特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

八方尾根・明大山寮 – 戦前は部活動を支え、戦後は部の再建に貢献

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 1933(昭和8)年になると上高地の明大小屋は使えなくなり、専用の山小屋建設が最優先課題となる。当時リーダーの村井栄一や針ヶ谷宗次らは「山小屋検討委員会」を立ち上げ、上級生間で建設場所や規模について話し合いを始めた。同年9月19日に開かれた正部員会の議題に、「上高地小屋に就いて」と「小屋建設候補地視察の件」が記載されている。

 こうした差し迫った案件を相談できる窓口は山岳部長であったが、1932(昭和7)年に就任した春日井薫先生は1年で退任、また、次の太田直重部長もわずか1年未満で辞めるという短命のときだった。当時のリーダー陣に、焦りと苛立ちが募っていった。

 そうしたなか1934(昭和9)年春、自らも登山を実践する予科教授の末光績先生が山岳部長に着任する。早速、中心メンバーの針ヶ谷と田中正信、大坪藤麿の3人は就任早々の末光部長を訪ね、候補地となった八方尾根での山小屋建設について協力依頼を要請する。

 末光部長は学生たちの強い要望に理解を示し、大学に山小屋建設を働き掛けてくれた。部長は当時の木下友三郎総長に山小屋建設を陳情、すると木下総長から「其様に有利な地であれば、他校に手を下されない前に早速、土地だけは借り入れて置くがよかろう」と前向きな言葉をいただく。実は総長の木下氏は日本山岳会の創設期会員(会員番号11)で、登山に理解ある総長であったことが幸いし、山小屋建設計画は一気に前進することになる。

 ところが、山小屋建設が本格化しようとした矢先の1934年8月11日、リーダーの針ヶ谷宗次が横尾本谷に転落、水死するという遭難が起きてしまう。

 それでも部員たちは山小屋建設に邁進する。多額の費用がかかる山小屋建設費を実用に耐える最小限に抑え、当時のお金で1,000円と試算、半分を大学に、残り半分の500円と設備費の数百円はOBに援助してもらうことにした。

 8月26日、山小屋建設の件で炉辺会と部員会合同の会議が持たれ、資金の分担について話し合い、部員側も協力することで大筋合意する。昭和10年度に入ると、建設委員にリーダーの宇野(木谷)六郎、海老根眞雄、鏑木勝男の3名が選ばれ、前任者から事務を引き継ぐ。

 早速、末光部長と新委員の部員たちで3月の残雪期に第1回の現地踏査を行う。5月末の雪解けを見計らい、再び末光部長はじめ委員の部員たちは現地を視察、このとき山小屋建築の請負契約を結ぶ。基礎工事が済んだ9月初旬、部長と部員たちで建築材料の検査を兼ねて棟上げ式に臨み、本体工事に入る。

 そして10月、待ちに待った建物が完成したとの連絡が入り早速、現地に赴く。10月5日朝、細野(現・白馬村八方)を出発して午前11時ごろ、八方尾根に着く。そこには真新しい山小屋が後立山連峰を背に、一行を手招くかのように建っていた。末光部長はじめ総勢11名で竣工検査と落成式に臨んだが、さぞかし感慨無量であったことだろう。

 この山小屋建築の収支が『炉辺』第6号(1936年9月発行)に載っている。建築費の総額は1,215円70銭、内訳は建築費が956円、諸設備関係費が181円52銭、諸雑費が78円18銭とある。これに対する資金は、大学からの補助金が500円、学友会から30円、OBからの寄付金は431円40銭、部長並びに部員からの協力金が254円30銭であった。まさに明大山寮は大学、OB、部長、部員の4者協力で完成したと言える。

 スキー滑走可能となった1935(昭和10)年12月21日から28日まで、初めてのスキー合宿が実施される。末光部長も参加し、総勢26名の部員たちは胸を膨らませ、待望の八方尾根山寮に入った。

 極力予算を抑えた山小屋のため、4年後に増築を迫られる。費用は大学側が負担し1939(昭和14)年10月17日、増築完成の祝いを山寮で開いた。急遽、木下総長が視察を兼ね出席することになり、部員たちは手作り料理で迎えた。紅葉真っ盛りの後立山連峰の眺めを楽しんだ木下総長は、「自然を征服するのでなくして、自然を見て人格を陶冶するのである。自然の内に学ぶ事が登山の意義であろう」と学生たちを励ました。

 戦争による空白を堪え忍んだ山寮は、部活動を再開した部員たちを温かく迎え入れてくれた。戦中、戦後と風雪に堪えてきた山寮は傷みが激しくなり、1954(昭和29)年秋に改築工事を行った。それから3年後の1957年5月、八方山寮の水場小屋が崩壊すると、暮れまでに水場小屋を新築する。また、1959(昭和34)年9月の台風7号で山寮が破損すると、応急修理で凌いだ。

 昭和40年代に入ると山岳部の使用は減ったが、避難小屋としての利用から毎年、降雪がある前に“山寮整備”といって部員たちが石油や薪などの燃料を荷揚げし、また、トイレのかき出しやストーブの煙突掃除など、維持管理に務めた。

 山寮建設から30年が過ぎると、建物全体の老朽化が目立つようになり、山寮をこのまま放置するわけにはいかなくなる。1972(昭和47)年6月、炉辺会は交野武一会長を委員長とする「山寮再建委員会」と、実務を担当する「山寮再建実行委員会」を設け、本腰を入れ自力再建策を探る。しかし、再建資金の工面が難しいのと、山寮借地内の土砂の押し出しと水場の問題が浮上、炉辺会の範疇を超える事態に陥ってしまう。

 そこで、OBで弁護士の名川恵造に相談すると、大学の顧問弁護士である岡村了一氏が担当してくれることになり、地元との間で解決策を図ることになる。1977(昭和52)年3月1日、大学は大町簡易裁判所に民事調停を申し立てる。それから1年半余り過ぎた翌年11月24日、地元、大学両者が合意に達して調停が成立。既存の場所で借地権を更新し、山寮を建て直すことが決まる。

昭和50年ごろ、大分老朽化が進んできた八方山寮。バックは小日向山(手前)と小蓮華山(提供:白馬アルパインホテル)

 二代目となる明大山寮が完成するまで、八方尾根に建てられてから46年余りが過ぎ、山寮は見る影もなく荒廃してしまった。数々の思い出が沁み付いた初代の山寮に別れを告げる会が、1981(昭和56)年7月25・26日の両日開かれ、8月から解体工事に入った。

 本格工事が始まり同年10月29日、二代目の山寮が完成する。外観は急傾斜屋根のスマートな木造2階建て、和室、洋室を備え、浴室や乾燥室も完備する別荘風となる。この二代目山寮の施設管理は大学の管財課が担当し、管理人は引き続き白馬村「やまろく旅館」の丸山吉雄氏が引き受けてくれた(「白馬アルパインホテル」の項参照)。

 新山寮が完成してから17年後の1998(平成10)年2月、長野冬季オリンピックが開催され、八方尾根は一躍脚光を浴びる会場となる。長野オリンピックから遡ること63年前、八方尾根に山小屋を造ったことを想うと、先輩たちの慧眼に感服せざるを得ない。

 八方尾根明大山寮は幾百人もの部員たちを育んだ、まさにMACの“聖地”と言える。

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