富士スバルラインが開通すると、一合目から登る登山者は激減し、旧吉田口登山道もすっかりすたれてしまう。この登山道の「馬返し」の場所に、訪れる人もなく見捨てられたようにひっそりとたたずむ小屋があった。近くには閉じられたままの大石茶屋があり、富士講の歴史を偲ばせる風情が色濃く残る登山道であった。
富士吉田市に住む羽田重正さんが所有するこの小屋は、屋号を「大文司屋」と称し、江戸時代から富士詣でをする参拝者の休憩場所として、この地(標高1450m)に建てられた。初代が建ててから3回ほど建て替えを行い、五代目の羽田重正さんに受け継がれた。
明大OBに羽田さんを紹介したのは、青山学院大学山岳部OBの堀内拓三氏で、同氏と明大OBが日本山岳会学生部で付き合いがあったからだった。堀内氏は富士吉田・恩賜林組合の役員で、羽田さんとは知己の間柄だった。
そこで1977(昭和52)年2月18日、大塚博美、山寮担当の村関利夫ほか4名が羽田さん宅を訪ね、早速借りる話し合いをする。羽田さんからは「遊んでいる土地だから、好きなように使ってもらっていいよ。使用料は要らないから」と快諾をいただく。
そこで工学部出身で建築設計事務所を経営する小林孝次が、既設の小屋を基本に改築設計に入る。6月上旬、大文司屋の改築設計書を作成、羽田さん宅を訪ねて改築工事を依頼する。同年6月下旬から工事に着手。改築費用を軽減させるため、材料や下働きはOBたちが日参し、手伝った。
1977年8月28日、新装なった大文司屋が完成する。羽田重正さんはじめOB、学生、OB家族など40名近くが集まり落成を祝った。「炉辺会クラブハウス」として生まれ変わった大文司屋は、木造平屋建て、建築面積25坪で、12畳敷の居間兼寝室があり、南西に台所を設け、そのほかは囲炉裏を囲んで団欒できるよう土間が広くとられた。
とりわけ約4尺平方の大きな炉は、まさに“炉辺会”のシンボル的存在となっている。当然、電気、ガス、水道はないが、近くにおいしい湧水もあり、山の生活を満喫できる。また、小屋の周りには苔むした栂の大木が生い茂り、快適な自然環境が楽しめる。こうしてでき上がった大文司屋は、OB同士の交流、懇親の場となり、観月会や焚火の会などが定期的に開催され、大きな笑い声や囲炉裏で交わす談笑が、富士山の麓にこだましている。
やがて若手OBから「単なる飲み会だけでなく、立地環境を活かし、少しは運動しよう」との声が上がり、1994(平成6)年からロードレースが始まる。大文司屋をスタート・ゴールに、5合目の佐藤小屋まで標高差820mを登り、再び下る「第1回富士山・大文司屋ロードレース」が開催された。しかし、参加者の高齢化も相まって、しばらくして下火になる。
その後も山寮担当者は大文司屋の維持・改修に努め、囲炉裏は完璧なベンチレーション・システムによる換気となり、以前の煙たかったイメージは一新された。さらに内装、照明なども趣向が凝らされ、モダンな、しかも味のあるウッディハウスに生まれ変わった。このように住み心地が良くなった陰には“山寮仕事人”としての佐々木洋一の存在があり、その管理手腕には頭が下がる。
また、小屋近くに立つ栂の大木を伐採し、大文司屋の危険物を取り除いた。さらに、故大西規雄のご遺族から寄付された50万円を活用し、彼の同期や先輩たちがテーブルや長イスを製作。そこに彼の口癖「『これでええやん』平成11年4月5日 大西規雄」のプレートが貼り付けられた。
2011(平成23)年3月、東日本大震災が発生し、部活動にも少なからず影響を与えた。この年の新人合宿は中止となったが、5月7・8日、大文司屋で新人歓迎会が開かれた。現役学生が宿泊するのは久方ぶりであり、大文司屋は貴重なクラブハウスとして再認識された。
それから2年後の2013(平成25)年6月、「信仰の対象と芸術の源泉」として富士山が世界遺産に登録される。それまで馬返しを通る登山者は少なく、ひっそりとたたずむ山荘だったが、世界文化遺産指定後、一時的に注目を集めた。しかし、その後は再び静かな富士山麓の環境に戻っている。
2020(令和2)年から六代目当主の羽田徳永氏が大文司屋を一部改修し、カフェを営業している。羽田さんは「小屋が現存するのは炉辺会さんのお陰。営業を開始しても、共用していただきたい」と話されており、カフェとクラブハウスの共存が模索されている。
母校の校歌「霊峰不二を仰ぎつつ~」のとおり、大文司屋は明大山岳部並びに炉辺会のクラブハウスとして愛され、末永く利用されることを願っている。