特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

9年間の献身:第7代山岳部長 末光績が明治大学山岳部に残した功績 

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末光績の写真。画像出典:愛媛の伝承文化

– 部員から名誉リーダー章を贈られた「名誉部長」-

 1934(昭和9)年5月、第7代目の山岳部長として末光績(すえみつ つむぐ)先生が就任する。戦前において9年間という、最も長く在任した部長である。

 先生は1924(大正13)年、東京帝国大学英文科を卒業すると、同年4月に明治大学に着任、英語、法学、経済の予科教授となる。この予科時代に第2、第4代の山岳部長を務めた神宮徳壽先生と出会う。末光先生は札幌農学校時代に登山やスキーに親しんだことから、趣味が合う神宮先生を慕うようになる。

 神宮先生が部長在任中の1929(昭和4)年の夏山合宿に、神宮部長と一緒に参加している。この縁が部長就任につながったのかもしれない。山岳部を離れた神宮先生は、山岳部の部長が1年ごとに入れ替わる現状を憂い、登山に興味がある末光先生を大学側に推薦したのではないだろうか。

 末光先生はご長男を亡くされた4ヶ月後に、山岳部長に就いている。おそらく神宮先生が弔問で末光先生宅を訪れた際、部長就任を密かにお願いしたのではないかと思えてならない。こうした神宮先生の配慮もあってか、山岳部はようやく登山を実践する先生を迎えることになる。

末光績展のパンフレット。画像出典:愛媛の伝承文化

 ところが、末光部長が就任して間もなく、山岳部創部後初の遭難事故が起きてしまう。1934(昭和9)年8月11日、リーダーの針ヶ谷宗次が横尾本谷の丸木橋から転落、行方不明となり溺死する( 岳友たちの墓銘碑 – 故 針ヶ谷 宗次 )。

 この遭難から2週間後の8月26日、末光部長が参加し、遭難報告と善後策を話し合う部員会が開かれた。この部員会には故針ヶ谷と同期の田中正信以下19名、OBは高橋文太郎以下7名が出席する。この山岳遭難で炉辺会のショックも大きかったが、末光部長の対応には並々ならぬ熱意が感じられる。

 この遭難の翌1935(昭和10)年3月、文部省は冬山登山の遭難防止を図る目的で意見交換会を開く。各大学、高校の山岳部関係者はじめ山岳専門家が出席し、文部省からは文部大臣官房体育課の職員が加わり、遭難防止について話し合いが行われた。

 山岳専門家では浦松佐美太郎氏はじめ、槇有恒氏や高橋健治氏など錚々たるメンバーが加わり、明大から末光部長自ら出席している。遭難防止に懸ける先生の決意が伝わってくる。翌4月、末光部長は山岳部員から「名誉リーダー章」を授与された。これまでの功績に対し、部員たちから敬意を込めて贈られたのだろう。

 さて、末光部長の在任中に、部活動を後押しする2つの事業が動き出す。一つは山小屋建設である。各大学山岳部は昭和に入ると、積雪期の訓練ベースとなる山小屋建設に着手した。そこで山岳部でも山小屋を持ちたいと計画したが、相談の窓口となるべき部長がわずか1年で交代するような状況で、遅々として進まなかった。

 1934年に、登山を実践する末光教授が山岳部長に就任すると、当時の上級生は絶好の機会と山小屋建設の相談を持ち掛けた。そして、末光部長の尽力により山岳部待望の八方尾根明大山寮が、1935(昭和10)年10月5日に完成する( ゆかりの山小屋物語 – 八方尾根・明大山寮 )。

 新しい山寮でスキーを楽しむ末光部長の様子について、坂本秀信は次のように語る。「こんな日でも末光部長は老齢にもかかわらず、部員同様、独り離れた所で黙々と練習をされており、山寮へ帰られることをお願いしても、『大丈夫だよ』と言う返事で、ヤッケのフードをかぶって、吹雪の中を滑っておられた姿が今も目に浮かぶ」。札幌農学校で青春時代を送った末光部長は、スキーに人一倍興味があったのだろう。

 ところが、再び遭難の報が先生にもたらされる。1939(昭和14)年9月、人見卯八郎が谷川岳・マチガ沢で岩壁登攀中に転落死亡する事故が起き、部長在任中に2人目の遭難死亡者を出してしまう( 岳友たちの墓銘碑 -人見卯八郎 )。

 こうしたなかで、もう一つの計画が進められる。それは本学創立60周年を記念する、初の海外遠征である。台湾遠征は1939年7月に偵察隊を派遣、翌1940(昭和15)年3月から4月にかけ、積雪期の台湾へ遠征する(海外登山の軌跡 – 台湾遠征)。

 小国達雄隊長以下4名に末光部長も同行した。参加した北脇通男は「山岳部長の末光先生は50歳をいくつか超えた年齢だったと思うが、毎日私たち20代の若者と同じペースで歩かれ、さすがだと一同感心していた。先生は油絵をお描きになるので、荷物も余計に多かったのである」と回想している。先生は異国の山を描こうと画架(イーゼル)を含む絵画用品を持ち込んだため、ザックが重くなった。

 実は末光部長はスケッチしたり、絵筆を取って風景画を描く趣味を持っていた。『炉辺』第6号(1936年9月発行)の「上高地日誌」を読むと、穂高や焼岳などの絵を描きに出かける様子が綴られている。先生は茨木猪之吉氏や足立源一郎氏、中村清太郎氏たちとともに、1936年1月に設立された日本山岳画協会創立会員という、山岳画家としての横顔があった。

 また、前出の北脇通男は「当時の山岳部長は末光績先生で、ちょうど私たちの英語を担当されていた。教科書は『マウント・エベレスト』で難しかった。先生はお声ももの静かで、初夏の頃は催眠術にかけられたかのように、よく眠ったものである。試験結果は落第点で、仕方なく杉並のご自宅を訪問して、情けをかけていただいたことがあった。先生は山岳画家でもあり、山の油絵がたくさん掛けてあったのを覚えている」と述懐している。

 長かった戦争がようやく終わる。活動を再開した山岳部では1946(昭和21)年10月12日、繰り上げ卒業する助川善雄、奥谷潤之輔、古沢厳、平林重治ら4名の送別会を本校の師弟食堂で開いた。送別会には戦後就いた小島憲部長とともに前部長の末光先生が、わざわざ会場に足を運んでくれた。戦争で繰り上げ卒業して学徒動員され、また勤労動員に赴いた当時の部員たちの卒業を見届けるため、責任を全うしようとする末光先生の姿に胸を打たれる。

 明大山岳部は戦後、北アルプスで積極果敢な極地法登山に挑む。1954(昭和29)年の冬山合宿が始まろうとしていた12月16日、末光績先生は永遠の旅に出られた。この冬山合宿のB班は八方尾根から五竜岳への縦走で、奇しくも末光先生のご尽力で建てられた八方尾根の明大山寮から出発する合宿となった。戦後の学生たちが明大山寮から出発する姿を天上から見守り、遭難がないことを祈っていたに違いない。

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