特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

関温泉「朝日屋」- 山スキーに励む部員たちの絆を育んだ母屋

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 大正時代に入ると、氷雪をまとう雪山が登山の対象になっていく。そこでスキー術のマスターが不可欠となった。とにかく滑れなければ雪山に入れないため、シーズン早々からスキーの練習に明け暮れるようになる。当時は、今で言うインストラクターなどがいない時代で、スキー技術は先輩の真似をして、失敗を繰り返しながらもそれぞれの我流で滑りまくった。

 1922(大正11)年に「明治大学山岳会」が創立され、関温泉で初めてスキー練習が行われたのはその年12月からで、17名の参加者があった。練習を終えた部員たちは、「朝日屋」という宿に泊まった。当時、関温泉には山岳部員を泊める宿が数多くあった。

 学習院と旧制四高(現・金沢大学)は「笹屋」、早稲田は「富士屋」と「笹屋」が常宿、そして、「朝日屋」が明治と慶応、旧制三高(現・京都大学)の常宿であった。お互い切磋琢磨しながら山スキーの練習に励んだ。

 旧制三高の今西錦司氏は西堀榮三郎氏との対談で、「朝日屋」に同宿した思い出を次のように語っている「(略)そして、関へ行くと前からのなじみで朝日屋です。2階の端っこに10畳ぐらいの部屋があって、三高の幹部部屋と称してわれわれはそこへ入った。3階の真上の部屋は慶応の幹部部屋でして、慶応のお偉方が入っているんですよ。慶応と三高のほかに明治が同じ朝日屋に泊まっていましたな。(以下略)」

 スキー練習を終えて過ごす「朝日屋」での生活は、当時の学生にとって忘れられない憩いの場となる。機関誌『炉辺』を紐解くと、関温泉での楽しい思い出が数多く記述されている。その中に「関の気分」という言葉が頻繁に登場し、渾名で呼び合うことやアフター・スキーの紅茶会など、雪深い山奥の宿で過ごすひとときが綴られている。

1929(昭和 4 )年 3 月、ゲレンデから見下ろした関温泉全景。朝日屋は中央手前(撮影:馬場忠三郎)

 関温泉でのスキー練習や合宿は1922年冬から、八方尾根に明大山寮が完成する1934(昭和9)年冬まで、12年間も続けられた。部員たちは毎年、関温泉に通い続け、山スキーから競技スキーまで、自らの技能や技術を高めようと打ち込んだ。1932(昭和7)年ごろから関温泉でスキー練習を始めた藤井運平は、当時の朝日屋について次のように記している。

 (略)スキーを冬山の第一歩として、関で教えられ育てられた我々には、朝日屋の主人の人柄のゆえもあって、関が故郷のように帳場の炉辺にすわると心の落ち着きを感じたものである。(中略)我々のしつけの大部分が関でつちかわれたと云っても過言ではない。合宿中、朝から夜まで起居動作が厳しかったが、それ以外の時は非常に楽しい思い出が多かった。(中略)卒業の年に朝日屋の主人久保さんの好意的提供と、北畠(新田)さんのご配慮にて、炉辺会多年懸案のヒュッテとまではゆかなかったが、炉辺会専用の炉辺部屋がゲレンデ寄りの2階建て物置の半分を改造して設けられた。 大晦日、その炉辺開きには、久保さん自慢の16枚の菊花紋付茶釜まで備え付けられ、塚本大先輩をはじめ、宮前、浅川、赤星、小林(行)、宍戸、村木(旧姓:桜川)兄、および合宿を終えた大坪、木谷(旧姓:宇野)、鏑木君ら15、6名集まって夜の更けるのも忘れ、明け方近くまで話し合った。だべり疲れて2階の8畳間で雑魚寝をして、あぶれたヤツは炉辺の回りでゴロ寝したことも忘れられないひとつである。

 昼間のスキー練習が終わって「朝日屋」に帰ると、そこは礼儀作法から朝の出発準備や帰着してからの整理整頓まで厳しく教える場となった。藤井の一文に、「朝日屋」の別棟(物置)2階に明大山岳部と炉辺会専用の部屋をわざわざ作ってくれた、という記述がある。

 これまでの長い付き合いからか、それとも明大生やOBはうるさくて、ほかの学生やお客に迷惑をかけられないと、主人の久保俊治氏が別棟に専用の部屋を設けてくれたのだろうか。いずれにしても、当時の部員たちにとって、この上ない喜びであった。

 まさしく関温泉「朝日屋」は、創部当時から雪山登山に必要な山スキーのトレーニング・センターとなり、明大の山男を育む合宿所であった。そして、たびたび登場する「朝日屋」の帳場の“炉”は、私たち山岳部の機関誌『炉辺』に通じ、OB会の名称につながったのではないだろうか。

 山岳部からスキー競技班が分離、明大スキー部が誕生したことを思うと、関温泉は明大スキーの“発祥の地”とも言える。

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