特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

白馬鑓ヶ岳・二重遭難

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故 五十嵐 弘(昭和27~31年在部)、故 荒井 賢太郎(昭和29年入部)、故 佐藤 潔和(昭和30年入部)

目次

基本情報

遭難発生日1957(昭和32)年 3 月 12 日
山行計画昭和31年度春山:杓子尾根合宿
新人隊は鑓ヶ岳から唐松岳の稜線登高
上級生隊は鑓ヶ岳北稜と南稜登攀、その後合同で白馬岳正面尾根
山行期間1957(昭和32)年 2 月 25 日~3 月 25 日(予備日10日含む)
遭難場所白馬岳・杓子沢(佐藤潔和以外は雪崩による埋没死)
山行メンバーCL=石田要久(昭和29年入部 3 年)、SL=高橋宏(同28年入部 4 年)
正部員=荒井賢太郎(同29年入部 3 年)、佐藤潔和(2年)、東真人(同30年入部 2 年)
新人=菅原啓一、堀内正倫、田村宏明、小林孝次、石田裕康 計10名
千葉大学山岳部CL=勝田禎治(3年)、SL=清水淳男(2年)
部員=伊藤康寿(2年)、山木健一(2年)、田中克明(2年)
新人=小浜浩三、松尾宏、大西柾子、戸沢久江 計9名

遭難概要

 3日間の停滞の後、3月8日、前進基地の第2キャンプ(C2:杓子岳直下、2680m)から全員が待ちに待って動き出した。本隊6名は杓子岳から鑓ヶ岳へと向かい、上級生隊の荒井と佐藤の2人は第1キャンプ(C1:双子岩の雪洞、1900m)から鑓ヶ岳北稜に向かった。

 ところが、9時過ぎから天候が急変。本隊は登高を中止し引き返す。上級生隊も北稜の3分の2ほどの第2岩峰から登攀を取りやめ、下降する。ザイルを使い下降しているとき、佐藤が100mほど墜落、手首を骨折し足を捻挫する。荒井は歩行困難な佐藤をダケカンバのある安全な場所に連れて行き、雪洞を掘って食料や携帯燃料などを置き、本隊に救助連絡のため下山した。

 翌9日、南股発電所に着き、そこから東京本部はじめ関係先に事故を連絡。その後、荒井は本隊のC2に向かう途中、千葉大山岳部パーティと出会い、救助協力を要請する。10日、東京からコーチの五十嵐弘と2年部員の浅井祥広、村関利夫が現地に入った。しかし風雪が激しく、思い通りの救助活動はできなかった。11日には、東京から大塚博美監督をはじめ児島弘昌、高橋進、藤田佳宏、新潟から平野(桜井)清茂が到着した。

 3月12日、荒井が佐藤と別れて4日目の朝を迎えた。風雪は吹き荒れていたが、一刻も猶予を許されない状況に追い込まれていた。浅井を連絡要員として残し、明大の五十嵐と荒井に千葉大山岳部員の勝田君、清水君、伊藤君を加えた5名は、天気待ちの後、午前7時に小日向の千葉大BCを出発。三白平から直接、杓子沢を登り佐藤の避難場所に向かった。

 第2次救援隊の大塚、平野、高橋進の3名は杓子沢をトラバースし、台地への途中で五十嵐たちに追いつく。合流した8名でラッセルを交代しながら佐藤がいる現場に急いだ。荒井が残した目印の1本の赤紐が、先のダケカンバの木にぶら下がっているのを発見、急いで駆け上がった。

 9時40分に着いて早速、発掘に取り掛かる。しかし30分ほど掘り続けたが、避難しているはずの佐藤の姿を探し出すことはできなかった。極寒での佐藤の苦闘が偲ばれるビスケットと甘納豆が少々、また携帯燃料の空き缶や装備の一部しか発見できず、行方不明を確認する。午前10時15分ごろ、捜索を打ち切って引き返す。

 雪崩の危険性もあり、8名は急いで下った。10時50分、杓子沢と湯沢の出合の上部にある台地に着き、一同ホッとする。

雪崩により二重遭難発生

 一列になって歩き出したそのとき、突然、背後から第1波の雪崩が襲い、瞬時にして全員が埋没してしまった。

 高橋進の記録に――「身体がスーッと引っ張られる。瞬間、“雪崩だ!”と思う。両手のストックをグッと突っ張ってみる。うしろから大きな雪の波をかぶり横倒しになる。アッと思った一瞬、目の前が真っ暗になる。身体が締めつけられてしまったようだ。頭と右手が出ている。3、4回もがくと簡単に抜け出せた」とある。

 大塚と高橋進がまず脱出し、手や足の出ている者から掘り出す。最後に万歳の格好で埋没し、失神状態になっていた五十嵐を30分後に助け出し、人工呼吸を施した。その結果、五十嵐は意識を回復し間一髪で助かる。杓子沢のS字状に屈曲した台地の裏側にいたため、雪崩の本流とは離れた支流で、大事には至らなかった。

 気持ちを落ち着かせ、少しフラフラ歩く五十嵐を空身で歩けるよう真ん中に挟み、大塚を先頭に高橋進、平野、五十嵐、荒井、清水、伊藤、勝田のオーダーで11時30分ごろから下山を開始した。

 ほんの2、3歩踏み出したとき、「ズズーン」という鈍い音とともに2度目の雪崩が襲来した。前とは比較にならない、大きくて長い雪崩の本流が8人を襲った。「来た~!」と思った瞬間、背後から突き倒され、瞬く間に全員が流され、横転したり反転したりしながら白い世界に引きずり込まれてしまった。

 結果的に、杓子沢下部の端を下っていたトップ、2番、3番とラストの4人が辛うじて浅く、列の真ん中を下っていた五十嵐、荒井、清水、伊藤の4名は雪崩をまともに受けてしまった。

 この2度目の雪崩に巻き込まれた様子を、平野清茂は次のように書いている――

 「ズーンという音、これと相前後してボコ、ボコ、ボコという熱湯が沸騰するような音を出しながら第二の雪崩が、落下するというより海岸に打ち寄せる激波のような形で襲ってきた。私はこれを上方視界いっぱいの地点から確認した。当時の視界は30mから50mぐらいだったと思うが、ともかく目の届く限り雪崩であった。

 『しまった』と思う前に顔を向けていた方向、山側に首を曲げながら本能的に2~3mは全力疾走した。この姿勢は雪崩の一端が私をいやというほど雪面に突き倒す瞬間まで変わらなかった。最初の雪崩と比べものにならない大雪崩であることを直感した。逃げながら見ていたのである。巻き込まれると同時に私は無抵抗であった。無意識に抵抗するものだと聞いていたが、そのような記憶はない。

 暗黒その中でギシギシと雪のキシム音がはっきり聞こえる。『ああ、とんでもないことになってしまった』と思う。一方、頭の中を走馬灯のように数々のことが映っては消えていった。そして意識だけがものすごくはっきりしている。もうだめだと観念した」と。

 なんとも生々しい雪崩遭難の瞬間の証言である。

 奇跡的に雪の上に放り出された大塚は自力で脱出し、あたりを見回し、体の一部がデブリの上に出ている者から掘り出した。半分体が埋まって気を失っている高橋進を、続いて足が出ている平野を見つけて掘り出す。最後に、沢のど真ん中に突っ立ったまま埋没している勝田君を掘り起こしに掛かった。ワカンが早くも凍り付き、3人で引っ張ってもビクともしない。道具がないので、必死に手で雪を掘った。

 こうして4人はかろうじて助かったが、幅100m、長さ500mに広がった巨大なデブリでは、どうにも探しようがなく、残り4人の姿を見付け出すことはできなかった。

 再び雪崩が起きる危険性もあり、4人は涙をのんで安全と思われる三白平の台地に向かった。三白平まで30分のトラバースは、恐怖の連続であった。腰までの深い雪の中、今か今かと雪崩の恐怖に慄きながら一歩一歩、静かに進まざるを得なかった。

 なおかつ吹雪で視界が利かず、ますます恐怖心を煽った。三白平の岩の下に着いたときは、力も抜けて台地に座り込んでしまった。そして、仲間を見捨ててきた後悔で涙が止めどなく流れ、無言の4人をしばらく静寂が包んだ。

 気を取り直し大塚以下3名は、後ろ髪を引かれながら、この雪崩遭難を知らせるため猿倉山荘に急行した。

米軍機墜落による雪崩発生について

 二重遭難の雪崩発生は、米軍の飛行機墜落によって引き起こされたのではないか、という疑惑を招いた。大塚たち捜索隊から米軍の調査団に質問書を提出したが、墜落時刻と雪崩発生の時間に齟齬があり、因果関係を明らかにするまでには至らなかった。

 また当時、看過できない事態と判断した大学は、松岡熊三郎総長名でアメリカ大使館に遭難と米軍機墜落に関する照会状を出した。しかし、大使館より「我関せず」という返事で、取り次いでくれなかった。

 結果として、二重遭難と米軍機墜落の因果関係は、暗い闇の中に埋没してしまった。

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