我が山岳部の教えに――「食器が汚いと遭難する」という教訓がある。一見山と無関係な言葉のようにも聞こえるが、基本的な行為や小さなことを疎かにしたり、いい加減に扱うと「遭難が起きるぞ」という戒めを指している。すなわち、「ウェアのポケットはちゃんと閉める、冬は物を濡らさない、雪の上に物を置かない」など、いい加減な行動をすることは気の緩みや心に余裕がないことを意味し、「遭難はすぐそばにあるぞ」という〝警告〟だ、と先輩たちから幾度となく教えられた部訓である。
1957(昭和32)年3月に起きた白馬鑓ヶ岳の二重遭難を重く受け止めた炉辺会は、山岳部内に「遭難対策委員会」(委員長:大塚博美)を設け、山岳遭難の事例を調査し、その原因を把握することが、自らの遭難防止への出発点と捉えた。
白馬鑓ヶ岳での遭難報告書には、この遭難実態調査について次のように記述されている――
「遭難、この言葉の持つ冷酷さは実際に遭難を体験した者だけにしか理解できないことであろう。以前から数々の遭難事件を目のあたりに見て、何とか遭難防止の方法はないものかと考えていた矢先、自分たちの仲間から尊い5名の犠牲者を出してしまって、事態の皮肉にただ茫然となってしまったが、それを元に戻す術もない現在、遭難防止は私たちに課せられた唯一の宿題であるばかりでなく、遭難者の霊に対する最上の供養と信じている。そして自分たちの仲間の遭難という事柄から広く目を我が国の登山界に向ければ、近年とくに登山熱が広範囲に普及してきて、私たち登山愛好者として喜ぶべき反面、それにともなって遭難事故が増えてきたということは甚だ不本意であり、さらにその過半数が登山者自身の不注意であろうと推察されることは、誠に遺憾と言わねばならない。(以下略)」
こうした見地に立ち、まず初めに6月から8月までの夏山シーズン3か月間における遭難事故の調査を行った。遭難場所や原因を集計、分析した内容を「夏山の遭難について」としてまとめ刊行した。引き続き積雪期の遭難に関しての調査に入る。調査票を送る遭難者の氏名や住所を把握すべく警察庁に問い合わせると、プライベートな情報は公表できないと断られ、暗礁に乗り上げる。委員会は新聞紙上に公表されたものに頼るしかなかった。
そこで委員会のメンバーたちは1955(昭和30)年11月から1960(昭和35)年3月までの5年間にわたって、新聞紙上に掲載された積雪期の遭難記事を手分けして調べ、また、全国の山岳団体から任意に報告された138件を対象に絞り、調査趣意書と調査票を送付した。
この調査結果は1962(昭和37)年3月に発行された『炉辺』第7号に、「遭難対策委員会」メンバーの藤田佳宏と学生の尾高剛夫がまず「積雪期の遭難について」と題し報告している。そして6年余りの歳月を費やした報告書「遭難の実態~遭難実態調査」を刊行した。この報告書の“まえがき”に遭難対策委員会の委員長を務めた大塚博美は――
「これは、仲間を山で失った男達の“罪ほろぼし”の作業の記録である。吾々は、昭和32年の春、白馬杓子岳で5人の仲間を失った。原因は何であれ、吾々は完全に敗北し、手足をもぎとられた。その痛恨はぬぐい去ることが出来ない烙印となって吾々に残された。
遺体の収容作業を通して、つぶさに原因を究明した結果、吾々は今更のように山登りの難しさを考えさせられた。そして、山の持つ複雑な要素に取組む登山者が、その危険をたくみに避け、安全な登山を続けるにはどうしたらよいのであろうかと自問した。
登山者の遭難はその99%が登山者側に原因がある。そして早計のそしりを受けるかも知れないが、大小は別として山に登る者は、いつか遭難にめぐり合うのではないかという考え方である。吾々は遭難の実態を調査することによって直接、間接の原因から、山の危険を避ける方法、つまり納得出来る登山技術を一つ一つ集積して、山を知る手掛かりにしようとしたのである(以下略)」と筆を執っている。
また、山岳部遭難対策委員会は、山岳雑誌『山と溪谷』に1964(昭和39)年2月から翌1965(昭和40)年1月にかけ、「山から悲劇をなくそう」と題する記事を連載、OBはじめ学生が様々な観点から遭難防止や対策について執筆した(末尾一覧表参照)。この後、連載は再編集され、1964年12月『遭難の実態~山から悲劇をなくそう』(教育図書刊)が出版された。
こうした本が発行されるまで、長期間にわたる実態調査は多くの部員とOBが担当、調査票の郵送から集計、分析、さらには当事者への直接のヒアリング調査も行うなど、膨大な労力と時間が費やされた。この実態調査を実行に突き動かした大きな要因は、千葉大学の山岳部員まで犠牲に巻き込んでしまった責任を重く受け止めたからだった。本来なら日本の山岳界を代表する団体や救助活動を行う警察が、率先してやらなければならない調査であった。それを明大山岳部という1つのクラブが行い、世間に問い掛けたことは、極めて異例の活動であったと言わざるを得ない。
こうして岳界のみならず世間一般からも高い評価を受けた遭難実態調査は、明大山岳部100年の歴史遺産と言える。
最後に、明治大学新聞(1050号)に掲載された『遭難の実態―山から悲劇をなくそう』の書評を紹介する――
「登山が他のスポーツと異なる点は、その“勝敗”が“生と死”に直結することである。気ままな山は人間のどんな小さな過失やスキも見逃さず、ふいに襲いかかって登山者を遭難に追いやり、命を奪う。山はこうした過去に多くの人命をのんできた。だが、人間は山に抗議できないでいる。なぜなら遭難の99%は人に原因があるからだ。人間が99分の1を学ぶために、如何に高価な代償を払ってきたことか。本書はその赤裸々な報告である。と同時に先人の過誤から我々が何を学ぶべきかの教訓の書である。本書の特色は過去の遭難の資料を広く正確に蒐集し、考えられるケースは殆んど網羅し、その実態を数値や図表によるデータ中心に集計し、分析し、解説している点にある。そして巻末には遭難の“典型的”な実例をあげ、読者に繰り返し、繰り返し『生命の貴さ』を述べている」。
悔やんでも悔やみきれない白馬鑓ヶ岳での二重遭難を契機に遭難対策委員会を創り、「遭難実態調査」という偉業を成し遂げた。それに関わった当時の部員はじめOB諸氏に、改めて深甚なる敬意を表さなければならない。
なお、この遭難実態調査の活動に対し、日本山岳会は第4回(昭和42年度)秩父宮記念学術賞にノミネートした。しかし、この賞は山に関する研究成果やフィールド・サイエンスに対し贈られるもので、学術賞の選考には該当しない、と外されてしまった。それでも日本学術振興会の審査委員長より、地道な調査活動に称賛の言葉が贈られたという逸話があったことを付記しておく。
- 明治大学山岳部・千葉大学山岳部『追悼 白馬鑓ヶ岳遭難報告』(1958年 3 月発行)
- 明大山岳部遭難対策委員会「夏山の遭難について」(1959年 6 月発行)
- 『炉辺』第 7 号(1962年 3 月発行)――「研究」=藤田佳宏・尾高剛夫「積雪期の遭難について」、「登山における遭難実態調査の趣旨とお願い」「遭難実態調査票」「遭難実態調査資料」
- 明大山岳部遭難対策委員会「遭難の実態~遭難実態調査(昭和31年 4 月~ 38年 3 月)より」(文京社、1963年11月発行)
- 明大山岳部遭難対策委員会『遭難の実態~山から悲劇をなくそう~』(教育図書、1964年12月15日発行)
『山と溪谷』誌連載 「山から悲劇をなくそう」記事一覧
号名 | 発行年月日 | タイトル |
---|---|---|
300号 | 1964年 2 月 1 日 | 1 .藤田佳宏「どうして遭難したか」 |
301号 | 1964年 3 月 1 日 | 2 .中島祥和「雪崩はさけられないか(1)」 |
302号 | 1964年 4 月 1 日 | 3 .鈴木伊和雄「氷雪上のスリップ」 |
303号 | 1964年 5 月 1 日 | 4 .土肥正毅「登山中の心得」 |
304号 | 1964年 6 月 1 日 | 5 .大塚博美「リーダーとパーティー」 |
305号 | 1964年 7 月 1 日 | 6 .尾高剛夫「悪天候の遭難」 |
306号 | 1964年 8 月 1 日 | 7 .橋本 清「こうした遭難もある」 |
307号 | 1964年 9 月 1 日 | 8 .中島信一「岩場での遭難(上)」 |
308号 | 1964年10月 1 日 | 9 .中島祥和「岩場での遭難(下)」 |
309号 | 1964年11月 1 日 | 10.田村宏明「雪崩はさけられないか(再論)」 |
310号 | 1964年12月 1 日 | 11.柴田興志「計画と準備」 |
311号 | 1965年 1 月 1 日 | 最終回 藤田佳宏「遭難が起きたらどうするか」 |