– スキー部誕生に貢献した配属将校 –
1925(大正14)年4月、「陸軍現役将校学校配属令」が公布され、官立、公立、私立の学校に陸軍の現役将校が配属された。当時、大学では学校教練が実施され、心身の鍛練と資質向上のため体育を促進し、併せて国防能力を増進させる狙いがあった。摺澤真清(すりさわ まさきよ)少佐が明大に赴任したのは同年8月、42歳のころで、まさに現役バリバリの軍人将校であった。
配属された翌年の1926(同15)年6月、摺澤少佐は第3代の山岳部長に就任する。ここで配属将校が山岳部長に就いた背景を探ると、学校教練が体育促進にあることから、配属将校に運動のクラブを担当してもらい、自らの目で体育活動を視察してもらおうと大学側が考えたのではないだろうか。そこで陸軍歩兵少佐という立場を考慮すると、最もふさわしいクラブは山岳部となり、部長をお願いしたのではないかと推察する。
一方、受け入れる側の山岳部員にとっては、前任の神宮部長とは全く異質の部長ということで、おそらく戦々恐恐の気持ちであったことだろう。もしかすると、部活動は全て軍隊式に変えられ、スパルタ式訓練が持ち込まれるかもしれないという危惧が部員たちの頭の中をよぎったとしても、不思議ではない。
しかし、予想は外れ、摺澤部長の人となりに親近感を持つようになっていく。当時、部員であった三木文雄は「当時、軍の教練がありましたので、先生宅へも行きまして、お話を伺いました。先生はスキーの平均運動は好きなようでしたが、学生のスポーツマンが絵はがきになる事は、大嫌いな方でした」と回想している。摺澤部長は今風に言えば“アマチュア精神”を信奉していたと言える。また、柿原雄太郎は「摺澤部長は立派な軍人であると共に、私たち学生とも、部員とも親しく良く相談にものってもらった」と振り返っている。摺澤少佐はいろいろな悩みなどをオープンに相談できる部長で、あまり軍人らしい威厳を見せることなく、気さくに接してくれたようだ。
ここで摺澤部長が山岳部に残した功績に触れなければならない。その一つに、国内の山々に登る山岳部員のため「地図」に関する指導を行っている。学校教練の中に「距離測量」とか「測図学」が組み込まれていたが、この当時の地図は、陸軍の参謀本部直轄の陸地測量部が作成していた。摺澤部長は奥深い山々に登る山岳部員のため、地図の活用術や山岳地形の見方などを教えてくれた。1926(同15)年度の部日誌に「6月8日 新旧部長送迎会を五車堂に催す。会する者数十名、新部長摺澤少佐の地図についての説明あり、神宮部長は、在任当時の所感等話せる」とある。初対面となる山岳部員の前で「地図」について語っている。軍事教練などの固い話より、身近なテーマを選んでくれたようだ。
そして、地図の説明を行った2週間後、今度は部員たちを実際に陸地測量部に案内している。「6月23日 陸地測量部見学、米山大尉の懇切なる説明あり。参加者部長外廿名」と同じ部日誌に明記されている。陸地測量部は、当時としては機密性の高い軍事部門であったが、陸軍将校という立場を活かし、山岳部員たちを案内してくれたのだろう。
さらに摺澤部長を語るには、忘れることができない大きな働きがある。当時、山岳部内にスキー競技班が内在し活動していた。スキー競技班の面々は、強豪校と戦うため“スキー部”として早く独立したいと切望していた。
競技班メンバーが摺澤部長に相談すると、早速、部長は両者とOBを集めて会議を開き、山岳部からスキー競技班を分離する件を検討した。結果、円満にスキー競技班が独立するという英断を下してくれた。課題を先送りせず、解決に向け果敢に行動する、まさに軍人らしい摺澤部長の姿がそこにあった。1928(昭和3)年8月、明治大学で3年間の配属期間を終え、摺澤真清少佐は千葉県の佐倉連隊区へ異動する。
明大山岳部の歴代部長の中では異色の部長であったが、軍人としての律儀さ、そして、何よりも一人の人間としての誠実さ、実直さに当時の部員は親近感を抱いた。摺澤少佐には、大正から昭和という新しい時代にかけて山岳部長を担当していただいた。2年2か月と短い就任期間であったが、自ら先頭に立って様々な尽力をいただき、配属将校の摺澤真清部長が山岳部に残してくれた功績は決して小さくなかった。