悠久の自然に囲まれ孤高を保つ山小屋は、雨の日も雪の日も温かく迎え入れてくれ、また、里へ降りていくときには「また来いよ」と無言で見送ってくれる。身も心も温めてくれる小世界に癒され、安らぎを感じてきた山男たちは多かろう。
創部以来、私たちは山スキーの練習で通った常宿をはじめ、登山口や尾根、峠にある山小屋で至福のひとときを過ごしてきた。古くは、そこにある囲炉裏(いろり)を囲んでは一日の山歩きを語らい、また、炉端で暖まりながら明日からの山行に想いを馳せたことであった。
言うまでもなく、明治大学山岳部の機関誌『炉辺』とOB会の名称「炉辺会」のネーミングは、この“囲炉裏端”から名付けられたものである。
青春時代に安息の場を提供し、英気を養わせてくれた懐かしい住処は、これまで数多くの部員たちを育て、そして、彼らを多くの頂に導いてくれた。これまで長きにわたって支えてくれた恩に対し、感謝を込めて「100年間のありがとう」を捧げたい。
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クラブハウス大文司屋 – 世界遺産・富士山の麓にたたずむ古の茶屋
富士スバルラインが開通すると、一合目から登る登山者は激減し、旧吉田口登山道もすっかりすたれてしまう。この登山道の「馬返し」の場所に、訪れる人もなく見捨てられたようにひっそりとたたずむ小屋があった。近くには閉じられたままの大石茶屋があり… -
白馬アルパインホテル(旧やまろく旅館)- さまざまな支援、協力をいただいた忘れじの宿
戦後の昭和世代OBにとって「やまろく」(本来なら「やまろく旅館」とすべきところだが、親しみを込め「やまろく」と表記させていただく)という名前がしっくりくる方が多いことだろう。白馬連峰の登山口となる北安曇郡白馬村は、昭和31年まで「北城村」… -
八方尾根・明大山寮 – 戦前は部活動を支え、戦後は部の再建に貢献
1933(昭和8)年になると上高地の明大小屋は使えなくなり、専用の山小屋建設が最優先課題となる。当時リーダーの村井栄一や針ヶ谷宗次らは「山小屋検討委員会」を立ち上げ、上級生間で建設場所や規模について話し合いを始めた。同年9月19日に開かれた正… -
上高地「西糸屋山荘」- 喜びも悲しみも寄り添ってくれた山宿
もともと「西糸屋」は安曇村の島々で雑貨店を営んでいた。米や味噌、ワラジ、煙草などを販売する西糸屋は徳本峠への分岐点にあり、徳本峠から上高地に向かう登山者にとって、日用品を調達できる最後の店だった。 雑貨店を営む奥原嘉作氏に長男・英男氏… -
上高地小屋(通称:明大小屋)- 明大小屋のルーツは牧夫小屋
穂高連峰や槍ヶ岳を目指す登山者にとって上高地は、昔も今も登山口であることに変わりはない。その上高地に大正末期から昭和初期にかけ、上高地小屋(通称「明大小屋」)があり、当時の部員たちはここを根城に穂高や槍ヶ岳登山に向かっていった。 機関… -
関温泉「朝日屋」- 山スキーに励む部員たちの絆を育んだ母屋
大正時代に入ると、氷雪をまとう雪山が登山の対象になっていく。そこでスキー術のマスターが不可欠となった。とにかく滑れなければ雪山に入れないため、シーズン早々からスキーの練習に明け暮れるようになる。当時は、今で言うインストラクターなどがい…