基本情報
遭難発生日 | 1984(昭和59)年 2 月13日(推定) |
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登山計画 | デナリ(旧名マッキンリー、6190m)冬期単独初登頂 |
遭難場所 | デナリ・パス付近(推測、行方不明) |
遭難概要
植村は2月1日から登山を開始し、彼が書き留めた日記は6日で終わり、7日以降の足取りは、取材陣や空から撮影したパイロットとの無線交信や目視での証言から探るしかない。6日、ウェスト・バットレス下部4200mに着き、11日には5200m(植村が作った雪洞)まで登り、登頂の機会を狙っていた。
植村がデナリに登頂する12日、午後2時ごろ登頂するだろうと、TV撮影スタッフはフライトした。そして、デナリ・パスから約100m上った5200m地点を登る植村を捉え、無線交信した。そのとき植村は「後2時間ほどで頂上に着きます」と答えてきた。撮影スタッフは、午後4時に再びフライトする。そのときの植村の位置は2時間前とほとんど変らず、風が強いのか、思いのほか時間がかかっている様子だったという。
翌13日、TVスタッフは登頂後の植村を再度取材すべくトーマス機で飛行すると、午前11時、無線交信で植村の肉声が返ってきた。それによると、2月12日午後6時50分登頂、下山ルートを誤り、付近でビバークしたとのこと。13日は午前9時に行動を開始、頂上からずっとトラバースして、現在地の標高が20000ft(約6100m)ということであった。このときノイズが多く聞き取りにくかったが、植村の声は割合に元気だったという。
14、15日の両日は悪天候で、植村と連絡は取れなかった。16日、植村と契約したパイロットのダグ・ギーティング氏が飛行、ウェスト・バットレスの稜線上16400ft(約5000m)付近で、雪洞から手を振る植村を目撃した。これが植村の最後の姿となる。この後、デナリ周辺は天候が下り坂となり17・18・19日と飛行不能で、連絡は取れなかった。
19日、植村の友人ジム・ウィックワイア氏(シアトル在住の登山家)が、万一に備えBC入りした。そこで取材班の大谷映芳氏(テレビ朝日ディレクター、早大山岳部OB)と合流する。翌20日、2人は高々度ヘリコプターでウェスト・バットレスの稜線上から氷河に至るルートを空から捜索、その後14000ft(約4270m)の雪洞付近に降り、足で捜索を開始した。
植村が作った雪洞から日記、カメラ、フィルム、スノーシューなどを発見したが、植村は帰着していないことを確認する。天候は相変わらず悪く、ウィックワイア氏と大谷氏は20・21・22日の3日間、植村の雪洞で停滞を余儀なくされる。
23日、好天の兆しが見えたので、ウィックワイア氏と大谷氏はウェスト・バットレスを登った。しかし、天候が悪化してきたため3分の2ほど登った所で打ち切る。24日は悪天候で停滞。25日は天気が回復したので、再びウェスト・バットレスを登り、稜線上16400ft(約5000m)の雪洞(ダグ氏が16日に植村を目撃した所)に到着した。しかし、そこにはカリブーの肉片と燃料缶があっただけで、植村の姿はどこにも見当たらなかった。
捜索隊の報告
植村がデナリで行方不明となったため炉辺会は対策本部を設け、救援を兼ね捜索隊を派遣することに決めた。そこで捜索隊を2回派遣、併せて高細密な空撮も実施した。
《第1次捜索隊概要》
1984(昭和59)年2月24日 ~ 3月15日
隊長:橋本清(昭和37年卒)
隊員:松田研一(同52年卒)、中西紀夫(同56年卒)、高野剛(同57年卒)、米山芳樹(同58年卒) 以上5名
空からと登山ルートからの両面で捜索活動に入る。ヘリコプターでの捜索は、ウェスト・バットレス北面5200m付近、デナリ・パス付近、バットレス基部付近を飛んだ。デナリ・パスより上部はヘリの性能で飛べなかった。一方、地上からの捜索隊は2280m地点に植村が作った雪洞のBCに入る。さらにウェスト・バットレスを登り、スノーシューがあった4200mの雪洞を発見したが、出てきたのは残置食糧のみだった。
その後、4900m地点に植村が使用したイグルーを見付ける。ここは捜索に向かった大谷氏とウィックワイア氏がカリブーの肉片を見付けたイグルーで、かつパイロットのダグ氏が元気に手を振っていた植村を目撃した所だが、手掛かりは掴めなかった。
3月6日、松田たちは稜線のやや北側5200m付近に植村の雪洞を発見する。この中にはフレームザック、シュラフなど約35点の品物が残り、遺留品の総重量は約15㎏もあった。この多数の装備品や食糧を残していたことから、植村はここからアタックに出発し、この雪洞に帰っていないことが確実となった。パイロットのダグ氏が、4900mの雪洞で手を振る植村を目撃したと語っていたが、5200mの雪洞に多量の品物を残して4900mまで下るとは、信じ難い謎として残った。
《デナリ空撮概要》
1984(昭和59)年4月5日 ~ 14日
担当:河野照行(昭和48年卒)
デナリ周辺を垂直・斜写真を撮影し、第2次捜索の手掛かりにすべく実施された。空撮エリアはウェスト・バットレスからデナリ頂上を中心に、ハーバー氷河を含む縦4.3㎞、横7.5㎞の3225平方㎞で、一面の垂直カラー写真を撮影した。さらにウェスト・バットレスやデナリ・パス周辺の斜写真も撮影した。
カメラは航空測量で使用するツアイス製PMK-A15/23で、ネガの大きさは23×23㎝。スケールは12000分の1で、垂直写真75枚、斜写真10枚を撮った。この方法で撮影すると約1mの物体まで分かるものだった。早速、写真の解読作業に着手し、1枚の写真を4倍に引き伸ばし、スケールを3000分の1程度にする。横断歩道の縞模様まで分かる方法で撮影された写真を丹念に調べたが、人物らしき物影を見付けることはできなかった。
《第2次捜索隊概要》
1984(昭和59)年4月12日 ~ 5月31日
隊長:廣江研(昭和39年卒)
副隊長:菅沢豊蔵(同40年卒)
サブリーダー:西村一夫(同41年卒)、長谷川良典(同45年卒)
隊員:根深誠(同45年卒)、竹田和夫(同50年卒)、和田耕一(同50年卒)、田中淳一(同51年卒)、宮川良雄(同51年卒)、松田研一(同52年卒)、佐久間一嘉(同55年卒)、吉田湖丘夫(同55年卒)、斎藤伸(同56年卒)、米山芳樹(同58年卒)以上14名
第2次隊は、第1次隊の到達地点となった5200mより上部を重点的に捜索した。長谷川、田中、松田の3名は5月14日、5200mの雪洞を出発、デナリ頂上までのルートを捜索した。頂上には植村が立てた横45㎝、縦30㎝の日の丸と星条旗を発見、回収する。厳冬期のデナリに単独初登頂に成功した証であったが、登り下りのルート周辺から、遺体発見に結び付く遺留品などを見付けることはできなかった。
この後、植村が最終拠点に利用した西尾根の雪洞と、頂上までの間のルートの両側や、誤って滑落したのではないかと想定して、西尾根の北側斜面にも足を延ばし捜索したが、有力な手掛かりは得られなかった。それは同時に、植村直己が行方不明という状況から、死亡が濃厚という現実を受け入れざるを得ない結果となった。