特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

岡澤修一(昭和47年卒)- 氷河地形の調査に捧げた生涯

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 山岳地形の成り立ちを説明するのに百の理屈よりも、たった一つの物的証拠や事実こそが全てを物語ると言われる。山岳地形や氷河地形の調査に取り組んだひとりのOBがいる。

 岡澤修一は1968(昭和43)年4月、明治大学文学部史学地理学科に入学し、高校時代に打ち込んだ登山を続けるため山岳部に入る。のちに氷河地形を一緒に調査する山岳部長の小疇尚先生と出会う。また、地形・氷河専門の恩師・岡山俊雄教授から、山岳調査についての指導を受けた。

 いよいよ卒業を迎える4年になると卒業論文に取り掛かり、岡澤は日本アルプスの氷河作用をテーマに選ぶ。それまで詳細な現地調査が行われなかった南アルプス南部の赤石岳・荒川岳山域に着目する。このエリアを選んだ理由は大学3年のとき、五百澤智也氏の氷河地形調査の手伝いで、悪沢岳と赤石岳の沢に入ったときの印象が強く残っていたからだった。

1980 (昭和55) 年12月22日、クーンブ・ヒマールのチュクン氷河下底の構造を調査する岡澤会員

 岡澤は調査、研究を重ねた結果、荒川岳南面の3圏谷(中岳圏谷・中岳東圏谷・東岳西圏谷)および荒川小屋圏谷、小赤石岳圏谷、赤石岳圏谷の合計6圏谷を氷食地形と認定。東岳西圏谷と小赤石岳圏谷の下流には、それぞれ標高2200m、2380mまで氷食谷(U字谷)が続いていたことを明らかにし、また、それぞれの圏谷に端堆石の分布を確認した。

 この研究成果は、日本地理教育学会主催の第20回全国地理学卒業論文発表大会において明大を代表して岡澤が発表し、高い評価を受けた。このことが、彼の研究テーマの方向性を決定付けたと言える。

 卒業した岡澤は1972(昭和47)年、東京都立大学の修士課程に入り、1974(昭和49)年、母校の博士後期課程に進む。大学院時代の岡澤は、とりわけ北アルプス北部の白馬岳周辺を主たるフィールドに、様々な調査に没頭する。

 この活動は全国の大学生をはじめ、大学院生や若手研究者で組織する「寒冷地形談話会」(1971年設立)に引き継がれ、岡澤は中心メンバーとして活動する。

 また、学内に戦後設立された「駿台史学会」にも入会する。さらに明大地理学専攻の大学院生、学生、卒業生で構成する「エコロジー研究会」でも活躍する。

 とくに「南アルプス・スーパー林道」建設で発生した自然破壊をはじめ、山村の変貌過程を精力的に調査し、崩壊する林道と高額な補修経費の実態に警鐘を鳴らした。

 こうして国内で調査、研究に励む岡澤が、ヒマラヤの領域に初めて一歩を印したのは、大学院在籍中の1973(昭和48)年、五百澤智也氏が発刊する『ヒマラヤ・トレッキング』の取材でネパールとインドを訪れたときである。世界の屋根のヒマラヤを目の前に、彼の胸の内に氷河研究への熱い想いが湧き起こった。

 そして、ヒマラヤでの本格的な調査、研究に打ち込むときがやって来る。1980(昭和55)年、植村直己率いる「日本冬期エベレスト登山隊」に、文学部教授の小疇尚先生たちと学術隊に参加する(日本冬期エベレスト登山隊  学術班 )。

 こうした海外調査と並行して、国内の山々での地形調査にも出向く。彼は北アルプス白馬岳山麓に、氷河が運んだ巨大な瓦礫の山であるモレーンを発見。それを手懸かりに松川をはじめ、糸魚川の小滝川から蝶ヶ岳の烏川まで、後立山連峰の全ての谷を調べた。

 山岳部で鍛えた岡澤は、得意の藪こぎや沢登りで縦横無尽に山や谷を駆け巡り、突貫調査もいとわなかった。なかでも1981(昭和56)年、白馬岳北方の朝日岳に氷期が終わった後、氷河が存在する確実な証拠を見付け、大発見となった。

 この後、国内で氷河作用を調査する岡澤に、再びヒマラヤでの実地調査に出向くチャンスが訪れる。1991(平成3)年に「明治大学チョモランマ峰登山隊」、2001(平成13)年は「明治大学ガッシャーブルムⅠ・Ⅱ登山隊」、翌年には「明治大学ローツェ登山隊」、そして2003(平成15)年の「明治大学アンナプルナⅠ峰登山隊」の学術班に参加。教員仲間たちとカラコルムおよびアンナプルナ山群における氷河作用調査に赴いた。

 炉辺会の中での岡澤修一は、登る対象の山々で氷河期の痕跡を調べる“研究者”の顔を持っていた。

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