植村直己(うえむら・なおみ、1941〜1984年)は、明治大学体育会山岳部で本格的に山を始めた冒険家です。1960(昭和35)年に入部し、積雪期の剱岳で鍛えられた青年は、卒業後わずか数年で日本人初のエベレスト登頂と世界初の五大陸最高峰登頂を果たし、やがて犬ぞりで北極点へと向かいました。
この特集では、明治大学山岳部のOB・OG会「炉辺会」が会報や部報、記念誌をもとに公開してきた植村直己の関連記事を、山岳部時代から1984年のデナリまで、時代の順にまとめて紹介します。仲間や後輩だからこそ書ける記録を通して、「世界のウエムラ」の原点をたどってください。
植村直己のプロフィール
- 生年
- 1941(昭和16)年2月12日
- 出身
- 兵庫県城崎郡国府村(現・豊岡市日高町)。県立豊岡高校卒業
- 山岳部
- 明治大学体育会山岳部 1960〜1964年在部(昭和39年卒)。あだ名は「ドングリ」
- 主な記録
- ゴジュンバ・カンⅡ峰初登頂(1965年)/日本人初のエベレスト登頂(1970年)/世界初の五大陸最高峰登頂/北極圏1万2000km犬ぞり単独行(1976年)/北極点単独到達とグリーンランド縦断(1978年)/デナリ冬期単独初登頂(1984年)
- 受賞
- 菊池寛賞、英国バラー・イン・スポーツ賞、国民栄誉賞(1984年)
- 最期
- 1984(昭和59)年2月、デナリ(旧マッキンリー)冬期単独登頂後の下山中に消息を絶つ
年表で見る植村直己の歩み
- 1941年兵庫県の但馬地方に7人姉弟の末っ子として生まれる
- 1960年明治大学に入学し、体育会山岳部に入部
- 1961〜64年山岳部の「剱岳長期計画」で積雪期の剱岳に通う。1963年春には黒四ダムから5日間の積雪期単独行
- 1964年明治大学を卒業。5月、移民船で横浜を出港し、世界へ
- 1964〜68年世界を放浪しながらモンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアに登頂。アマゾン河6000kmをイカダで下る
- 1965年明治大学ゴジュンバ・カンⅡ峰登山隊にフランスから合流し、4月23日にシェルパのペンバ・テンジンと初登頂
- 1967年伊藤頌司とともに、シャモニの「国際アルピニスト集会」に日本代表として参加
- 1970年日本山岳会エベレスト登山隊に参加し、日本人として初めてエベレストに登頂。続くマッキンリー登頂で世界初の五大陸最高峰登頂者に
- 1972年グリーンランド最北の村で約10ヶ月暮らし、犬ぞりの扱いを身につける
- 1976年北極圏1万2000kmの単独犬ぞり走破を達成
- 1978年犬ぞりで北極点に単独到達(4月29日)、続けてグリーンランド縦断に成功(8月22日)。道中で氷雪の学術サンプルを採集
- 1980〜81年日本冬期エベレスト登山隊を率いる。高所医学と氷河調査の学術班を同行させた
- 1984年2月12日、43歳の誕生日にデナリ冬期単独初登頂。下山中に消息を絶つ。炉辺会が捜索隊を派遣。4月、国民栄誉賞
- 2024年植村冒険館で特別企画展「植村直己・わが青春の山岳部」。デナリから40年の墓参と偲ぶ会
山岳部時代 ―剱岳で鍛えた「ドングリ」
1960(昭和35)年に入部した植村は、目立たない新人でしたが、負けず嫌いで粘り強い部員でした。当時の山岳部は、主将の木村敏之(昭和38年卒)が立てた「剱岳長期計画」のもと、冬山と春山の合宿で剱岳周辺に通っていました。建設中の黒部ダム(黒四ダム)の工事事務所に入下山で世話になりながら、植村は2年生の冬山合宿で早月尾根から剱岳に登頂し、3年生の終わりにはサブリーダーに推されます。
サブリーダーとして臨んだ1963(昭和38)年の春山合宿のあと、植村は合宿で残った食糧と燃料をもらい、テントなし、スコップひとつで5日間の積雪期単独行に出ました。のちに自著で「自分がリーダーとして人の上に立つための試練と考えた」と振り返ったこの山行が、生涯にわたる単独行の出発点になりました。

世界の山へ ―ゴジュンバ・カンからエベレストへ
卒業後、移民船でアメリカに渡った植村は、フランスのスキー場で働きながらアルプスに通っていました。1965(昭和40)年、明治大学初のヒマラヤ遠征となるゴジュンバ・カンⅡ峰(7646m)登山隊が急きょ植村をメンバーに加え、植村はシェルパのペンバ・テンジンとともに12時間の苦闘の末、未踏の頂に立ちます。
その後もモンブラン、キリマンジャロ、アコンカグアに登り、1967年には母校の後輩・伊藤頌司とシャモニの国際アルピニスト集会に参加。1970(昭和45)年、日本人として初めてエベレストの頂に立ち、同じ年のマッキンリー登頂で世界初の五大陸最高峰登頂者となりました。
遠征記録1965年明治大学ゴジュンバ・カンⅡ峰登山隊(1965)植村とペンバ・テンジンが初登頂した、明大山岳部初のヒマラヤ遠征の隊員・行動記録。
Play back1965年波乱に富んだ、初めてのヒマラヤ遠征 ―登頂したピークはゴジュンバ・カンⅡ峰フランスにいた植村を隊に加えた経緯や、登頂後に「植村の写真を探せ!」と慌てた留守本部の秘話。
Play back1967年国際アルピニスト集会に参加した明大の2人 ―植村直己と伊藤頌司、1967年シャモニフランス山岳連盟が招いた国際集会に、なぜ明大OBの2人が日本代表として選ばれたのか。
遠征記録1980〜1981年明治大学エベレスト登山隊(1981)明大創立100周年記念のエベレスト計画。植村の冬期登山とセットで進められ、議論の場での植村の発言が両者をつないだ。
学術調査1980年日本冬期エベレスト登山隊 学術班(1980)「冬のエベレストでなければできない調査を」という植村の発案で編成された、高所医学と氷河調査の学術班。
極地へ ―犬ぞりで北極点とグリーンランドを走る
エベレストのあと、植村の関心は「垂直から水平へ」と移ります。グリーンランド最北の村で暮らして犬ぞりを覚え、1976(昭和51)年に北極圏1万2000kmを単独で走破。1978(昭和53)年には犬ぞりで北極点に単独で到達し、続けてグリーンランドを縦断しました。
この旅で植村は、名古屋大学水圏科学研究所の依頼を受けて、雪の結晶のレプリカや新雪の水、大気中の粒子などのサンプルを採集しています。六分儀で現在地を測るうちに地図の誤りに気づき、のちに人工衛星の調査で植村が正しかったことが確かめられました。冒険家としてだけでなく、観測者としての植村の姿が見えてきます。
デナリ、最後の冬 ―そして今も
1984(昭和59)年2月12日、43歳の誕生日に、植村は北米最高峰デナリ(旧マッキンリー、6190m)の冬期単独初登頂を果たしました。しかしその後、悪天候が続くなか、下山の途中で消息を絶ちます。炉辺会はすぐに対策本部を設け、2次にわたる捜索隊と航空写真による捜索を行いました。頂上で植村が立てた日の丸と星条旗は見つかりましたが、植村本人は今もデナリの山懐に眠っています。
没後40年となる2024年の誕生日には、山岳部の仲間たちが墓参と偲ぶ会を開きました。同じ年には植村冒険館で山岳部時代の写真展が開かれ、同期と後輩が当時の思い出を語っています。
著書と関連書籍で知る植村直己
植村自身の著書には、山岳部時代の思い出や、冒険のさなかの迷いや恐れが率直に書かれています。山岳部の同期が書いた評伝とあわせて読むと、その人柄がいっそう身近に感じられます。
植村直己が育った明治大学山岳部
植村直己が山と出会った明治大学体育会山岳部は、1922(大正11)年の創部から100年を超えました。今も現役の学生たちが合宿やトレーニングを重ね、山に向かっています。山岳部の歩みや、ほかのOBたちの挑戦もあわせてご覧ください。
















