特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

森 章一(平成10年卒)- 夢を夢で終わらせない南極への想い

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 森章一は2005(平成17)年1月、文部科学省登山研修所から南極観測隊への推薦を受ける。冬期訓練を経て6月に正式採用され、7月1日から東京都板橋区にあった国立極地研究所の事業部職員として南極観測隊の準備に携わる。そして、南極観測隊員に任命され、越冬設営隊員「装備フィールド・アシスタント」という任務で観測隊に加わった。

第47次日本南極地域観測隊

  • 活動期間:2005(平成17)年11月28日~2007(平成19)年3月28日
  • 目的:昭和基地周辺環境の状況把握に関わる調査(排水および地表面のサンプリング、廃棄物等の現状調査、写真モニタリング調査等)
  • 観測隊の構成:越冬隊36名(神山孝吉副隊長兼越冬隊長)、夏隊23名、同行者(夏期)7名 計66名

 森章一は、2005年末から派遣された第47次南極観測隊に参加する。南極観測船「しらせ」は11月14日、東京港を出港。一方、観測隊員たちは11月28日に飛行機で成田を出発、翌日、オーストラリアのフリーマントルでひと足早く入港していた「しらせ」に乗船する。食糧品などの積み込みを終え、12月3日、南極に向けフリーマントル港を出港した。

 南極までは“吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度”という荒れ狂う暴風圏を通過しなければならない。出港後、「しらせ」は低気圧の中に入り、揺れが次第に大きくなって最大42度まで傾いた。8日に南緯55度(南極域)を越え、しばらくすると氷山が現れ、15日、昭和基地のあるリュツォホルム湾の定着氷域に入った。

 17日、洋上の「しらせ」から昭和基地へ物資の空輸と隊員の輸送が始まり、森も「しらせ」の甲板から自衛隊ヘリに乗り、ひと足先に昭和基地に入った。その後、「しらせ」は定着氷域から厚さ1.5m以上の乱氷帯に入り、いったん後ろに下がって定着氷に体当たりするチャージングを繰り返し、砕氷しながら前進する。そして24日、昭和基地から1540mの地点に接岸した。

 物資や隊員が揃うと、越冬隊が交代するまでの短い夏の間に屋外の土木作業計画を終わらせなければならず、白夜の中、全員総出で土木作業に従事した。森は山岳部出身という理由で、高所作業や危険な箇所での作業を割り当てられた。

 年が明けた2006(平成18)年2月1日に越冬交代式、続いて越冬成立式が行われ、「しらせ」は第46次の隊員たちを乗せ、帰国の途に就いた。第47次越冬隊員は2月1日から翌2007(平成19)年1月31日まで、昭和基地の維持管理と研究観測を命令され、これに従事する任務を負った。森の主な仕事は、基地から100kmの範囲内にある観測小屋まで、海氷上にルートを確保することであった。

 3月から大陸の内陸に向かう海氷ルートを約1ヶ月費やして工作し、4月下旬に開通させる。ところが、5月8日から猛烈なブリザードが襲来し、一夜にしてルートは流れ去り、繰り返しの作業がしばらく続いた。6月から7月にかけて南極大陸は極夜という陽が出ない夜長となり、2~3時間薄明るくなる程度で、屋外作業は滞った。

 森は10月25日から翌2007年2月2日まで、「ドームふじ基地」での観測に参加する。「ドームふじ基地」は南緯77度、標高3810mの氷床頂上部にあり、氷床の厚みは3000mもあり、年平均気温は氷点下53度という想像を絶する寒さであった。

 ここで氷床掘削を底部まで行ったが、ドリルを回す電源線がショートするトラブルが続いた。彼は以前、電気店で修理技師の経験があり、毎日、ヒューズ管を再生させる作業に当たった。その結果、ようやくドリルは氷床底部に達し、アイスコアを掘り上げ、氷床掘削計画は無事終了した。

 帰路は荷物も減り、約10日間という早さで2月2日、昭和基地に帰り着く。すでに「しらせ」が接岸し、次の第48次隊の隊員たちが忙しく働いていた。その中に、2003年アンナプルナⅠ峰登山隊のドクターとしてお世話になった志賀尚子先生が、第48次越冬隊の医療隊員として参加していた。

 こうして森章一は2月15日、「しらせ」に乗船し、1年2ヶ月にわたる長い南極生活に別れを告げた。

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