特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

自然に帰れ|明大山岳部を導いた孤高の第10代山岳部長 三潴信吾の哲学

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– “人の和”を説き、正義感に富んだ孤高の先生 –

  1953(昭和28年)4月、第10代の山岳部長として三潴信吾(みつま しんご)教授が就任する。三潴先生は1937(同12)年に東京高等学校を卒業したのち、1941(同16年)3月に東京帝国大学法学部を卒業、4月より東大名誉教授の筧克彦博士研究室の助手となる。三潴先生の神道思想や憲法論は、この筧博士の影響を色濃く受けたようだ。三潴先生は筧博士の子女と結婚し、まさに筧博士の直弟子となる。

 先生が東大を卒業したころの日本は、まさに戦争一色となり、1942(同17年)5月から終戦の1945(同20年)8月まで従軍する。そして、1946(同21年)12月、予科講師として明治大学に勤め、1948(同23)年5月に予科教授、翌年4月から新制大学となった明治大学の法学部助教授として教鞭を執る。その4年後、先生が37歳のとき、前任の泉靖一先生から引き継ぎ山岳部長に就く。前任の泉部長が東京大学へ異動の話があったとき、後任として三潴先生の名前が何度か候補に上がった。泉先生は「後任の部長を三潴先生にお願いしなさい」と部員に伝えていたようだ。三潴先生は心構えができていたのか、躊躇なく山岳部長を引き受けてくれた。

 このような経緯で山岳部長になった三潴先生は、孟子の名句から“人の和”を説き、部員にチームワークの大事さを訴えた。ところが、三潴先生は教員のストライキに反対し、1957(同32)年3月に明大を去ることになる。辞める1年前から、三潴先生は当時のイデオロギー問題などに巻き込まれ、法学部教授会の秩序を乱したという理由で解雇に追い込まれてしまう。山岳部関係者から見ると、なんとも複雑な気持ちになる退任劇であった。

 のちに田村宏明が著わした『わが青春はヒマラヤの頂』(講談社、1965年7月発行)の中で、三潴部長に触れている。

 「(中略)先輩たちが口にする“山登りの精神”の真髄とはなんであろうか。30数年の伝統を培った各年代の先輩たちの心の中に燃えていた共通のものはなんであったろうか。その結晶である部のモットー“より高きに登る”とはなにを象徴するのだろうか。

 未知なるものへの征服欲パイオニア・ワーク

 わたしはその疑問から離れることができませんでした。そのとき、啓示のようにひらめいたのは、明大山岳部の三潴前部長の話された言葉の一部でした。

『山で人が道に迷ったときには自分のわかる地点までもどるように、歴史の流れにおいても行き詰まったときには、ルネッサンスといい、ギリシャ時代といい、人間はふたたび出発点に、すなわち“自然に帰れ”ということが叫ばれた。』

 わたしは登山の本質論にもどって考え始めました。(中略)」

 と書いている。部活動や部の運営に悩んでいた田村の頭に浮かんだのは、新人時代の山岳部長であった三潴先生の「自然に帰れ」という言葉であった。悩み多き部員たちに、分かりやすい言葉を選び語り掛けてくれたのだろう。部長在任中に日本山岳会マナスル登山隊が派遣される。その第2次隊に参加する大塚博美の壮行会が1954(同29年)1月25日、本校の師弟食堂で開かれた。このとき三潴部長も出席し、山岳部OBとして初めてヒマラヤに挑む大塚隊員に激励の言葉を贈っている。

 三潴先生は、山岳部というクラブ活動の真髄である「山登りの精神性」に強く共鳴したようだ。諸事情で1957年3月に明大を去り、翌月から高崎経済大学に移る。赴任した高崎経済大学に山岳部がないことを知ると、ご自身が発起人となり山岳部の創設に動く。その背景にあったのは、明大山岳部で知った「山登りの精神性」を高崎経済大学の学生にもぜひ教えたいという、三潴先生の強い想いからだった。高崎経済大学に山岳部を創設するとき、三潴先生から大塚博美はじめ炉辺会に支援や協力要請があった。結果として高崎経済大学に山岳部が新設されたことを思うと、三潴先生に少しは恩返しができたのではないだろうか。

 退官後はご自身で山登りを楽しんでいたが、2003(平成15年)1月6日、肺炎のため逝去する。享年86歳。自らを厳しく律する生き方も含め、一貫した正義感や信条を持つ三潴信吾先生からは、若い山岳部員に自然に対する心構えだけでなく、人生に処する心構えまでも教えていただいた。

 終戦から10年が過ぎる昭和30年代を迎えると、日本の山岳界「登山の大衆化」という新しい波が押し寄せた。こうした「登山ブーム」に流されず、毅然として「原点に戻れ、自然に帰れ」と部員たちを励ましてくれた孤高の部長先生であった。

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