民俗学への目覚めと「高志路会」への参加
高橋文太郎が傾注した民俗学に、清新な刺激を受けるひとりの山岳部員がいた。高橋より11歳若い森谷周野である。雪国・新潟育ちの森谷は、地元の山村に息づく風習や習俗に接し、民俗学に興味を抱くようになる。新潟では民俗文化を研究する活動が早くから芽生え、1934(昭和9年)、「高志路会」が結成される。明大入学前から民俗学に関心を寄せていた彼は、旧制新発田中学校山岳部OBの新井寛励氏から誘われ「高志路会」の創立に関わる。
高橋文太郎との出会いと民俗調査への同行
故郷で早くから民俗学に強い関心を抱いていた森谷は、山岳部に入ると民俗学に造詣が深い高橋文太郎を知り、教えを乞うようになる。彼が先輩の高橋に最初に会ったのは1936(昭和11年)の初夏というから、まさに大学に入った年で、民俗学をたしなむ先輩に一日でも早く会いたいという、彼の強い意気込みがうかがえる。彼は保谷の高橋邸を何度か訪ね、民俗学の話を拝聴するのが何よりの楽しみだった、と述懐している。
こうした触れ合いから、森谷は高橋の民俗調査に同行する機会を得る。先述したように、高橋は1933(昭和8年)ごろから全国を股に掛け調査旅行に出かけている。森谷は山岳部時代の1937(昭和12年)4月、高橋から誘われ先輩の友人・廣瀬氏と3人で、当時、故郷の北蒲原郡にある赤谷村に入る。目的は赤谷マタギが行なう熊狩りに参加することだった。このとき高橋が、山を駆けるマタギに遅れることなく付き添い、夜の“祝いの祭り”ではひと言も聞き逃すまいと傾聴する真摯な態度に、森谷は強い感銘を受ける。
その年の9月、夏山山行を終えて帰省した森谷は、南会津の木地屋を調査する高橋の旅に再び同行する。磐越西線の徳沢からトロ道をたどり、彌平四郎集落に入った。ここで村民の生活を調査した後、729mの稲荷峠を越え藤巻集落に入る。ちょうど鎮守山神社の祭礼が開かれ、ふたりは歓待される。
森谷は――「高橋さんとの山麓遍歴は、前後この2回だけであったが、2回とも割合時間的に長い旅であったので、高橋さんとゆっくり語り、氏の真価に触れることができたような気がする。山村への愛着、山村民俗を学ぶ態度なども、氏から教えられることが多かった」と振り返っている。高橋文太郎は新潟県や近隣の福島に出向くとき、地理に詳しく民俗学に関心を寄せる後輩の森谷をたびたび同行させていた。
故郷に戻り「高志路会」での活躍
大学を卒業し故郷に戻った森谷は、新潟県内各地に残る習俗や伝承の聞き取り調査に励み、その成果を会報「高志路」に数多く寄稿する(執筆一覧参照)。その後、高志路会の事務局長となり、会報の定期発行から繁雑な事務処理まで一手に引き受けた。
日本民俗学会への参加と柳田国男との交流
この高志路会で重鎮となった森谷は、日本民俗学界の大御所である柳田国男氏や宮本常一氏らが戦後1948(昭和23年)に設立した「日本民俗学会」に入会する。ここでもう一人の師・柳田氏に出会う。彼は1948年秋から日本民俗学会の例会に出席するため上京し、柳田氏から民俗学の教えを受ける。柳田氏が例会に出席する森谷を「この会では唯一の国鉄人だよ」と紹介してくれたことを、ことのほか嬉しかった、と書き留めている。
著書『新潟の山旅』に見る民俗学の探求心
森谷が監修した『新潟の山旅』(1982年3月発行)に、民俗に造詣の深い森谷らしい記述が見られ興味深い。例えば――「八海山は標高からすれば末っ子になるが、容貌怪異なことから早くから人々の注目を引き、古来信仰の山、修験の山として開山の歴史は約800年と言われている。巨岩を重ね並べたような山容から“八階山”とも書かれ、あるいは“山中に八つの池塘あり”として八海山の名が出たなど山名由来の説はいろいろある」と。また、「飯豊山は信仰の山として開山の歴史は古く、農神の山として農民の信仰を集めてきた。登山道はこうした人たちの登拝のために作られた古い道から、近代登山の発展に伴って開かれた新しい道まで、八方から通じている」と越後の山々を紹介している。ふるさとの山を登りながら山名の由来や習俗を調べた、森谷らしい筆致である。
森谷周野の晩年とその功績
森谷周野は1988(昭和63年)5月3日、74歳で他界する。新潟県民俗学会の山口賢俊会長は――「森谷さんの事業に対する功績を高く評価することは当然であり、高く評価しすぎるということはないでしょう。また研究者としての森谷さんの業績も同様です。
民俗についての森谷さん自身の造詣・蘊蓄を、その死去と共に消滅に帰することの重大な損失に気づいた時、愕然とするものであります。人並み以上の頑丈さを持つと思われた森谷さんの体躯が、こんなに早く倒れることがあるとは誰もが気づかなかったのです」と弔辞を述べた。地元の民俗研究会「高志会」で、森谷の活躍ぶりがうかがえる。
故郷の民俗研究に勤しんだ森谷周野は、先輩・高橋文太郎と学者・柳田国男というふたりの“民俗学の師”から多大な影響を受けた。ふたりの言説や学風、流儀などから森谷周野の民俗研究は育まれ、まさに“野の学問”としての民俗学を体現するひとりであった。
新潟県民俗学会会報『高志路』を除く民俗関係寄稿および著書一覧
- 『北中部の祝事』 共著(明玄書房)
- 『山と溪谷』78号(1943年3月発行)
「越後大白川の山と民俗」 - 『山と溪谷』131号/創刊20周年記念特別号(1950年4月発行)
「熊狩記」 - 『山と溪谷』134号(1950年7月発行)
「山で食べた動物のいろいろ」 - 『山と溪谷』136号(1950年9月発行)
「マタギ座談会」(森谷が特別参加) - 日本民俗学会誌『民間伝承』16巻1号(1952年1月発行)
「トリキと神の木」 - 『山と溪谷』153号(1952年2月発行)
「大白川の雪崩~主としてアイの性格」 - 『山と高原』218号(1954年9月発行)
「佐渡を流す」 - 『山と溪谷』(1959年1月発行)
「かまくら~童心を呼び起こす雪国の風習」 - 『炉辺』第7号(1962年3月発行)
「山村を歩く―故高橋文太郎とともに」 - 『山と溪谷』404号(1972年5月発行)
「飯豊山と私」 - 日本民俗学会誌『日本民俗学』157・158号(1985年1月発行)
「越後・佐渡にみる『イロ』について」
新潟県民俗学会会報「高志路」寄稿一覧
号名 | 発行年月 | タイトル |
---|---|---|
200115 | 1945年 1 月 | 山村の民間信仰 |
122000 | 1948年4木 | 葬習と俗信、禁忌、北蒲原郡赤谷村 |
200132 | 1949年4金 | 故高橋文太郎氏を憶う~先輩にして師なる氏の霊前に~ |
200137 | 1949年9木 | 赤谷村の怪 |
200143 | 1950年3水 | ふないわい |
200145 | 1953年5金 | 新潟県民俗学会創立の主張(共同執筆) |
200187 | 1960年6水 | 赤谷民俗ノート1―産育習俗 |
200188 | 1960年9木 | 赤谷民俗ノート2―婚姻習俗 |
200188 | 同 | 三面のマス~清水と貯蔵~ |
200189 | 1960年10月 | 赤谷民俗ノート3―葬祭習俗 |
192000 | 1961年3水 | 旅だより1―ツクシ |
別冊(悼小林先生) | 1961年6木 | 翁をしのぶ |
200192 | 1961年6木 | 旅だより2―イタブリ石焼き |
200194 | 1962年2木 | 旅だより3―三面の雪崩清水のカンジキ |
200195 | 1962年5火 | 旅だより4―俵引き |
200196 | 1962年8水 | 旅だより5―佐渡の節句、柳田先生を偲ぶ |
200197 | 1962年12月 | 旅だより6―関川の産育習俗1、2 |
200198 | 1963年5水 | 旅だより7―いたち |
200199 | 1963年8木 | 旅だより8―筍と梅干・年中行事2、3 |
200 | 1963年11月 | 旅だより庄内関川の田ノ神 |
203 | 1964年11月 | 災害と生き物達、旅だより―粟島の神様・仏様 |
204 | 1965年1金 | 旅だより―粟島の神様・仏様 |
209 | 1966年 8 月 | 学館収蔵品シリーズ6スノウマ(共同執筆) |
200211 | 1967年3水 | 旅だより11―中山道の民家など |
200215 | 1968年8木 | 写真―大白川のサイノカミ、大白川のサエノカミ |
200216 | 1968年11月 | 表紙写真などしなばた |
200217 | 1969年5木 | 五十沢の山仕事、五十沢探訪余録 |
200223 | 1971年8日 | 田沢探訪記サイノカミなど |
225・226合併号 | 1972年9金 | 炭焼き倉ノ平の生業として |
同 | 同 | 農事落穂ひろい |
同 | 同 | 「日本の民俗」新潟に寄せて |
200228 | 1973年9土 | 2つの市(いち) |
229・230合併号 | 1974年3金 | 上関田の年中行事 |
229・230合併号 | 1974年3金 | 上関田の祝い唄 |
200235 | 1974年12月 | 南佐渡の葬制に関連して |
237・238合併号 | 1975年10月 | 岩船町の民俗聞書 |
244・245合併号 | 1977年2火 | 大白川の狩猟習俗 |
252000 | 1979年 1 月 | 「高志路」250号の歩み、磯貝勇先生を悼む |
200257 | 1980年10月 | 表紙写真大刈上げの祝い |
200258 | 1981年2日 | 角田浜の婚姻・年齢集田ほか |
200262 | 1982年1金 | 続・族だより1―火伏せその1 |
200263 | 1982年 2 月 | 続・族だより2―火伏せその2 |
同 | 同 | 「日本伝説大系第3巻南奥羽・越後」 |
同 | 同 | 「佐渡相川の絵馬」 |
200264 | 1982年4木 | 鰍江の葬送習俗、坂井探訪メモ |
200269 | 1983年 8 月 | 大和町東谷の作神と民俗 |
272000 | 1984年1日 | 表紙写真山北町雷のサイド焼き作り |
同 | 同 | 山北町雷の正月行事と小正月行事 |
同 | 同 | 相川町稲鯨の岩崎さんのこと |
200271 | 1984年3木 | 山北町雷の正月行事と小正月行事 |
200272 | 1984年6金 | 西田尻の葬送・供養習俗と墓制 |
200273 | 1984年9土 | 表紙写真七夕丸、中里村探訪余録 |
200274 | 1984年12月 | 表紙写真エビスサマ |
200275 | 1985年3金 | 浦田地区で聞いた馬の民俗 |
々 | 々 | 深坂峠をめぐる民俗 |
200276 | 1985年 7 月 | 表紙写真ぜんまい採り・盆の墓参り・刈り初め |
同 | 同 | 三面の刈入れ、三面の盆行事、吉田さん安らかに |
200277 | 1985年9日 | 仙田地区の葬送習俗 |
200278 | 1985年12月 | スノヤマのこと、事務局を引き受けて |
200279 | 1986年3土 | 「兎が跳ぶ」について山口氏の質問に挙えて |
282000 | 1986年7火 | 荒井浜の漁撈と言葉 |
同 | 同 | 荒井浜のわらべ唄、荒井浜の年中行事 |
200284 | 1987年7水 | 青年会・江戸逃げ・東京行きなどのこと |
200287 | 1988年4金 | 葬送習俗抄 |
200288 | 1988年7金 | イサザのこと |
同 | 同 | 山口賢俊「森谷周野氏の逝去を悼む」 |
200289 | 1988年10月 | 佐渡久知河内のトウライヤさん |