1950年代にヒマラヤ登山の発展期を迎えると、遠征した登山隊は雪上に残された大きな足跡に出くわし、“雪男(イエティ)”のニュースが世界を駆け巡った。その発端は、イギリスのエベレスト遠征で主導的な役割を果たしたエリック・シプトンである。
1951(昭和26)年、エベレスト登山隊を率いた際に氷河上に残された足跡を発見し、その写真を公表した(この発見が後のイギリス登山隊の資金調達のため利用されたという説もある)。
その後、1954(昭和29)年にイギリスの「デイリー・メール通信ヒマラヤ探検隊」が現地で配布した雪男の想像図により、雪男は類人猿のような動物として認識されるようになった。これにより“雪男幻想”に拍車が掛かり、ある種の“雪男ブーム”が巻き起こった。
そうしたなか、東京大学医学部の解剖教室内に脳の解剖学者である小川鼎三教授を代表とする「日本雪男研究グループ」が結成された。そして、実際に雪男が存在するのかどうかを調べるため、探検隊が派遣された。
毎日新聞社、日本教育テレビ(テレビ朝日の前身)、毎日放送の3社が主催し、文部省と日本山岳会が後援する形で探検隊が組織された。この探検隊に、マナスルから帰国した大塚博美が参加することになった。
日本雪男研究グループ 学術探検隊
- 活動期間:1959(昭和34)年11月~1960(昭和35)年2月
- 目的:ネパールのクーンブ地域で雪男探索
- 探検隊の構成:
- 隊長:小川鼎三(東京大学医学部教授・解剖学)
- 副隊長:林寿郎(元上野動物園園長)
- 隊員:山崎英雄(比較動物学、のちに札幌大学教授、第2次マナスル登山隊員)、大塚博美(35歳:第2・第3次マナスル登山隊員、日本教育テレビ)、依田孝喜(毎日新聞写真記者)、尾崎陽一郎(毎日放送カメラマン)
この学術探検隊は、米ソがまだ足を踏み入れていない南西エリアの山岳地帯クーンブ地域を対象に、足跡を見付けやすい冬を選んで調査を実施した。
12月17日にベースキャンプに到着し、翌年2月上旬に引き上げるまでの約50日間、3回にわたって雪男の探索を行った。しかし、暖冬異変で降雪が少なく、雪男の足跡は発見できず、実存の確証までつかむことはできなかった。
このときの探索の様子を大塚は、日本山岳会の機関誌『山岳』第55年(1961年3月発行)に、山崎英雄と共著で「冬のソロ・クーンブ」と題して執筆している。
雪男への興味と後の探索活動
大塚が雪男に興味を抱いたきっかけは、マナスル登山で一緒だったシェルパのギャルツェン・ノルブから聞いた雪男の話だった。摩訶不思議な動物人間に引き寄せられた大塚は、次第に雪男の幻影に取り憑かれるようになる。
そしてギャルツェンから「一緒に雪男を探してみないか」と誘われ、探索への思いが高まり、この「日本雪男研究グループ 学術探検隊」に参加することになった。
探検隊は、ラマ教寺院に保存されていた雪男の頭皮の一部を日本に持ち帰り、東京大学医学部の解剖室で分析を行ったが、人間か動物かの特定には至らなかった。当時の技術では顕微鏡での分析に限界があったが、謎の「雪男」は国民に神秘性を抱かせる存在となった。
日本の学術探検隊に続き、2年後の1961(昭和36)年には、エベレスト初登頂者のエドモンド・ヒラリーもイエティを探索した。しかし、ヒラリーが地元住民から購入した毛皮は鑑定の結果、ヒグマのものと判明した。
雪男探索のその後
この探検隊の後、大塚はエベレストへの地図や写真を持ち帰り、日本のエベレスト挑戦への大きな一歩を築いた。そして1970(昭和45)年、大塚は日本山岳会エベレスト登山隊の登攀隊長として参加する。
この登山が終わった際、登山隊のサーダーを務めたチョタレイは、大塚に「自宅にチベット人から買い取った雪男の足がある」と打ち明けた。チョタレイの家でその足を受け取った大塚は、以前の探検隊隊長だった小川教授に鑑定を依頼。その結果、「ヒグマの右足」であると判明した。
大塚博美と雪男の縁は、マナスル登山や雪男探索で深まったシェルパたちとの交流を通じて続いていった。そして雪男の正体解明は後輩の根深誠(昭和45年卒)に引き継がれていく。