特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

上高地小屋(通称:明大小屋)- 明大小屋のルーツは牧夫小屋

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 穂高連峰や槍ヶ岳を目指す登山者にとって上高地は、昔も今も登山口であることに変わりはない。その上高地に大正末期から昭和初期にかけ、上高地小屋(通称「明大小屋」)があり、当時の部員たちはここを根城に穂高や槍ヶ岳登山に向かっていった。

 機関誌を紐解くと、1926(大正15)年に発行された『炉辺』第3号から1936(昭和11)年発行の第6号までの中に、「上高地小屋日記」とか「上高地小屋日誌」という欄が設けられ、宿泊した様子や思い出が綴られている。さらに登山記録のページをめくると、出発地や帰着地として「上高地小屋」とか「明大小屋」という記述が頻繁に出てくる。当時の部員たちがよく利用した上高地の小屋とは、いったいどんな小屋だったのだろうか。

 『山岳』第9年第2号(1914年9月12日発行)に、辻村伊助氏が撮影した写真「上高地の夏(牛番小屋)」が載っている。恐らくこうした小屋が明大小屋の姿ではないだろうか。

 明治時代、殖産興業で長野県が上高地の牧草地に畜産試験場を設け、夏場だけ柵の中で数多くの牛や馬を放牧していた。周りには、放牧されている牛や馬の管理や世話をする牧夫たちが寝泊まりする小屋が点在していた。やがて上高地に登山客や観光客が多くなると、放牧の牛や馬と登山者との間にトラブルが起き、放牧地は上高地から明神付近へ、さらに徳沢周辺へと梓川の上流へ追いやられていった。

 大正中ごろの上高地には五千尺旅館と清水屋、そして、上條嘉門次が住む嘉門次小屋(のちに内野常次郎が住む)しかなかった。五千尺旅館は登山者が増えると、使われなくなった放牧小屋を格安の賃料で貸し出すようになる。大正末期、我が山岳部が上高地で使った小屋は、こうした、いわゆるレンタルの放牧小屋だった。

1928(昭和 3 )年 8 月、上高地明大小屋の前で。左から田村顕男、交野武一、藤井運平部員

 上高地・西糸屋山荘主人の奥原教永特別会員は「大正12年、我が家が上高地で営業の基礎をつくり始めたころ、すでに明治の皆さんは、梓川の対岸に『五千尺』の小屋を借りて生活されておいでた、と聞いております」と述べている。

 それを裏付ける資料が、1925(大正14)年7月発行の「駿台新報」91号に掲載されている「山岳部では北アルプス上高地・五千尺旅館と交渉して、同地の小屋を借りたので、同部員の往路、また帰途、ここに立寄る者の便を計ってゐる。その外、班に入ってない部員も上高地に遊ぶ者が、ここで自炊する事になってゐるので、中旬から下旬に掛けて上高地の同小屋は我山岳部で賑ふ事であらう」とある。これで五千尺所有の小屋を借りていたことが分かる。

 越部半治郎も「私と上高地」と題した一文に「大正14年から昭和2年頃まで上高地で使用していたMACの山小屋は、河童橋の上手・小梨平の唐松林に囲まれた中にあった。10平方米程度の小屋だったが、丸木で造られた瀟洒なものだった。五千尺が管理していたようで、当時物資は五千尺で行なったように記憶している」と書き留めている。

 また1925年3月、馬場忠三郎、新井長平、遠藤久三郎が人夫を連れ、残雪期の槍ヶ岳と西穂高岳へスキー登山のため上高地に入ったとき「常さんの場を辞して自分達の小屋に入る。小屋は橋を渡って第三番だ。此場が今後数日間の我家だ。五人には少し広いが炉は丁度いい。燃料は充分切り込んである」と記している。冬季期間は五千尺旅館が閉店するので、“上高地の常さん”こと内野常次郎氏に小屋の管理を委託していた。

 やがて上高地小屋にも開発の波が押し寄せる。部日誌を調べると1933(昭和8)年9月19日に開かれた正部員会の議題に「上高地小屋に就て」と「小屋建設候補地視察の件」の2つが載っている。1933年冬をもって上高地小屋は使用できなくなると報告され、新しい小屋をどこに建てるか場所の視察が検討された。

 1933年は島々と上高地の間にバス道路が開通、上高地帝国ホテルも営業を開始する年となる。翌年に北アルプスが「中部山岳国立公園」の指定を受けると、上高地は一気に脚光を浴び、これまでの畜産から観光へシフト、徳沢周辺の牧場は50年余りの歴史にピリオドを打つ。放牧小屋は観光開発のため相次いで取り壊され、明大小屋も壊される運命となる。そして、1935(昭和10)年には乗合バスが河童橋まで運行、上高地は山岳観光地として変貌していった。

 こうして山岳部員たちが長らく利用してきた上高地小屋に別れの日がやって来る。“達公”という渾名の部員が『炉辺』第5号(1931年12月発行)の「囲炉裡辺」に次のように書き留めている「想へば小屋も長らく部のためには良く尽くしてくれたものだ。お前の勤めも年明けだ。お前の勤めは堅実な暖かみで充ちて居た。俺等はそれに対して充分の感謝を捧げている。それがどうだ。近年の似以非登山服装家や道具マニアの夜長話のたまりだ。何!もう今年で何もかも御免を蒙りたいって。そうだらうな。何れ清めねばと思っていた所。張り切っていた昔が、涙の滲む程懐かしいだろう。本眞に山の好きな人々のみしか入れないやうな自分達の山小屋が欲しい」とある。

 1925(大正14)年ごろから利用された上高地小屋は、転々と場所を変えながら1933(昭和8)年の夏まで利用された。ときには雨漏りする粗末な小屋であったが、当時の部員たちにとっては我が家であり、金殿玉楼の別天地であった。まさに草創期から昭和初期にかけ、山岳部員たちを育てた牙城であった。

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