特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

第10期(2012-2021年) 山岳部の100年先を見据えて

目次

少数精鋭で踏ん張る山岳部と炉辺会の世代交代

2012(平成24)年5月、駿河台リバティタワーで創部90周年記念祝賀会が開かれた。この年、主将の宮津はスケジュール管理を徹底し、合宿の合間に“準合宿”を挟み、目的別のきめ細やかな山行で集中力を切らさなかった。これが新人を残留させる一つの要因となった。13(同25)年度は新人4名が入部、4年1名、3年1名、2年5名と久方ぶりに10名態勢となった。12年度から3年間の冬山合宿は、いずれも目標の山頂を踏めなかったが、15年度(主将・松本拓也)は、冬山出発合宿で東尾根から鹿島槍ヶ岳北峰に立ち目標を完遂する。

16(平成28)年度からの3年間は4学年が揃わず、各合宿に少なからず影響を与えた。スポーツ入試で入った学生の退部、怪我をするとすぐ辞めてしまう部員など、絶えず一桁の部員数による厳しい部活動が続いた。ここにきて、スポーツ入試による学生が少なくなる傾向が続き、スポーツ入試制度にある程度依存してきた部にとって、新たな頭の痛い問題となった。

この年、山岳部と炉辺会ともトップが代わり、新たなスタートを切る。部員減少という逆風の中、13年間にわたり山岳部監督を務めてきた山本宗彦が退任、中澤暢美にバトンが渡される。その中澤は就任早々、新入部員が1人も入らないという厳しい洗礼を受ける。また、炉辺会は節田重節から戦後生まれの吉澤清に会長が引き継がれた。

そうした矢先、MACの戦後復興を築き、日本山岳会の会長を務めた大塚博美が6月、逝去する。この年の冬山決算合宿はわずか3名(4年1名、3年1名、2年1名)で爺ヶ岳・東尾根から鹿島槍ヶ岳に立つ。OBの手助けを借りることなく学生のみで実施、学生の意地を見せた。この年の暮れ、嬉しいニュースが飛び込む。前山岳部長の小疇尚生が、平成30年度の秩父宮記念山岳賞受賞の栄誉に輝いた。

時代が令和になる19年4月、飯田年穂先生が退任、加藤彰彦先生が山岳部長に就く(「山岳部長人物史」参照)。小田英生が主将の春、新人4名(スポーツ入試1名、一般3名)が入部する。しかし、学年構成は小田1人に新人4名という厳しい変則状態となる。

創部100周年に向け、チャレンジは続く

「ドリーム・プロジェクト」以降、山岳部と炉辺会による海外遠征は、しばらく鳴りを潜めた。それでもOBたちは少人数の登山隊や公募隊に加わり、ヒマラヤを目指した。とりわけスポーツ推薦で入部した三戸呂拓也と宮津洸太郎の活躍が目を引いた。

2012年夏、三戸呂は東海大OBの平出和也氏とペアで、パキスタンのフンザにあるシスパーレ(7611m)に未踏ルートの南西壁から挑んだ。しかし、核心部の雪壁で高度を稼げず5750m地点で断念する。翌13年春、三戸呂はテレビ番組のサポート隊に加わりマナスル(8163m)に登頂。また同年夏、栃木K2登山隊に参加した佐々木理人は、大規模な雪崩が発生し断念する。

15年秋、日本山岳会の2つの登山隊がヒマラヤに向かった。学生部ネパール東部登山隊に宮津が登攀隊長として参加、未踏峰ジャネ II(6318m)に登頂する。もう一つの日本アピ隊に加わった三戸呂は、転進した北面の初登ルートからアピ(7132m)に登頂する。18年も三戸呂と宮津の2人が活躍する。秋に三戸呂は友人とペアを組んで、未踏の北壁からニルギリ北峰(7061m)に挑んだが、北壁のコンディションが悪く5900mで断念。一方の宮津は日本山岳会青年部チャムラン登山隊に参加、西稜からチャムラン(7319m)に向かったが、メンバー1人が体調を崩し6400m地点で撤退となる。翌19年、三戸呂はガッシャーブルムに挑み、I峰は断念したもののII峰(8035m)に登頂、久々に8000m峰の頂に立った(巻末「登頂クロニクル」参照)。20(令和2)年になると、世界的な新型コロナウイルス感染流行で海外渡航が難しくなり、海外登山は自粛せざるを得ない状況になってしまった。

安定的な炉辺会運営と史料の電子化

創部90周年記念で出版された『炉辺』第10号(2012年6月発行)が、山岳雑誌『岳人』から2012年度岳人会報賞の準優秀賞を贈られ、90周年に花を添えた。

炉辺会は1978(昭和53)年に「終身会費制度」を導入、基金の運用益をもって会の運営に当たってきた。しかし、金利の低下で運用に限界が生じる事態となる。また、基金運用面で長年、財務を担当してきた秋山光男の後継者がいないことも重なり、理事会で今後の基金運用を検討した。その結果、リスクのある金融商品で運用益を得る方法をやめ、銀行預金に切り替え安定的な運用を図ることにした。部員の少数化に伴いOBの数も自然減少をたどる時代を迎え、安心・安全な炉辺会運営に舵を切った。

このころ山岳部および炉辺会が所蔵する様々な史料の電子化(PDF化)に取り組んだ。会報『炉辺通信』のアーカイブが完成した後、機関誌『炉辺』をはじめ山岳部の年間計画書・報告書、書籍などを史料や記録を電子化した。また、山岳部でも2016年から部室の書棚にある図書のナンバーリングとデータ化を行った。そうした中、炉辺会の諸会合で利用してきた「炉辺会ルーム」のあるビルが取り壊しと決まり、2015(同27)年11月開催の理事会が最後となった。40年余り使用された、便利なクラブルームであった。

コロナ禍で山岳部、炉辺会の活動停滞

創部100周年を迎える2年前の2020年、新型コロナウイルスが猛威をふるい、東京オリンピックを延期する事態となる。3月末には学内から「活動自粛要請」が出され、併せて学内立入禁止となり、リモート授業が続けられた。そのため恒例の新人勧誘も行えず、SNSを使う勧誘方法を採った。その結果、スポーツ推薦入学1名と一般から2名が入部した。しかし、秋に一般からの2名が退部し、2年生2名、1年生1名の3名での部活動となった。

そうした中、山岳部の部室も入室が制限され、急遽、学外に仮部室を借りざるを得なくなった。さらに緊急事態宣言が発出されると、体育会の活動は「全面活動禁止」となり、5月、6月に予定していた山行、合宿は中止となる。6月中旬に大学より「体育会各部活動再開のガイドライン」が出され、中澤監督は大学と相談し、新型コロナウイルス感染防止のガイドラインを作成、活動再開を目指した。7月に入って大学より「山行の実施については、宿泊を伴わず、負荷の小さい山行から徐々に強度を上げていく」という条件付きで許可される。

その結果、短期間の登山から始め、合宿は夏山、冬山、春山の3合宿で29日、強化・養成など日帰り、短期間の山行が13回で35日、併せて64日という例年にない活動で終わった。主将の川嵜摩周は、「山行計画は年度当初から大きく変更を加え、ミーティングやコーチ会の方法も工夫し活動を行なった。度重なる計画変更や山行実施のための大学との連絡など、学生だけでなくOBも一層負荷の大きい1年であったと考える」と総括した。

一方、炉辺会も懇親行事を自粛、20年度の定期総会は中止、また、毎月の理事会も3密を避けるためメールで報告する方式に変更せざるを得なくなった。さらに創部100周年記念事業となる海外登山は、コロナ禍で海外渡航が難しくなり、プラン作りが難航した。21(令和3)年になっても緊急事態宣言の発出が続き、21年度総会は2年続けて中止に追い込まれてしまった。山岳部、炉辺会とも受難の年となった。

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