜しみない捜索協力をいただいた(「岳友たちの墓銘碑」参照)。
遡ること大正13年、白馬山荘を建てた松沢貞逸氏を組合長に「北城村案内人組合」が設立され、登山者の便宜を図った。前述した交野たちの積雪期縦走に人夫として随行したのは同組合の丸山信忠氏で、彼も組合発起人メンバーの1人であった。そして、昭和6(1931)年には、登山者やスキー客のために八方尾根に黒菱小屋が造られ、白馬一帯は登山とスキーの“二刀流”の場所として賑わうようになる。
黒菱小屋建設から4年後の昭和10(1935)年10月に八方尾根・明大山寮が完成すると、のちに細野で「いなば旅館」を経営する前記の丸山信忠氏に管理を委託した(「八方尾根・明大山寮」参照)。
戦後になると、以前にも増して多くの人たちが登山やスキーで白馬に押し寄せるようになり、農家や民家で宿泊客を受け入れざるを得なくなる。昭和25(1950)年3月、細野の農家兼旅館8軒が宿泊施設として認められ、このころ「やまろく」も誕生した。創業者となる丸山勇次郎氏は、白馬山荘で長く責任者を務め、豪放な人柄で登山者に愛されたという。また、彼は昭和3(1928)年、八方尾根にスキー場を拓いた「細野山岳スキークラブ」12人衆のまとめ役で、同クラブが建設した黒菱小屋の初代の小屋番を務めた。
唐松岳から東に張り出す八方尾根は、尾根というよりも広大な斜面で、細野から眺められる白銀の輝きは登山者はもちろんスキー客も魅惑し、多くの人々が押しかけて来るようになる。そのため積雪期になると事故や遭難が多くなり、昭和29(1954)年に長野県遭難対策協議会(遭対協)が発足、白馬岳遭難救助隊を組織した。
明大山岳部並びに炉辺会と「やまろく」との出逢いについては、「炉辺通信」164号(2010年1月)に掲載された加藤博二会員(昭和35年卒)の寄稿が参考になる。それによると、昭和31(1956)年12月の冬山合宿が悪天候で下山した後、八方尾根山寮に集合してスキー合宿を実施した際、細野の「やまろく」に現地連絡所を引き受けてもらったのが始まりという。黒菱小屋や白馬山荘で培われた経験を有し、当時村の惣代だった丸山勇次郎氏と大塚博美会員らの人脈がその礎となった。
翌32(1957)年、細野から八方尾根の中腹まで東急資本の長大なロープウェイが完成し、兎平ゲレンデから幾本かのリフトが伸び、八方尾根は一大スキー場に変貌する。このとき、東急白馬観光開発㈱の白馬営業所初代所長に長野県在住の小澤利一郎会員(昭和6年卒)が就任した。
白馬村全体が活気づく中で起きたのが、同32年3月の白馬二重遭難である。捜索活動中、丸山勇次郎氏の息子で若い吉雄氏は、遭対協に所属する救助隊の第2隊として捜索活動に参加した。この際、「やまろく」は捜索交代の部員やOBの宿泊場所、東京との連絡場所、食糧や燃料の補給基地として明大側を大いに支えた。
こうして「やまろく」と明大山岳部の固い結び付きができた。丸山信忠氏はこのタイミングで八方山寮の管理人を丸山勇次郎氏に譲ったと考えられる。
昭和48(1973)年2月11日、初代の丸山勇次郎氏が亡くなると、2代目宿主・丸山吉雄氏が後を継ぐ。このころは八方尾根・明大山寮の再建に向けた動きが本格化し、炉辺会の山寮再建委員会メンバーが「やまろく」を訪れるたび、吉雄氏は現地の動きを情報提供し、新山寮完成後も引き続き管理人を務めた。
長野県で冬季オリンピックが開かれる前年の平成9(1997)年12月、「やまろく」は「白馬アルパインホテル」としてリゾートホテルに生まれ変わった。父親を手伝ってきた丸山勝美氏が経営を引き継ぎ、ホテルとしての新たな一歩を踏み出した。
新ホテルで忘れられない催しが、白馬鑓ヶ岳遭難から50年の節目となる平成19(2007)年4月29日に開かれた追悼懇親会である。吉雄氏にとって懐かしいOBたちとの再会は、旧交を温める機会となった。
それから2年後、体調を崩していた吉雄氏は平成21(2009)年9月7日に永眠した。その後、三代目の勝美氏が跡を継ぎ、八方尾根・明大山寮の現地連絡先や宿泊支援など「白馬アルパインホテル」として新たな絆を築いている。
「やまろく」とのお付き合いが始まってから65年、これからも「白馬アルパインホテル」との絆が末長く続いていくことを願っている。