特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

第11代山岳部長 渡辺操 : 三度の遭難、二度の海外遠征と、苦楽をともにした部長人生

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 戦後初めての小島憲部長以来、久しぶりに母校の先輩が山岳部長に就く。前任の三潴信吾先生が急遽、明大を去ることになり、明大出身の専任教授である渡辺操(わたなべ みさお)先生が1957(昭和32年)3月に就任する。渡辺先生が山岳部長に就くやいなや山岳部史上、未曾有の遭難が起きてしまう。先生49歳の誕生日を目の前にした3月12日、白馬鑓ヶ岳で千葉大学山岳部の学生を巻き添えにする二重遭難が起き、明大3名、千葉大2名の尊い命が失われてしまった(岳友たちの墓銘碑 – 白馬鑓ヶ岳・二重遭難)。この遭難で、初対面に近い新しい部長が真摯に立ち回る姿勢を見て仲間意識が生まれ、皮肉にも着任したばかりの渡辺部長と部員およびOBとの間に固い絆が結ばれた。

 大塚博美は遭難現場まで来ていただいた渡辺部長について―「黒い帽子に、黒いオーバー、そしてゴム長。雪の山道を猿倉まで、大きな身体を小さくかがめ『ご苦労さまでしたね―、よろしくお願いします』と声を低めての慰めと挨拶の言葉は、私にとって、あの戦慄する思いの雪崩生還体験と、雪に埋まった5人の仲間の果てしなく続いた捜索—今なお寸時に心に浮かびます。『ラッコさん』のニックネームも、あの二重遭難の大捜索が続けられた基地・細野部落の民宿『やまろく』で、同じ釜の飯を食いながら、共に苦労を通じて、すっかりなじみあったから、私達の慣例に従って畏敬をこめて献上したものです」と述懐している(「ラッコ先生の想い出」より)。

 ところが、渡辺部長に再び凶報がもたらされる。二重遭難から2年後の1959(同34年)8月13日、夏山合宿で1年生の右川俊雄が急死(岳友たちの墓銘碑 – 故 右川 俊雄)、さらに同年12月24日、立山の雷鳥沢で冬山合宿中に雪崩が襲い、1年部員の矢沢剛が死亡するという遭難が相次いで起きる(岳友たちの墓銘碑 – 故 矢沢 剛)。渡辺先生が山岳部長に就任してわずか3年の間に遭難事故が3件発生、5名もの尊い命を失う最悪の事態に直面してしまった。

 このように在任中、遭難という“暗の時代”もあったが、その反対に“明の時代”もあった。それは海外渡航が難しい時代に派遣された海外遠征である。一つは戦後初めてのマッキンリー(現・デナリ)遠征である。この遠征は渡辺部長の発案により“学術調査団”に“山岳班”を盛り込むことで実現、1960(同35年)5月、登山隊は見事、北米最高峰の登頂に成功する。また、1964(同39年)に「第1次ニュージーランド親善登山隊」、翌年には「第2次隊」を派遣し、南半球の高峰で学生部員は貴重な体験を積んだ。

 その後、本学初めてのヒマラヤ遠征となるゴジュンバ・カン登山隊が出発する。この登山隊の正式名称は「明治大学ネパール・ヒマラヤ学術調査隊」と謳ったが、諸事情により、面目を保つため渡辺部長1人だけの学術調査隊となる。

 1967(同42年)ごろになると、都内の大学キャンパスでは学生運動が頻発する。東大安田講堂の闘争や神田カルチェラタン事件などが続き、本校もバリケード封鎖やロックアウト状態となる。山岳部は学生運動の煽りを受け、合宿計画や準備に支障が出た。そうした最中、渡辺部長は膵臓癌を患い、都内の癌研病院に入院する。しかし、治療の甲斐なく1970(同45年)2月20日、他界する。享年61。

 ちょうどそのころ、日本山岳会のエベレスト登山隊が世界最高峰に向かっていた。この登山隊に参加していた大塚博美は「日本山岳会エベレスト登山の時、先生の訃報が届いた。ベースキャンプの一隅で、明大から参加した6名でひっそりと追悼のお線香をあげました。死者の霊が、そこここに眠るようなエベレストのベースキャンプでしたが、ラッコさんの訃報は、ひとしおの想いで私たちに迫ってきました」と書き留めている。渡辺部長時代の部員であった土肥正毅と植村直己にとっては、心痛む訃報であった。結果、植村が日本人として初めてエベレストの頂に立ち、恩師・渡辺操先生への大きな恩返しとなった。

 渡辺操先生の61歳の人生の中で、山岳部長の在任期間は14年も占め、人生のおおよそ4分の1近くを山岳部に関わっていただいた。その中で連続する遭難ではご苦労をかけ、また、海外遠征では一方ならぬご支援をいただいた。渡辺部長の下で育った山岳部員は82名を数え、中途で退部した部員を含めると優に100名を超える部員の部長先生であった。

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