日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)が1959(昭和34)年 2 月に開局した。夏休みは教育番組が休みとなるため、上層部から大塚博美(昭和23年卒)と中尾に、「山の企画でも考えろ」というありがたい話があった。2人はまず先発局(NHK、NTV、TBS)がまだやっていない企画を、と考えた結果、北アルプスの展望と併せて小槍のロッククライミングの中継放送ができる「槍ヶ岳」に決めた。スタッフはOB菅原(加藤)啓一(同34年卒)、立教大OBの堀口常明、津田塾OGの森(友田)恵津子を加えた。
実行に当たって最大の難関は、槍ヶ岳までの中継機材の輸送であった。中継車は東京で解体、機材を個別に木箱に梱包、さらに中ノ湯の釜トンネル入り口で小型トラックに積み替え、上高地まで輸送した。そして、上高地から槍ヶ岳までボッカ(歩荷)で運ぶことにした。しかし、そのころ上高地にはフリーのボッカはいなかった。折から夏山合宿の終わった明大山岳部員の肩に頼った。ただ分解不可能な発電機と発動機120㎏ 4 組は、旧知の槍ヶ岳山荘・穂刈三寿雄氏の好意で、同山荘専属の屈強なボッカを借りることで解決した。今ならヘリコプターによる輸送が当たり前だが、当時はまだ人海戦術に頼るしかなかった。
さらに事前に解決しなければならない、厄介な問題があった。それは、民放テレビなので広告スポンサーを決めなければならなかった。営業は「天候が悪ければ、何も映らない(当時まだVTRがなかった)番組など売れるか」と不評だった。そこで、ときの編成局長から「中尾君、どこかに売ってこい」との御下命。営業のことなど分からないけど、仕方なく前職の時事通信記者時代の人脈を活かすより仕方ないと、夜行列車で大阪へ。ダメモトと思って、大阪駅に一番近い「クラレ」に飛び込んだ。総務部長は週刊誌で「NET、槍ヶ岳」の話を知っていて、「ああ、中尾さん、ちょっと待って」と言って、5 分後に「半分で良ければ」と顔を立ててくれた。残りは営業の面子に懸けて集める、ということで解決した。
いよいよ生放送に向け準備は佳境を迎える。荷揚げする荷物は登山用ザックに詰め込める代物でなく、放送機材だけに長いものから小さくても重いもの、さらに分解不可能な発電機など、背負いやすい荷物は何一つなかった。それでもなんとか放送機材を槍ヶ岳まで荷揚げし、肩の小屋脇に中継基地を設置、ようやく本番に備えた。
そして 7 月25日、放送当日、前日までの雨模様とは打って変わり絶好の晴天となる。日本教育テレビの槍ヶ岳生中継番組「夏山を行く・山頂の大観」は、マナスル登山で活躍した大塚OBが解説役となり、大成功裡に終了する。山岳部出身の中尾ならではの発想による槍ヶ岳生中継は好評を博し、テレビ界初の高山からの完全実況生中継となった。
日本教育テレビの「山」との関わり合いは、この後、同年に「八方尾根でのトニー・ザイラー」「雪男探検隊」と続き、翌1960(同35)年には 2 回目として「穂高・涸沢」からの中継となる。このときは早大OBの小倉茂暉がスタッフに加わり、荷揚げボッカ役は早大山岳部が協力してくれた。3 年目は「谷川岳一ノ倉沢・衝立岩」となり、このとき技術局長がアメリカから持ち帰った弁当箱大のカメラ(細いケーブルでつながる)が使用され、菅原(加藤)が1人での中継を試みた。こうして山岳生中継はシリーズ化されていった。
ちなみに「雪男探検隊」番組は、大塚と中尾が「マナスルの次はエベレストだね」と夢を語り合う中から生まれたという。エベレスト取材は会社が出張を認めてくれそうもないので、当時、雪男の足跡が世間の話題にのぼっていたことに着目。そこで「雪男学術探検隊」を企画、外貨審議会も通ると見込んだところ、紆余曲折の結果、毎日新聞、毎日放送との 3 社での派遣となり、取材班は各社 1 名となった。NETからは大塚を派遣、中尾は残って番組ディレクターを務めることになる。イエティの足跡1つ見つからなかったが、1960年 1 月から13回シリーズで放送された(「Ⅱ 研究および調査」の大塚博美を参照)。
それから 2 年後の1962(同37)年11月から 2 ヶ月、中尾は南極での取材活動に赴く。当時、日本の南極観測は1961(同36)年出発の第 6 次隊を最後に打ち切られた。すると、国の内外から日本の南極観測への復帰が声高に叫ばれるようになった。日本としては無視できない状況となり、国会議員が外国の南極観測の実情視察に出かけることになる。
そこで日本教育テレビは、視察の模様と南極観測の現状を番組化するため、中尾とカメラマンを同行させた。アメリカの南極基地をベースに視察、また、米軍の飛行機で南極点まで足を運ぶなど精力的に取材する。帰国してから放送された番組は、日本の南極観測再開に向け大きな弾みとなる。3 年のブランクののち、1965(同40)年に南極観測は再開され、第 7 次観測隊を乗せた新しい砕氷船「ふじ」は、昭和基地を目指した。
南極取材から 5 年後の1967(同42)年夏、今度は女性パーティがマッターホルンの北壁に挑む番組制作に取り組む。東京女子医科大学山岳部欧州アルプス遠征隊は、JECC(ジャパン・エキスパート・クライマーズ・クラブ)とタッグを組み、アルプス三大北壁の1つ、マッターホルンに挑むことになった。
隊長の今井通子は、カメラマンとして奥山章氏(第 2 次RCC創設者)が参加すると、登山隊が何かと翻弄されると難色を示した。そこでNETはプロデューサーとして中尾の派遣を決め、今井の危惧を取り払うことにした。この件について今井は「話し合ううちに、NET隊のリーダーとして同行されるプロデューサーの中尾氏は、思慮深く、思いやりがあり、決して無理押しをする方ではないことがわかったので、基本的にお受けすることにした」と記している。
NET取材班は中尾をチーフに、カメラマンは北壁登攀に同行撮影する奥山と、ソルベイ稜から撮影する村松の 3 名で編成された。奥山はJECCの加藤滝男とザイルを組んで登攀しながら、女性パーティとして世界で初めてマッターホルン北壁を完登するシーンを16㎜フィルムに収めた。鋭峰マッターホルン北壁を登攀する日本女性を追った映像は、それまでのヒマラヤ遠征とは一線を画すインパクトを人々に与えた。
舞台こそ違うが、大自然をテーマにしたテレビ番組に先鞭を付け、茶の間に届けた功績は大きく、いずれも放送プロデューサー・中尾正武の執念が実るテレビ番組となった。