もともと「西糸屋」は安曇村の島々で雑貨店を営んでいた。米や味噌、ワラジ、煙草などを販売する西糸屋は徳本峠への分岐点にあり、徳本峠から上高地に向かう登山者にとって、日用品を調達できる最後の店だった。
雑貨店を営む奥原嘉作氏に長男・英男氏と次男の洋司氏が誕生、この2人が上高地の発展に寄与する。とりわけ英男氏は近代登山の隆盛とともに1922(大正11)年、島々に「島々口登山案内人組合(上高地登山案内人組合の前身)」を創設、押されて主務となる。翌年、英男氏は上高地の河童橋右岸に三者共願で借地し、そこに西糸屋(上高地分店的な店)を建て、登山者相手に雑貨や日用品などを販売した。
このころ山岳部は五千尺旅館が管理する放牧小屋を借り、西糸屋との付き合いはまだなかった(「上高地小屋」参照)。その後、英男氏は1928(昭和3)年、上高地にある平屋の売店を2階建てにし、宿泊施設を備える。
ここで山岳部と西糸屋との付き合いを探ると、1930(昭和5)、31(同6)年ごろからではないかと推測する。越部半治郎は「物資の調達は河童橋を渡って西糸屋で調達した」と書いている。
また、1932(同7)年の「上高地日誌」を読むと、「3人になると小屋へ帰って昼飯を炊くのが面倒になる。遂に西糸屋でカツ丼と豪遊、食後2階でフトンの上でのんびりと昼寝をす」とあり、また、「夜は五千尺にて風呂に入り、雨の夜を西糸屋にて雑談して時を過す」とある。
上高地小屋で過ごす部員たちは、当初、五千尺や清水屋に出入りしていたが、このころから西糸屋に行って日用品を買ったり食事をしたり、食後は2階で昼寝をするなど、馴染みの店となっていった。その背景には、温和で面倒見が良い奥原英男さんの存在があり、多感な部員たちを親切にもてなしてくれたからだった。
ところが、前項でも触れたとおり、上高地の明大小屋が1933(昭和8)年の夏をもって使用できなくなると、上高地に出入りする部員たちは、小梨平にテントを張ってひと夏を過ごさなければならなくなる。
1935(同10)年7月24日の「上高地日誌」に「直ちに西糸屋より天幕を出して小梨平106地に張る」と書いてある。西糸屋は上高地に入る部員たちのため、テントを預かるなど何かと便宜を図ってくれたのだ。
宿泊場所として西糸屋が『炉辺』の記録に初めて登場するのは、大坪藤麿と小野木震吉による、1933年10月18日から24日までの上高地行のときである。2人は秋の深まりを見せる奥穂高岳に登り、翌日、大滝山に登って上高地に下った際、西糸屋に投宿している。
このころも徳本峠を越えて上高地に入るため、島々の西糸屋に立ち寄って物品を調達し、入山準備をするのが慣わしだった。そのころ英男氏から「機会があったら上高地の西糸屋にも泊って下さいよ」と勧められていたのだろう。明大小屋もなくなり、穂高や槍ヶ岳へ向かう部員たちにとって西糸屋は、宿泊所として身近な拠り所となっていった。
そうした折、山岳部に初めての死亡遭難事故が起きる。1934(昭和9)年8月11日、横尾本谷でリーダーの針ヶ谷宗次が転倒して水死する(岳友たちの墓銘碑 – 針ヶ谷宗次)。発見された遺体は翌12日、上高地に降ろされると西糸屋の2階に安置され、奥原英男さんはじめ従業員の皆さんに大変世話になったという。この針ヶ谷の遭難が明大山岳部と西糸屋を強く結び付ける大きな契機になったと思われる。
翌年7月28日、故針ヶ谷宗次の一周忌供養が、ご遺族とともに遭難現場で行われた際、ご遺族は西糸屋に宿泊した。
年を重ねるとともに西糸屋との付き合いは深まりを増す。奥谷潤之輔は「西糸屋は大坪先輩と涸沢入りする前日に、戦前は酒がなく、やむなく西糸屋手製の白ブドウ酒を14~15本飲んで、翌日二日酔いで苦しみながら登って以来のつきあいとなった」と書き留めている。無類の酒好きだったという奥原英男氏は、島々で白や赤ブドウ酒を自家醸造し、入山・下山する学生たちに振舞ったようだ。また、英男氏の夫人・奥原となゑさん(教永氏の母)には、母親のように部員たちを世話していただいた。
三代目の奥原教永氏は、幼いころの思い出として「昭和5年生まれの私には、藤井さんに可愛がっていただいた淡い想いと、戦争時代に入って旧制中学生として小生意気になった私を、一人前に扱っていただいた今は亡き助川さんへの哀惜が心に焼きついている」と語っている。
このように戦前の藤井運平や助川善雄への追慕を語る教永氏は「昭和32年9月に亡くなった父にとって、また健在な母にとって、50余年の上高地の営業において、また島々宿での小売商でのなかで、内輪のように輝かしい山岳部の伝統の中に融け込ませて、お引立ていただいた事に誇りを持って家業を続けてこられた」と感謝の言葉を綴っている。まさに奥原家並びに西糸屋と明大山岳部は、家族ぐるみの深い付き合いとなった。
ところが、戦争という暗雲が覆う1944(昭和19)年になると、部活動は休止に追い込まれる。そのためリーダーの助川は、わずかとなった在京部員たちと装備や器具、図書類の疎開に奔走しなければならなかった。装備および器具類は、白馬村細野(現・八方)の丸山信忠氏宅と上高地の西糸屋、それに島々の西糸屋の3ヶ所に分散疎開した。
長い戦争が終わり、これから再開という矢先の1945(昭和20)年10月10日、島々谷川が大雨で氾濫、2階建ての奥原家自宅が1階まで土砂で埋まる被害に見舞われる。島々の西糸屋に疎開した備品はウィンパー型冬用テント2張、夏用テント、ザイル、石油コンロ、寝袋、マットなどで、大きな損失を被ってしまう。
ようやく復興の兆しが見え始めた1949(昭和24)年4月、松本深志高校を卒業(1回生)した奥原教永氏は、闘病を続ける兄・啓央氏に代わり家業を手伝う。4年後に兄が他界すると、次男の教永氏が跡取りとして専念することになる。教永氏は先代の英男氏にも増して山を愛し、時代に合わせた西糸屋の経営に励み、現在の西糸屋山荘の礎を築いた。
その後、大きく発展した西糸屋山荘は、北アルプスでの合宿の際には現地連絡所として大変お世話になった。また、1971(昭和46)年9月、石島修一(4年)が滝谷で遭難したとき(岳友たちの墓銘碑 – 石島修一)、教永氏は遺体収容から慰霊祭まで親身になって対応していただいた。まさに我が部の喜びも悲しみも西糸屋山荘に支えられ、ともに歩んできたと言える。
1982(昭和57)年11月6日、山岳部創立60周年記念懇親会が西糸屋山荘で開かれ、これを切っ掛けに冬季休業に入る前、毎年、炉辺会の懇親会が続けられた。これまで90有余年、西糸屋山荘にお世話になったことは数知れず、感謝しても感謝しきれない。今は教永氏のご長男・宰さん(立大山岳部出身)が四代目として後を継いでいる。