– 山岳部長では異色の理数科教授 –
山岳部には珍しい理数系出身の部長が就任する。その人は太田直重(おおた なおしげ)先生である。予科では神宮徳壽先生の6歳年下の後輩に当たる。太田先生は部長に就任する1年前の1932(昭和7)年7月31日、神宮徳壽先生から誘われたのか上高地に入り、明大小屋を訪ねている。この山旅が山岳部長に結びつく縁になったのかもしれない。
それから1年後、前任の春日井薫先生が所用で急きょアメリカへ渡ることになり、後任部長として太田先生が指名されたようだ。明大に赴任して5年後のことである。しかし、山岳部長として在任したのはわずか10ヶ月と短命のため、太田部長に関する資料は極めて少ない。
実は太田部長は、1930(昭和5)年に創部された排球部(現・バレーボール部)の部長に就き、戦後の1950(昭和25)年に亡くなるまで、戦争を挟んで20年もの長期間にわたり担当している。おそらく太田部長は、山岳部の次期部長が見つかるまでの暫定的な担当で、排球部長と兼任であった。そのため部員とOBが一堂に会する会合や行事には出席しているが、正部員会や部員会という学生だけの会合には顔を出していない。
当時の山岳部には山小屋建設という懸案事項があった。太田部長が就任してから3ヶ月後の9月19日に正部員会が開かれ、明大小屋建設の候補地を視察する案件が討議されている。ところが、太田部長は1年もたたずに退任してしまい、懸案の山小屋建設を誰に相談すればよいのか、部員たちに焦りと不満が募ったという。このころの山岳部は前任の春日井先生といい、太田先生といい、短命で終わる不遇の時代だった。
1950年3月12日、心臓麻痺で太田直重先生は急死する。享年54であった。残念ながら太田直重先生と山岳部との縁は浅かった。