特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

故 右川 俊雄(昭和34年入部)

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基本情報

項目内容
死亡日1959(昭和34)年 8 月 13 日
山行計画夏山・南アルプス合宿(全山縦走)
山行メンバー前半縦走A班(甘利山~鳳凰三山~白根三山~塩見岳~三伏峠)
CL=田村宏明(昭和31年入部 4 年)、SL=三室喜義(同32年入部 3 年)、鈴木伊和雄(同32年入部 3 年)
正部員=柴田興志(同33年入部 2 年)、末松清剛(同33年入部 2 年)、縣幸雄(同33年入部 2 年)
新人=右川俊雄、矢沢剛、黒川惣一、須田紀子、平(いずれも同34年入部)計11名
死亡原因急性腎臓炎(病院で死亡)

死亡経過概要

 1959年度の夏山合宿は、恒例の南アルプスをフィールドに、前半は4隊による分散縦走、後半は全体で南アルプス南部を縦走する計画で実施された。前半縦走のA班は、8月2日の朝、韮崎に着き、早速登山活動を開始、椹池に幕営した。

 翌3日、椹池を朝5時過ぎに出発し、6時45分に甘利山に登頂。この日の幕営地である大馴鹿峠を目指し縦走していた際、新人の右川俊雄が異常な疲労状態に陥った。リーダーの田村は、歩行困難と判断し、上級生の三室と柴田の2名を付き添わせて右川を下山させることにした。本隊は翌4日、大馴鹿峠から午前11時30分に南御室に到着し、ここで三室たちからの連絡を待つため行動を一時中断した。

 一方、右川を連れて下山した三室と柴田は韮崎市立病院を訪れ、診察を受けた結果、疲労から腎炎を発症した初期症状と診断された。その後、韮崎市立病院からの紹介で東京関東逓信病院に向かい、右川を入院させることに。東京関東逓信病院での診察では単なる疲労と診断され、安静にすれば回復すると告げられた。その診断書を持参し、三室と柴田は本隊へと戻った。

 A班は縦走を続け、8月10日に三伏峠に到着。この際、田村リーダーは二軒小屋経由で戻った三室から診断書を見せられ、右川が入院したことを報告される。これを確認した田村は、予定どおり縦走を続行することにした。

 しかし、東京関東逓信病院に入院した右川は、その後病院の誤診により腎炎から尿毒症を併発、急性腎臓炎により8月13日午前11時30分に死亡した。夏山合宿のメンバーが右川の死亡を知ったのは、千頭ダムを経由して大間に下山した8月19日。東京からの連絡で初めて知り、田村リーダー以下部員たちは大きな衝撃を受けた。

 合宿中に体の不調を訴え、その後に死亡するという痛ましいアクシデントであった。山岳部に夢を抱いて入部した右川俊雄の病死は、体調把握と健康管理の重要性を改めて教えるものとなった。

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