– スイス・アルプスの話を部員たちに語ってくれた先輩部長 –
初代山岳部部長に就任した大谷美隆
明治大学に誕生したばかりの山岳部に、山岳部長として初めて就任した先生は、同窓の先輩である大谷美隆(おおたに よしたか)氏である。明治大学山岳部は、1922(大正11)年6月16日に学友会体育部の補助部として認められ、部活動をスタートさせた。しかし、山岳部を担当する部長先生は、大学側からすぐには派遣されなかった。
スイス帰りの法学部教授が山岳部長に
留学を終え1922年7月に帰国した大谷先生は、母校の法学部教授に就く。ちょうどそのころ、創部されたばかりの明大山岳部は部長が空席となっていた。そこでヨーロッパ・アルプスに囲まれるスイスから帰国したばかりの大谷先生が、誕生間もない山岳部の部長に最適と、大学側が先生に要請したのではないだろうか。このとき先生はまだ若干28歳、山岳部員たちから見れば兄貴分のような年齢で、若々しい部長の就任となった。
アルプスの体験を語る大谷部長
明治大学山岳部の機関誌『炉辺』第1号の「記録」欄に、1922年10月14日、夏期山行の報告会に大谷部長が出席、留学先のスイスで体験した山登りの話を部員に語ってくれたことが載っている。おそらく大谷先生はベルン大学の余暇活動などで、先生に引率されて近くの山に登ったり、また、学生同志のグループで近くの山歩きに出かけたのではないだろうか。
そうした話を山岳部長に就任して2か月後に、早くも部員たちに披露してくれた。本場アルプスの話を聞いた部員たちは、羨望の眼差しで聴き入ったことだろう。そして、遠い異国のアルプスの山並みに夢を馳せたに違いない。
関東大震災と山岳部活動の変化
大谷先生が山岳部長に就任した翌年の1923(大正12)年2月1日、山岳部の専用部室が確保され、2月20日に学友会の全委員会において、学友会体育部の補助部から正式なクラブとして認可される。
ところが、着任して1年後の1923年9月1日、関東大震災が起き、大谷部長は甚大な被害を受けた母校の再建に取り組まざるを得なかった。そのため山岳部に関わることは少なくなり、やがて山岳部長に留まることができなくなってしまった。
退任後も続く山岳部への配慮
大谷先生が山岳部長を辞してから4年後の1928(昭和3)年6月13日、再建された明治大学記念館の講堂で、慶応義塾大学山岳部OBの槇有恒氏を招いて講演会が催された。実はこの槇氏を招聘し、講演会を開いてくれたのは大谷先生であった。
山岳部長を退任してからも山岳部の活動を見守り続け、道半ばで離れた山岳部のため何か役立つことをして貢献したいと思い続けていたのだろう。この講演会の後、槇氏と部員、OBを囲んでの夕食会まで設けてくれた。改めて本学の先輩で、初代山岳部長に就いた大谷美隆先生の心温まる配慮に胸を打たれる思いである。
学術と山岳活動の両立を目指して
この講演会が催された翌1929(昭和4)年、法学部教授の大谷先生が精魂傾けた「明治大学刑事博物館(現・明治大学博物館刑事部門)」が開設され、私学におけるユニバーシティ・ミュージアムの先駆けとなった。
創部されて間もない明大山岳部は、“部長と部員”という垣根を越え、“先輩と後輩”、“兄貴と弟”という固い絆で歩み出した。