基本情報
遭難発生日 | 1991(平成3)年12月28日 |
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山行計画 | 冬山決算合宿:北東稜および東稜から厳冬期利尻山登頂 |
遭難場所 | 利尻山・東稜上1510m、三角岩峰付近(転落埋没死) |
山行メンバー | CL:冨田大(昭和63年入部 4年) SL:宮本功(同63年入部 4年) 部員:小杉秀夫(平成元年入部 3年)、染矢浄志(3年) 以上4名 |
遭難概要
1991年12月21日、山岳部の4名は急行列車で札幌に向かった。22日は札幌から最北端の稚内に移動、翌23日は稚内から利尻島に渡り、24日から冬山合宿の実動に入った。この日は利尻山の北東稜末端、標高400mのベースハウス(BH)予定地まで、ダブルボッカで荷揚げした。翌日BHに入り、4名で第1キャンプ(C1)予定地1132mまで偵察する。その結果、C1は東稜1050m地点が最適と判断、荷物をデポしBHへ下った。26日に全員でC1への荷揚げを行い、翌27日にC1を設営する。
28日は無風快晴の天気となり6時10分、C1上部の東稜偵察に冨田と染矢が出発、またBHからC1へ荷揚げする宮本、小杉も同時刻に出発、2パーティに分かれて行動した。冨田隊は染矢がトップで登り、1350m峰の手前で小休止する。ここから白いベールで覆われた利尻山を望むことができ、その勇姿に息を飲んだ。
鬼脇山(1460m)に着くころから次第にガスが出始め、頂上はすっぽり隠れ視界が悪くなる。鬼脇山から先は細いリッジ状のルートに変わり、ここでアンザイレンする。雪庇に注意しながら20mの間隔を開け、冨田がトップで進む。深いラッセルと吹き溜まりに苦労しながら登り続け午前9時、宮本隊との定時交信で互いの位置確認などを行った。
冨田と染矢の2人は軽い昼食を摂った後、アフトロマナイ沢側を巻くと雪庇が発達している箇所があった。間隔を開け慎重に越えると、安定したコル状の小岩峰(東稜上1510m地点)の基部に着く。ルートを探すとアフトロマナイ沢側を巻くしかなく、急傾斜のためフィックス工作が必要と判断、その旨を染矢に告げた。そして、小岩峰のアフトロマナイ沢側に1ピッチのフィックス工作に取り掛かった。
2人はザックを外しピッケルで固定、染矢は基部中央に、冨田はややヤムナイ沢側に立ち、染矢がザックからフィックス・バーと捨て縄を出し支点を作り始めた。冨田は一度肩巻きを外し、ブーリン結びを緩め、圧迫感を外していた。そのとき背後で染矢が「あっ!」という声を上げたので振り返ると、一瞬、染矢と目が合うと同時に冨田の足元が沈み、声を返す間もなく頭からのめる格好で空間に投げ出され、ヤムナイ沢側に転落してしまった。一瞬、手前の雪庇が崩壊していくのが見えたがどうすることもできず、物凄いスピードで落ちていった。そのときの冨田の記憶では、染矢はまだ岩峰基部に立っていたという。
冨田は雪庇の崩壊で誘発した雪崩に巻き込まれ、強い圧迫感と息苦しさを感じながら滑り落ちていった。午前11時、「ピピッ」という腕時計のアラームで冨田は意識を取り戻す。うつ伏せ状態で体は埋まっているものの顔の周りに空間があり、左足がかすかに動くので、自由になる左足で雪を掻き分け這い出した。口から吐血し、鼻血を出し、体全体に虚脱感を覚えたが、幸いにも致命的な骨折などはなかった。
しばらく茫然とした時間が過ぎてから、自分1人だけだと気付き、ザイルを結んでいた染矢も一緒に転落したと思い、周辺に染矢がいないか2時間ほど必死に探したが、染矢の姿は見当たらなかった。冨田は腰に結んでいた赤いザイルがなく、染矢が岩峰基部に立っていたのを思い出し、自分1人が落ちたのではないかと思うようになる。視界が悪い中しばらく座り込んで辺りを見渡すと、転落した場所はヤムナイ沢と分かる。「もっと染矢を探さなくては」と思いつつも、早く同僚の宮本に連絡取りたいという気持ちも交錯し、茫然自失の冨田は、染矢の捜索を諦め13時過ぎ、沢をのろのろ下っていった。
全身打撲だったこともあり、ゆっくりしたペースで歩いていくと遠くに灯台が見え、16時ごろに宝仙沢橋に着く。ここで車に拾ってもらい、入山以来の知り合いで、石崎集落にある小沼キヌ宅に投宿した。冨田は自分1人の転落と思い、まだ遭難の認識は持っていなかった。
〈宮本隊の行動〉
午前9時のトランシーバー交信の後、700m付近にフィックス・ロープ1本をデポし、9時55分にC1に帰幕、テント整理などを行う。11時と11時30分、12時と交信したが通じず、冨田隊に何か起きたのかもしれないと判断し、12時10分、上部に向けてC1を出発する。1350m付近まで登ったが、2人の手掛かりはなかった。風雪が激しくなり、これ以上の行動は無理と判断、昼食、旗5、6本と連絡文を同地にデポし、C1に引き返す。その後、トランシーバーをオープンにし一晩中テント内で待機したが、夕刻になっても戻らず、天候も悪化してきたので遭難の可能性を悟る。
12月29日(風強く吹雪)
小沼宅で冨田は朝を迎えたが首と脇腹に痛みが走り、なおかつ利尻島はその冬一番の吹雪で、外出は無理となる。染矢が宮本隊と合流してくれれば、と願いながら1日を過ごす。
一方、宮本と小杉は午前10時、悪天候の中、再度上部へ向けてC1を出発するが、強風と雪で100~150mで引き返す。今度は連絡のため下方に向かうも、やはり100mほどで引き返さざるを得なかった。そこで、以前より明大のトランシーバー交信を傍受していた稚内署の前野氏と交信を試みる。18時ごろ、前野氏と連絡が取れ、東京の斎藤伸監督への連絡を依頼した。前野氏はトランシーバーを電話に接続、宮本は冨田パーティと連絡が取れていない旨を監督に話し、以後、斎藤監督の指揮下に入った。
12月30日(雪)
冨田は痛みが残っていたが、天候が回復したので午前7時過ぎ、宿泊先の家を出てC1へ向かった。林道を歩いて行くと宮本と小杉に会う。宮本から「染矢が戻っていない」と告げられ、淡い期待は消し飛んだ。一緒に下り、林道終点で警察の雪上車に収容される。
捜索活動
冨田が小沼宅で1日滞在した際、電話1本をかけるタイミングではなかったか、という疑問が残る。山岳部の主将で、登山のリーダーであったことを考えれば、警察か監督に連絡を入れるべきだった。この空白の1日が、後で染矢の遺族と軋轢を生むことになる。しかし冨田は、このとき染矢が転落し行方不明という確信を持っていなかった。自分の事故に動揺したのか、それとも打ちひしがれたのか、連絡しようにも連絡できなかったようだ。
第1次捜索は年明けからヤムナイ沢流域を中心に同沢大滝直下までと、合宿ルートをたどって東稜上の鬼脇山手前まで捜索した。しかし、染矢に関する手掛かりを発見することはできなかった。これ以上の捜索は危険との判断から1月4日、捜索活動をいったん中断した。
この後、長期間にわたる捜索でも染矢の遺体を発見することができなかった。第16次の捜索期間に入った8月11日、ヤムナイ沢で雪面から露出していたザイルを発見。このザイルに沿って掘り進め、ようやく雪中に眠る染矢を発見した。冬山合宿で行方不明になってから8か月余り、228日が経っていた。
この間の捜索活動は16回に及び、延べ日数132日、捜索に関わった延べ人数は451名にのぼる、最長の捜索活動となった。
遭難の原因
遭難現場周辺は急峻かつ複雑な地形で、変則的な風向きとそれに伴う雪庇、そして不安定な雪質など、悪条件がそろう山域であった。特に東稜ルートにある三角岩峰手前の露岩部周辺は、雪庇がアフトロマナイ沢側に出ていたので、冨田と染矢はそれを避けるためヤムナイ沢の空中へとせり出す、一見安定した雪原状の雪庇の上へ踏み込んでしまった。なおかつ天候が霧のため、周辺の状況を見誤ったことも要因の一つになった。
この雪庇を踏み抜いて墜落したことによって雪崩が発生した。この雪崩が結果的に染矢の遺体発見を大幅に遅らせてしまった。現場を詳しく調査したOBの原田暁之によると、雪崩の落差は1020m、水平距離が2480mの大規模な面発生乾雪表層雪崩であった。この雪崩で染矢は比高550m、水平距離695m、冨田は比高820m、水平距離1345mも滑落、生身の人間が生き残れる可能性はゼロに等しかった。冨田が大きな怪我もなく生還できたのは、奇跡と言うほかなかった。
遭難後、冨田は「自分は後輩の染矢を見捨ててしまった」と罪悪感に苛まれ、自分を責め続けた。改めて主将の責任の重さを問う、北の山での遭難であった。