明治大学山岳部/炉辺会100年の歩み– tag –
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炉辺通信
第10期(2012-2021年) 山岳部の100年先を見据えて
少数精鋭で踏ん張る山岳部と炉辺会の世代交代 2012(平成24)年5月、駿河台リバティタワーで創部90周年記念祝賀会が開かれた。この年、主将の宮津はスケジュール管理を徹底し、合宿の合間に“準合宿”を挟み、目的別のきめ細やかな山行で集中力を切らさなか... -
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第9期(1998-2011年) 21世紀へ“夢の扉”を開いたプロジェクト
夢を育み、風を起こした「ドリーム・プロジェクト」 1998(同10)年4月、第9代炉辺会長に平野眞市が就く。明大マナスル遠征から2年が過ぎた夏(99年)、早川敦隊長、加藤慶信、森章一の明治大学インド・ヒマラヤ登山隊は、未踏峰ナンガール・チョティ(609... -
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第8期(1985-1997年) 悩めるMACと未知へのあくなき挑戦
部員減少で学年断絶 昭和60年代に入っても慢性的な部員不足が続き、山岳部の前途に光明が見えないまま推移した。1985(昭和60)年度主将・山本篤は、自覚を促す活気あるクラブ作りに励んだ。明るい話題は11月、日本山岳会学生部のマラソン大会で、団体戦と... -
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第7期(1975-1984年) 海外への挑戦が続く躍動期
大学創立100周年記念事業で「3M作戦」 1975(昭和50)年は、ゴジュンバ・カン遠征以来10年ぶりのヒマラヤ遠征で幕を開ける。それは世界最高峰のエベレストに向けての起点ともなった。最大の鍵は、大学創立100周年事業となる世界最高峰エベレストの登山許可... -
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第6期(1971-1974年) 続発する遭難、低迷から部の再建へ
活動方針に揺れる山岳部と連続遭難 1960年代半ばから大学紛争でキャンパス封鎖が頻繁になり、部室での合宿準備ができない状況となる。そのころ日本の登山界では社会人山岳会の台頭が著しく、大学山岳部は沈滞化を余儀なくされていた。こうした風潮を打破す... -
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第5期(1953-1970年) 明暗重なる成長期
未曾有の白馬二重遭難、続く1年生の死亡事故 世の中が落ち着きを見せ始めた1953(昭和28)年4月、第10代の山岳部長として三潴信吾先生が着任する(「山岳部長人物史」参照)。この年の主将・中村雅保は極地法一辺倒から新たな目標を模索する。冬山合宿は横... -
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第4期(1946-1952年) 戦後の再出発を期した苦難の道
終戦を経て山岳部再建へ 1945(昭和20)年8月15日、長い戦争がようやく終わった。しかし、授業は再開できる状態ではなく、戦地から、また勤労動員先から軍服姿の学生が戻ってくるだけだった。在京部員の中には空襲で家をなくし、ひと握りの米とひと袋のイ... -
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第3期(1941-1944年) 戦時下でぎりぎりの山行、やがて休部へ
戦場に散った山仲間たち 終戦から77年の歳月が流れ、悲惨な戦争体験を知る世代は鬼籍に入ってしまった。機関誌『炉辺』や会報『炉辺通信』に、多くの先輩たちが戦時下の山岳部について原稿を残している。1941(昭和16)年から終戦(1945年)までの5年間は... -
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第2期(1929-40年) より高みを目指した胎動期
第2世代の登場で新たな挑戦 昭和初期までに北アルプスの主な峰々は踏破され、各大学山岳部はより厳しい積雪期および厳冬期登頂に鎬を削り、さらに困難な縦走の挑戦へと切磋琢磨する時代に入った。こうした最中の1929(昭和4)年11月、明大、早大、法大、日... -
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第1期(1922-28年) 山岳部が誕生するも多難な旅立ち
関東大震災と設立苦・米澤の急逝 1922(大正11)年6月16日、馬場忠三郎と磯部照幸が立ち上げた「予科山岳会」に、米澤秀太郎や北畠(旧姓:新田)義郎らの「スキー倶楽部」が合わさり、「明治大学山岳会」が誕生する。このとき学友会の委員であった米澤は...
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