日本山岳会をはじめ社会人山岳会や地元山岳会の遠征隊に参加し、自らの夢に挑んだOBは数知れない。また、たった独りで登山や冒険に挑んだOBもいる。ここでは単独で挑んだ記録と、部外の登山隊に参加した記録とをまと
めた。
こうした学生およびOBたちの活躍は、山岳部と炉辺会の底力とマンパワーの強さをいかんな/く発揮したばかりでなく、登山経験の豊富さと能力の高さを実証した。また、内側から見ると、部外の登山隊に参加することは、ある意味 “武者修行” 的な一面があり、名のある登山家やほかの登山隊員たちと切磋琢磨して登攀技術を磨き、さらに視野を広める絶好の機会ともなった。
こうした部外での活躍は、海外の山に挑んだ活動記録として無視できない側面がある。ここに挑戦の数々書き留める。
目次
単独行および部外登山隊とのクロニクル
第1部 (1935~1969年)
1. 台湾の山単独行
- 登山時期: 1935(昭和10)年7月16日~25日
- 目的: 新高主山(3952m)の登頂と能高山(3262m)から奇萊主山へ縦走
- 参加者: 根本正之(昭和14年卒)
- 活動概要: 昭和10年、夏山山行の第8班として根本1人が台湾の山々を目指した。7月18日に新高主山に登頂したが、能高山からの縦走は雨天による2日間の停滞で断念。
2. 日本山岳会第2次マナスル登山隊
- 登山時期: 1954(昭和29)年3月~6月
- 目的: 日本人初の8000m峰マナスル(8163m)初登頂
- 参加者: 大塚博美(昭和23年卒、29歳)<堀田弥一隊長ほか隊員14名>
- 活動概要: 地元のサマ住民に登山を阻止され、ガネッシュ・ヒマールを試登して帰国。
3. 日本山岳会第3次マナスル登山隊
- 登山時期: 1956(昭和31)年3月~6月
- 目的: 日本人初の8000m峰マナスル(8163m)初登頂
- 参加者: 大塚博美(31歳)<槇有恒隊長ほか隊員12名>
- 活動概要: 大塚は5月8日、エプロンを登攀し北東稜上に新ルートを拓き、プラトーの上7900m付近に到達、プラトーへの関門を開く。翌9日の初登頂を導く大きな役割を果たす。
4. ペンタン・カルポ・リ単独行
- 登山時期: 1964(昭和39)年9月~10月
- 目的: ランタン・ヒマールのペンタン・カルポ・リ(6865m)の単独登頂
- 参加者: 田村宏明(昭和35年卒、28歳)
- 活動概要: ランシサ・リの北の支流氷河4700mにBCを設け、雇った2人のシェルパと登山を開始。北への山稜をたどって初登頂したスイス隊ルート上に2つのキャンプを設ける。10月22日、アタックに向かう。2人のシェルパは落伍し、独りで頂上を目指す。午後3時、ペンタン・カルポ・リに単独で第2登を果たす。
5. モン・ブラン、キリマンジャロ単独行
- 登山時期: 1966(昭和41)年7月・10月
- 目的: ヨーロッパとアフリカの最高峰に単独登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒25歳)
- 活動概要: 2年前の昭和39(1964)年11月、単独でモン・ブラン(4810m)に初挑戦するがクレバスに落ち退却。再度41年7月、モン・ブランに挑み単独登頂に成功。さらに24日イタリア側の西稜からマッターホルン(4478m)に単独登頂。その後アフリカ大陸に渡り、10月16日ケニア山(5199m)に登頂、続いて24日、キリマンジャロ(5895m)に独りで登頂。
6. 長野県山岳協会ペルー・アンデス遠征登山隊
- 登山時期: 1967(昭和42)年5月~7月
- 目的: ペルー・アンデス、コルディエラ・ブランカ山群のサンタクルス・ノルテ(5829m)初登頂。登山と高所医学の調査、ペルー在住長野県人会との交流
- 参加者: 隊長=村井栄一(昭和12年卒、54歳、上田山岳会)<隊員10名>
- 活動概要: 隊員たちは6月23日、ネバド・ワンツァン南峰(5915m)に初登頂。24日ネバド・ルーレック(5700m)、25日ネバド・ヤウアラフ(5675m)、30日ネバド・キソ(5369m)にそれぞれ登頂。その後ワラス北方に移動、7月8日BC建設。アタック隊4名は23日、西稜上でビバークののち24日、サンタクルス・ノルテに初登頂。
7. 国際アルピニスト集会 アルプス登山
- 登山時期: 1967(昭和42)年7月10日~29日
- 目的: フランス・シャモニで開催の国際アルピニスト集会に参加、アルプスの高峰登山
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、26歳)と伊藤頌司(同41年卒)
- 活動概要: シャモニの国立登山学校を会場に開催され、参加者は校長のジャン・フランコ氏はじめ教官のコンタミヌ氏から氷雪技術の講習を受ける。その後2人はモン・ブラン、ミディ針峰、メールド・グラス、モアヌ針峰南壁などを登攀。また、海外のアルピニストたちと交流を深めた。
8. アコンカグア単独行とアラスカの山
- 登山時期: 1968(昭和43)年1月~2月・9月
- 目的: 南北アメリカの最高峰に単独登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、27歳)
- 活動概要: 南米に渡り1月19日エル・プラタ(6503m)、2月5日にアコンカグア(6962m)に単独登頂。その帰り無名峰(5700m)に登り、この山を母校にちなんで「明治峰」と命名。8月北米に渡る。9月19日、アラスカ東部ランゲル山群のサンフォード(4949m)に登頂するが、北米最高峰マッキンリーの単独登山は許可が下りず断念。
9. 日印合同婦人ヒマラヤ登山隊
- 登山時期: 1968(昭和43)年4月~7月
- 目的: インド登山財団と日本山岳会との合同登山で、パンジャブ・ヒマラヤのカイラス峰(5656m)ほか3峰登頂と日印親善
- 参加者: 伏見(旧姓:須田)紀子(昭和38年卒、27歳)<宮崎英子副隊長ほか隊員4名、インド側=ナンディニ・パテル隊長ほか隊員6名、計10名>
- 活動概要: カイラス峰の東側に登路を見付け5月12日、4510mにC3建設。翌13日に2人ずつのザイル・パーティ5組で1100mを一気に登り、カイラス峰に全員登頂を果たす。明大山岳部出身女性として初めて5000m峰登頂者となる。次のサナクデンク・ジョット(6045m)は断念、もう1つの目標バラカンダ(5835m)は中止。
10. 日本山岳会第1次エベレスト偵察隊
- 登山時期: 1969(昭和44)年4月~6月
- 目的: アイスフォールの偵察と未踏の南壁ルートを観察
- 参加者: 隊長=藤田佳宏(昭和30年卒、36歳)、隊員=植村直己(同39年卒、27歳)、菅沢豊蔵(同40年卒、24歳)<報道隊員1名 計4名>
- 活動概要: 5月14日にBC(5400m)を設営、16日よりアイスフォールの偵察とルート開拓。21日アイスフォールを越えた5850mにC1建設。24日ウェスタン・クウムに入った6150m付近にC2建設。翌25日に植村は6500m付近まで登ったが、モンスーンが早く南壁の試登はできず、双眼鏡で南壁の取付付近を観察。翌26日BCに帰幕。
11. 日本山岳会山陰支部ヒンズー・クシュ遠征隊
- 登山時期: 1969(昭和44)年6月~8月
- 目的: 未踏峰チュティドゥム・ゾム(ヒム・ゾム、6441m)の初登頂
- 参加者: 廣江研(昭和39年卒、27歳)<藤井信一郎隊長ほか隊員4名>
- 活動概要: 7月17日ノロギク氷河上3800mにBC建設。広大な氷原の4700mにC1、頂上から延びる岩壁基部5300mにC2設営。26日頂上から南下する尾根上5800mにC3建設、アタック態勢が完了。翌27日第1次隊の廣江パーティは最難関の第2岩峰を乗り越え、チュティドゥム・ゾムに初登頂。翌28日第2次隊もアタック成功。帰国後、この山を「ヒム・ゾム」と命名。
12. 日本山岳会第2次エベレスト偵察隊
- 登山時期: 1969(昭和44)年8月~11月
- 目的: 未踏の南壁試登および気象観測
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、28歳)<宮下秀樹隊長ほか隊員8名、報道班4名>
- 活動概要: 9月16日BC入りし、アイスフォールにルート工作。28日C1(6100m)、10月4日ABC(6500m)、15日C3(6700m)を建設。31日小西政継と植村が、11月1日中島寛と佐藤之敏が南壁を試登、8050mに到達。偵察隊は18日カトマンズに帰着。植村は1人クムジュン(3900m)で越冬、気象観測および本隊のシェルパ雇用に当たる。
13. 日本山岳会エベレスト登山隊
- 登山時期: 1970(昭和45)年3月~5月
- 目的: 南壁からの初登頂と南東稜から日本人初の世界最高峰エベレスト(8848m)登頂
- 参加者: 登攀隊長=大塚博美(昭和23年卒、45歳)、隊員=藤田佳宏(同30年卒、37歳)、田村宏明(同35年卒、32歳)、平野眞市(同36年卒、31歳)、土肥正毅(同37年卒、31歳)、植村直己(同39年卒、28歳)<松方三郎隊長ほか隊員39名>
- 活動概要: 5月10日最終キャンプC6を8513mに建設。翌11日、早大OB松浦輝夫(35歳)と植村は6時10分C6を出発、9時10分南東稜から日本人として初めて世界最高峰の頂に立つ。翌12日第2次隊の平林克敏(35歳)とシェルパのチョタレイも登頂に成功。南壁隊は8050mまで達したが、核心部のロックバンドに届かず、落石で負傷する隊員も出て断念。
14. マッキンリー単独行
- 登山時期: 1970(昭和45)年8月
- 目的: カヒルトナ氷河ルートから北米最高峰マッキンリー(現・デナリ、6190m)の単独登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、29歳)
- 活動概要: 7日間という短期間で8月26日、北米最高峰マッキンリーに初の単独登頂を果たす。この登頂で植村は世界初の「5大陸最高峰登頂者」となる。
15. 山学同志会冬期グランド・ジョラス北壁隊
- 登山時期: 1970(昭和45)年12月~1971(昭和46)年1月
- 目的: ウォーカー側稜からグランド・ジョラス北壁の冬期日本人初登攀
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、30歳)<小西政継隊長ほか隊員6名>
- 活動概要: 12月22日から登攀開始。26日灰色のツルム基部に到達。27、28日三角雪田までの岩稜は荒れ狂う吹雪との闘いとなり、頂上まで300mの三角雪田でビバーク。29、30日の2日間で激しくスノーシャワーが落下する中央クーロワールにザイルをフィックスする。年が明けた1月1日午後零時30分、ウォーカー・ピーク(4208m)に到達、冬季第3登と日本人初登を果たす。
16. 国際エベレスト南壁登山隊
- 登山時期: 1971(昭和46)年3月~5月
- 目的: 未踏の南西壁ルートからエベレスト(8848m)登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、30歳)<ノーマン・ディーレンファース隊長ほか隊員23名>
- 活動概要: 植村と小西政継が参加予定だったが、小西は冬季グランド・ジョラスで凍傷により足指10本を切断し辞退。そのため日本代表として伊藤礼造(山学同志会)と2人で参加。植村はC5の8100mに到達。しかし、各国のアルピニストの寄せ集めから統制が取れず、途中撤退で終了。
17. 南極大陸単独横断偵察行
- 登山時期: 1972(昭和47)年1月5日~16日
- 目的: アルゼンチンからの協力を得て、南極大陸単独横断の偵察
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、31歳)<取材スタッフ>
- 活動概要: アルゼンチンのベルグラーノ基地に入り、基地付近の氷や雪の状態を調べる。また、基地の隊員から南極の天候、気温、風などを取材する。短期間の滞在のため、ヘリコプターで基地から100kmほど内陸部の氷河やクレバスなどを偵察。
18. モン・ブラン、サポート登山
- 登山時期: 1972(昭和47)年7月~8月
- 目的: 佐藤久一朗(キャラバン社長)をサポートしながら、ヨーロッパ・アルプス最高峰モン・ブラン(4810m)登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、31歳)<メンバー=佐藤久一朗、小西政継>
- 活動概要: 8月2日ソルベイ小屋(4003m)を出発、72歳の佐藤氏を小西と植村がサポートしながらヨーロッパ・アルプスの最高峰モン・ブランに登頂。
19. グリーンランド犬橇3000㎞単独行
- 登山時期: 1973(昭和48)年2月~4月
- 目的: 南極大陸横断の予行演習として、グリーンランド海岸線3000㎞の犬橇走行
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、31歳)
- 活動概要: 2月14日氷点下44度の中、13頭の犬でカナックを出発。シオラパルクから南下してウパナビックまでグリーンランド北西岸を往復。南極横断とほぼ同じ距離の3000㎞を犬橇で走破し、4月30日カナックに戻る。
20. 鹿児島県山岳連盟ルムディン・ヒマール学術調査隊
- 登山時期: 1973(昭和48)年12月~1974(昭和49)年1月
- 目的: ルムディン・ヒマールの山々の登路調査および試登、並びに周辺の氷河調査など
- 参加者: 隊長=赤星昌(昭和7年卒)<隊員14名>
- 活動概要: 先発隊4人はルムディン・コーラに踏み込み、6000m級の山々の登路を調査。赤星隊長ら後発8人は現地で登山旅行許可証や飛行機の関係で先発隊と合流できず、アンナプルナ山群に向かい、隊員たちは未踏のスリチョン(5100m)に登頂。
第2部 (1974~1984年)
21. 鹿児島県山岳連盟ヒマラヤ遠征隊(第2次)
- 登山時期: 1974(昭和49)年12月~1975(昭和50)年1月
- 目的: ネパール側の事情でキャリオルング(6511m)の登山許可が下りず、未踏峰のガンチェンポ(6387m)の登路探査に変更、同時に氷河地形の推移や動植物などの学術調査
- 参加者: 隊長=赤星昌(昭和7年卒)<隊員22名>
- 活動概要: 5班に分かれて偵察、調査活動する。ルムディン・ヒマールのカリヨルン(キャリオルング)偵察は難航。ランタン・ヒマールのガンチェンポは隊員3名が5100m地点に達し写真撮影。
22. 北極圏12000㎞犬橇単独行
- 登山時期: 1974(昭和49)年12月~1976(昭和51)年5月
- 目的: 単独で犬橇による北極圏1万2000㎞走破
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、33歳)
- 活動概要: 12月20日グリーンランドのヤコブスハウンを出発、ケケッタから犬橇旅行を開始、1976年5月8日にアラスカのコツビューに到着。約1年半をかけグリーンランドからアラスカまで、北極圏1万2000㎞を犬橇単独走破に成功。
23. カラコルム・バルトロ氷河踏査
- 登山時期: 1975(昭和50)年6月~7月
- 目的: 炉辺会員がまだ足を踏み入れていないカラコルムに入域、バルトロ氷河を踏査
- 参加者: 河野照行(昭和48年卒、23歳)、和田耕一(同50年卒、22歳)
- 活動概要: 6月25日バルトロ街道最奥のアスコーレからビアフォ氷河を渡り、パンマ氷河を越え27日バルトロ氷河に入る。7月2日標高4700mのコンコルディアに着き、K2の雄姿やガッシャーブルム、ブロード・ピークを展望。
24. 日本山岳会日印ナンダ・デヴィ登山隊
- 登山時期: 1976(昭和51)年4月~6月
- 目的: 双耳峰のナンダ・デヴィ東峰(7434m)から主峰(7816m)へ初縦走
- 参加者: 長谷川良典(昭和45年卒、28歳)<総隊長=渡辺兵力、隊長=鹿野勝彦ほか隊員14名、インド側隊員7名 計21名>
- 活動概要: 第1次縦走隊の長谷川と高見和成は、6月13日東峰頂上のE4(7430m)を出発、主峰へ縦走を開始。やせ尾根を登下降しながら雪のリッジを進み、最難関ジャンダルムに挑む。ここで5時間近く苦闘し、狭い雪稜に出ると西側のサポート隊員に迎えられ、稜線上のW5(7250m)に入る。翌14日は風雪で全キャンプ停滞。15日W5を出発し、主峰に向かう。風雪に悩まされながら頂上に着く。激しい風雪の中サポート隊に迎えられてW4に着き、ナンダ・デヴィ初縦走に成功。
25. 第2回日印合同女子ヒマラヤ登山隊
- 登山時期: 1976(昭和51)年5月~6月
- 目的: 日本山岳会とインド登山財団が主催し、ガルワール・ヒマラヤのカメット(7756m)およびアビ・ガミン(7355m)登頂と、登山を通じて日印両国の親善を図る
- 参加者: 副隊長=伏見(旧姓須田)紀子(昭和38年卒、35歳)、奈須(後姓麻生)文枝(明大OG、特別会員)<ミーナ・アグラワル隊長ほか日本側隊員5名、インド側隊員5名 計10名>
- 活動概要: ABCとなるC3を5450m、C4を氷河台地6100m、そしてミーズ・コル寄りの6800mにC5建設。6月15日ミーズ・コル上の7000mに最終キャンプC6を設営。翌16日と17日悪天候の中、カメットを目指したが深いラッセルと吹雪で登頂を断念。18日カメットの隣のアビ・ガミンに向かい、奈須文枝とインド側隊員らが登頂。
26. エルブルース単独行
- 登山時期: 1976(昭和51)年7月
- 目的: コーカサス山脈のヨーロッパ大陸最高峰エルブルース(5642m)登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、35歳)
- 活動概要: 7月31日ソ連(現・ロシア)の最高峰であり、ヨーロッパ大陸最高峰でもあるエルブルースを制覇、世界5大陸最高峰の真の登頂者となる。
27. 北極点・グリーンランド縦断犬橇単独行
- 登山時期: 1978(昭和53)年3月~8月
- 目的: 犬橇で北極点単独到達とグリーンランド単独縦断
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、37歳)
- 活動概要: 3月5日犬橇「オーロラ号」はエルズミア島を出発。56日間をかけ約800㎞を走破し、4月29日北極点に単独で到達。その後、5月12日グリーンランド北端のモーリス・ジェサップ岬を出発、グリーンランド縦断に入り8月22日グリーンランド南端のヌナタックに到着、初縦断に成功。走行距離は3000㎞に及ぶ長大な犬橇行となる。
28. 日本山岳会チョモランマ偵察隊
- 登山時期: 1979(昭和54)年9月~10月
- 目的: 中国側ノース・コルのルート偵察
- 参加者: 長谷川良典(昭和45年卒、31歳)<斎藤淳巨隊長ほか隊員9名>
- 活動概要: BC予定地に幕営し、中央ロンブク氷河にC1、東ロンブク氷河にC2を設営し、北東稜ルートを偵察。後半は北壁を偵察。10月12日ノース・コル斜面で雪崩が発生、長谷川は流されクレバスに落ちたが、自力で脱出し助かる。しかし、中国側隊員3名が死亡したことで偵察中止、10月25日BC撤収。
29. 日本山岳会チョモランマ登山隊
- 登山時期: 1980(昭和55)年2月~5月
- 目的: 中国側の東ロンブク氷河からノース・コル経由で北東稜ルートからの登頂、並びに北壁からの初登頂を目指す
- 参加者: 北東稜隊隊員=長谷川良典(昭和45年卒、33歳)、三谷統一郎(同53年卒、24歳)<渡辺兵力隊長ほか日本側隊員40名>
- 活動概要: 北東稜隊は8250mに最終キャンプC7を建設。5月3日加藤保男が午後8時55分、単独で登頂する。北壁隊は10日第3次アタック隊の重廣恒夫、尾崎隆が最終キャンプC5(8230m)を出発、午後8時50分登頂に成功。長谷川は北東稜C5(7500m)に達したが、登山中にWPW症候群を指摘されアタックから外れる。三谷は北東稜の第2ステップ下8680m付近まで、ルート工作や荷揚げで活躍。
30. 皆既日食撮影でキリマンジャロ登山
- 登山時期: 1980(昭和55)年2月
- 目的: 赤道付近で皆既日食を観測・撮影するためキリマンジャロ(5895m)登山
- 参加者: 赤松威善(昭和35年卒)、水戸守巌(同37年卒)
- 活動概要: 皆既日食を撮影する朝日放送のテレビ企画で2月1日から24日まで、赤道付近が撮影ポイントとなり、アフリカ最高峰キリマンジャロを目指す。マラングゲートから登り、5日目頂上直下5000mに着き、翌6日目キリマンジャロ頂上に立つ。
31. 冬期アコンカグア遠征隊
- 登山時期: 1980(昭和55)年7月~8月
- 目的: 厳冬期のアコンカグア(6962m)登頂と高所における耐風・耐寒の低温トレーニング
- 参加者: 隊長=植村直己(昭和39年卒、39歳)、隊員=土肥正毅(昭和37年卒、41歳)、松田研一(同52年卒、25歳)<医師=武井滋、報道=阿久津悦史 計5名>
- 活動概要: 8月13日に植村、松田とカメラマン阿久津の3名がアコンカグアの厳冬期第2登に成功。
32. 日本冬期エベレスト登山隊
- 登山時期: 1980(昭和55)年12月~1981(昭和56)年2月
- 目的: 南東稜から厳冬期のエベレスト(8848m)登頂、並びに高所における雪氷・氷河地形、高所医学および気象の研究、調査
- 参加者: 隊長=植村直己(昭和39年卒、39歳)、副隊長=土肥正毅(同37年卒、41歳)、隊員=菅沢豊蔵(同40年卒、37歳)、松田研一(同52年卒、25歳)、三谷統一郎(同53年卒、24歳)<竹中昇(27歳、早大OB) 計6名>
- 活動概要: 11月26日クーンブ氷河上5350mにBC設営。12月9日アイスフォールを突破し6050mにC1、17日6500mにC2建設。26日ローツェ・フェースの7300mにC3を設営したが、翌日から再び強風に阻まれる。年が明けた1月5日から登攀を再開。ところが、12日早大OBの竹中隊員がC3からC2へ下山の途中、ローツェ・フェースで転落死する。20日から再び登攀を開始、植村、松田、三谷たちはC2に入ったが、翌日から吹雪で5日間、C2に閉じ込められる。26日天候が回復しC2からC3へ上がる。27日に植村隊長のサポートを受け、三谷とシェルパ3人は強風の中サウス・コルのC4予定地(7985m)に到着したが、烈風でC4を設営できずC3へ戻る。28日登山続行を断念。
33. 南極大陸単独行
- 登山時期: 1982(昭和57)年1月~1983(昭和58)年3月
- 目的: 南極大陸3000キロ犬橇走破と南極大陸最高峰のヴィンソン・マッシフ(4892m)登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、41歳)
- 活動概要: 南極大陸にあるアルゼンチン軍基地の協力が得られ待望の南極に渡る。しかしイギリスとの間にフォークランド紛争が起き、アルゼンチン軍の支援が不可能となり断念。
34. 日本山岳会学生部第2次ボゴダ峰登山隊
- 登山時期: 1982(昭和57)年7月~8月
- 目的: 新疆ウイグル自治区にあるボゴダ峰第2高峰(5362m)登頂とボゴダ山群周辺の踏査並びに学術調査
- 参加者: 山本宗彦(昭和57年卒、22歳)<磯野剛太隊長ほか隊員15名>
- 活動概要: 3420mのモレーン上にBCを設営。そこから南稜上のコル4200mにC1、尾根状の4900mにC2を建設。8月20日、山本たちは雪庇が南側に張り出す主稜部から露岩混じりの雪稜を登り、未踏峰ボゴダⅡ峰に南稜から登頂を果たす。
35. 高松勤労者山の会ダウラギリⅠ峰登山隊1982
- 登山時期: 1982(昭和57)年9月~10月
- 目的: 北東稜ルートから世界第7位の高峰ダウラギリⅠ峰(8167m)登頂
- 参加者: 田中淳一(昭和51年卒)、三谷統一郎(同53年卒)<金沢健隊長ほか隊員5名>
- 活動概要: 9月22日アイスフォールを突破し4650mにBC建設。27日北東コル下5700mにC1、10月3日北東稜上6650mにC2を設営、上部にロープ30本をフィックス。15日大岩の下7500mにC3建設、アタック態勢が整う。17日、アタック隊の田中と三谷が初登ルートの北東稜をたどり、三谷が先に、田中が続いて登頂に成功。3つのキャンプを経て8000m峰のファイナル・ピークに立った。
36. 遠州山の会(浜松)クスム・カングル登山隊
- 登山時期: 1983(昭和58)年4月~5月
- 目的: クーンブ山群にあるクスム・カングル(6367m)北稜ルートから登頂
- 参加者: 隊長=伊藤彰則(昭和53年卒、28歳)、隊員=北村貢(同56年卒、25歳)<隊員5名>
- 活動概要: 4200mのBCからクスム・カングル北壁下まで登り、末端の岩峰を巻いて北稜上5000mにC1建設。北稜をたどり、小さなテラス5500mにC2を設営。5月2日、C2から傾斜60度のルンゼを登るが、核心部の花崗岩フェースと硬い氷に苦戦。壁を抜けると傾斜が落ち、上部の氷稜に続く5900mにACを建設。上部氷稜は青氷のナイフリッジとなり、ACから4P登った地点が最高到達地点となり断念。
37. 富山県山岳連盟ナンガ・パルバット登山隊
- 登山時期: 1983(昭和58)年6月~8月
- 目的: パンジャブ・ヒマラヤにある世界第9位の高峰ナンガ・パルバット(8126m)登頂
- 参加者: 中西紀夫(昭和56年卒、25歳)<木戸繁良隊長ほか隊員14名>
- 活動概要: 二度のアタックに失敗後、7月29日にルンゼ取付の7850mに仮C5を建設。翌30日、中西と谷口守隊員がC5を出発。途中悪い岩場をワンアットで越え、北の肩(8090m)に到達するも時間切れとなりビバーク。翌31日午前5時40分に登攀を再開し、朝7時5分にディアミール・ルートから“魔の山”ナンガ・パルバットの頂上に立つ。続いて谷口も登頂し、日本人として初の成功を果たした(第15登)。
38. 日本山岳会青年懇談会パミール登山隊1983
- 登山時期: 1983(昭和58)年7月~8月
- 目的: パミール高原にあるレーニン峰(7134m)、コムニズム峰(現・イスモイル・ソモニ7495m)、コルジェネフスカヤ峰(7105m)の3峰登頂
- 参加者: 山本宗彦(昭和57年卒、23歳)<千葉孝義隊長ほか隊員4名>
- 活動概要: 山本は7月27日にレーニン峰、8月7日にコムニズム峰にそれぞれ登頂成功したが、コルジェネフスカヤ峰は断念。
39. カモシカ同人冬季エベレスト・チョモランマ登山隊1983-84
- 登山時期: 1983(昭和58)年10月~1984(昭和59)年1月
- 目的: 中国側の北壁とネパール側南東稜およびローツェから世界最高峰の冬季同時登頂
- 参加者: 北壁隊=高野剛(昭和57年卒、24歳)、米山芳樹(同58年卒、24歳)<ネパール側=高橋和之隊長ほか隊員14名、中国側=今井通子隊長ほか隊員17名 計31名>
- 活動概要: 12月16日、ネパール側南東稜から山田昇、尾崎隆、村上和也、シェルパ1名の4名がジェット・ストリームの一瞬の隙を衝き登頂を果たした。一方、北壁隊は10月18日にBC(5620m)を設営して登攀を開始。10月26日にC1(6170m)を建設し、11月に天候が安定したものの、C2(6900m)からC3(7700m)建設まで1ヶ月を要した。12月9日、高野が8100m地点まで固定ロープを延ばしたが、その後連日吹き荒れる強風により北壁に取り付くことすらできず、BCで停滞。年明け1月2日、C2へ向かうも強風で引き返し、1月7日には登攀断念が決定。最高到達地点は8100mに留まった。
40. マッキンリー単独行
- 登山時期: 1984(昭和59)年1月~2月
- 目的: ウェスト・バットレスから厳冬期のマッキンリー(現・デナリ、6190m)単独登頂
- 参加者: 植村直己(昭和39年卒、43歳)
- 活動概要: 2月12日に厳冬期単独初登頂を果たしたのち、翌13日から消息を断ち遭難(詳しくは「岳友たちの墓銘碑」参照)。
第3部 (1984~1990年)
41. 日本・ネパール カンチェンジュンガ登山隊
- 登山時期: 1984(昭和59)年2月~5月
- 目的: カンチェンジュンガ山群の南峰(8491m)から中央峰(8478m)、世界第3位の主峰(8586m)を経由し、西峰(ヤルン・カン、8505m)まで8000mの稜線縦走
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒、27歳)、北村貢(同56年卒、25歳)、山本宗彦(同57年卒、24歳)、学術隊員=林田康明(特別会員、28歳)<鹿野勝彦隊長ほか隊員13名>
- 活動概要: 三谷と重廣恒夫、和田誠志、ニマ・テンバの4名は5月18日S5(8300m)を出発、雪稜を進んで南峰に登頂。ニマは引き返し、3名で縦走を開始し中央峰に立ちC5(8200m)に入る。ここで重廣が体調不良で離脱。和田と三谷は雪稜伝いに進むがルートが厳しくC4(7859m)に下る。そこから主峰のM4キャンプ(7800m)までトラバースし、M5キャンプ(8250m)に上がる。1泊後の5月20日にM5を出発し主峰に立つ。カンチェンジュンガ3峰の縦走に成功するも物資不足のため西峰までの完全縦走は断念。
42. 大阪府山岳連盟1985年関西カラコルム登山隊
- 登山時期: 1985(昭和60)年6月~8月
- 目的: 北稜からマッシャーブルム主峰(東峰、7821m)初登頂、続いて西稜(初登ルート)から世界第12位のブロード・ピーク(8051m)にアルパイン・スタイルで連続登頂
- 参加者: 山本宗彦(昭和57年卒、36歳)<賀集信隊長、重廣恒夫登攀隊長ほか隊員11名>
- 活動概要: 7月22日山本、和田城志,外山哲也、伊藤博昭の4人は、7200mのC4からマッシャーブルムに登攀開始。頂上直下7800mのスノードームに着いたが時間切れで、いったん7550mまで下ってビバーク。翌23日ビバーク組とC4組が同時アタックに向かう。ビバーク組がマッシャーブルムに登頂、やがて後続組も頂上に達し、同峰の全員登頂を成し遂げる。続いてブロード・ピークに移動、8月11日西稜からアルパイン・スタイルで登攀開始。7850mのコルに全員集結、ここで隊を分け、和田、外山、山本、藪川洋一の4名はコル(7850m)でビバーク、ほかは少し下った7580m付近でビバークする。翌12日は無風の好天となり、小さな岩稜を越え約800mの平らな西稜をたどりブロード・ピークに登頂。一度も下ることなく、4日間で6人が登頂する速攻登山となる。
43. 1985中国・カカサイジモンカ登山隊
- 登山時期: 1985(昭和60)年8月
- 目的: カカサイジモンカ北峰、中央峰を経由しカカサイジモンカ峰(6178m)登頂
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒、22歳)、学術隊員=小疇尚(山岳部長、50歳)、岡澤修一(同47年卒、36歳)<三辺夏雄隊長ほか隊員15名、学術隊員3名>
- 活動概要: 草原の4200mにBCを設営、ここからルート工作し5300mにC1建設、さらに上部をルート工作。第1次隊の大西はC1上部のプラトーから稜線に上がり、北峰から吊尾根を経て主峰と中央峰の間にC2として雪洞を掘る。アタック態勢となったが降雪で雪崩の危険があり、いったんBCに退却。8月18日、同じメンバーでアタック開始。19日、フィックスを張りながら上部へ向かい、カカサイジモンカ主峰に登頂。
44. カトマンズクラブ チョー・オユー登山隊1985
- 登山時期: 1985(昭和60)年9月~10月
- 目的: ナンパ・ラ経由で西北西稜(初登ルート)から、日本人最後の8000m未踏峰で、世界第6位のチョー・オユー(8201m)登頂
- 参加者: 登攀隊長=三谷統一郎(昭和53年卒、29歳)、隊員=中西紀夫(同56年卒、27歳)、北村貢(同56年卒、27歳)<金沢健隊長ほか隊員4名>
- 活動概要: 9月22日、ジョサンバ5200mのBCから行動開始、ナンパ・ラを経て5600mにC1建設。ここから西北西稜の末端ピークを登り6400mにC2設営。10月2日、側稜状の緩やかな尾根の7200mにC3建設、アタック態勢が完了。翌3日深夜の2時50分、三谷、中西、北村の3名はC3を出発、チョー・オユーに日本人として初めて登頂する(三谷は無酸素)。BC建設から12日間で登頂するスピード登山となる。
45. ヒンドゥー・ラジ登山隊1986
- 登山時期: 1986(昭和61)年7月~8月
- 目的: パキスタンのヒンドゥー・ラジ山脈踏査とシャハーン・ドクの偵察
- 参加者: 根深誠(昭和45年卒、39歳)<本多勝一隊長ほか隊員3名>
- 活動概要: ヒンドゥー・ラジ山脈にある無名峰に登頂。シャハーン・ドクではアイスフォールを迂回するルートを発見して終了。
46. 日本シャハーン・ドク登山隊1987
- 登山時期: 1987(昭和62)年7月~8月
- 目的: 中部ヒンドゥー・ラジの中央にあるシャハーン・ドク(6320m)初登頂
- 参加者: 根深誠(昭和45年卒、40歳)<本多勝一隊長ほか隊員6名>
- 活動概要: 31年前(1956年)に京大探検部でシャハーン・ドクを試登した本多を隊長とする登山隊が挑む。根深と工藤光隆の2人は7月30日にC2(5800m)を建設した後、悪天候が続き停滞。8月1日からルート工作を再開したが、天候が安定せず、固定ロープの不足もあってルート工作を終えた後、断念。
47. 日本山岳会中国・日本・ネパール チョモランマ/サガルマタ友好登山隊198
- 登山時期: 1988(昭和63)年3月~6月
- 目的: 世界最高峰(8848m)に中国側とネパール側から登頂、初めての交差縦走
- 参加者: 副総隊長=大塚博美(昭和23年卒)、北側(中国)隊長=橋本清(同37年卒)
南側(ネパール)隊員=北村貢(同56年卒)、高野剛(同57年卒)
北側(中国)隊員=三谷統一郎(同53年卒)、山本宗彦(同57年卒、28歳)、山本篤(同61年卒、26歳)、報道=大西宏(同61年卒、26歳)
<ネパール側=湯浅道男隊長ほか隊員16名、中国側=橋本清隊長ほか隊員17名 計35名> - 活動概要: 5月5日、北側サポート隊の山本宗彦はC6を出発、三角雪田上部で酸素が切れ苦しい登攀となる。7時間を要し北東稜からチョモランマに登頂、北側へ戻る。山本がC6を通過しC5にたどり着いたのは深夜となる。一方、ネパール側南東稜からの縦走隊は交差に向けサウス・コルC4を出発。ネパールのアン・プルバ、中国のツェリン、ピンゾーの3名はサガルマタに登頂。その後、北東稜から中国側へ下る。縦走隊員の北村は2国の隊員に引き離され、縦走を諦め引き返す。なお、北側からの2次隊であった三谷は、北京・総指揮部からの登山中止命令で登頂は実現しなかった。
48. 日本シャハーン・ドク登山隊1988
- 登山時期: 1988(昭和63)年7月
- 目的: 未踏峰シャハーン・ドク(6320m)に再挑戦し初登頂を目指す
- 参加者: 隊長=根深誠(昭和45年卒、41歳)、隊員=田中淳一(同51年卒、36歳)、米山芳樹(同58年卒、29歳)<隊員5名>
- 活動概要: 7月19日根深、田中、米山は登頂に向けBCを出発。ガレ場や急峻なルンゼは固定ロープで登り4800mにC1建設。翌20日は快晴となり氷河の雪原5400mにC2、21日も快晴でガラガラの岩場を整地しC3を張る。22日C3を出発アタックに向う。急峻な雪稜をコンティニュアスで登り、雪稜北側(ミラグラム氷河側)の雪庇を注意しながらたどる。氷壁を登りクレバスを大きく回り込んで雪稜を進み、念願のシャハーン・ドク初登頂を果たす。
49. ワスカラン、チンボラソ単独行
- 登山時期: 1988(昭和63)年7月~8月
- 目的: ペルー最高峰ワスカラン(6768m)など南米の高峰に厳冬期単独登頂
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒、25歳)
- 活動概要: 7月17日AC(5200m)からワスカランに、続いて8月5日エクアドルの最高峰チンボラソ山(6268m)に厳冬期の単独登頂。
50. 日本冬期アコンカグア登山隊
- 登山時期: 1988(昭和63)年8月~9月
- 目的: 南米最高峰アコンカグア(6962m)の厳冬期登頂
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒)<八木原圀明隊長、山田昇隊員 計3名>
- 活動概要: 9月1日4300mにBC、翌2日5800mにテントを設営、アタック態勢となる。3日は風雪で停滞、4日に山田と大西は6700m付近まで登ったが悪天候で引き返す。5日、2人は10時に出発、インディペンデンシア小屋を通過、その後クーロワールを登り稜線に出て、アコンカグアの頂上に立つ。
51. 日本山岳会学生部 韓国登山
- 登山時期: 1988(昭和63)年8月24日~9月13日
- 目的: 韓国の大学山岳部と交流を図り、韓国の山、渓谷などを体験する
- 参加者: 廣瀬学(平成2年卒予定、3年生)<日本山岳会学生部員>
- 活動概要: 前半は雪岳山の最高峰・大青峰チョンブルドン(1707m)に登り、また、天花台(チョンファデ)稜を登攀。この後、九万物像(クーマンブルサン)渓谷でシャワークライムの沢登りと、蔚山巌(ウルサンアム)で岩登り。後半はソウル郊外の仁寿峰(インスボン)に滞在、4本のルートを登攀。
52. 日本ヒマラヤ協会シシャパンマ、チョー・オユー登山隊1988
- 登山時期: 1988(昭和63)年10月~11月
- 目的: 北東面から世界第14位のシシャパンマ(8027m)と、北西面から第6位のチョー・オユー(8201m)の8000m峰に連続登頂
- 参加者: 山本篤(昭和61年卒)<山田昇隊長ほか隊員4名>
- 活動概要: 10月9日4900mにBC設営、11日から登山活動に入る。5700mにABC、6350mにC1建設。20日6900mにC2建設し、翌21日7350mまで偵察する。山田、三枝照雄、山本は24日C2から北東稜(初登ルート)をたどり、ラッセルに苦しみながらシシャパンマに登頂。その後シガールで1日休養した後、チョー・オユーに向かい、31日BCに入る。11月3日5700m地点にABC建設、4日6350mにC1、5日7200mのC2に入る。6日C2からチョー・オユーに登頂、8000m峰2座の連続登頂に成功。
53. アイス・ウォーク トレーニング・トリップ
- 登山時期: 1988(昭和63)年12月16日~平成元(1989)年1月
- 目的: カナダのバフィン島で国際アイス・ウォーク隊の事前トレーニング
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒)<日本から石川慶英(上智大山岳部OB)の2人が参加>
- 活動概要: スキーで乱氷を越える練習をはじめ、乱氷の中を登ったり下ったりしながら橇を引く。後半2日間は氷原を小旅行する訓練を実施。
54. 国際アイス・ウォーク隊
- 登山時期: 1989(平成元)年3月~5月
- 目的: 徒歩で北極点に到達、そこから「極地オゾン層破壊の停止」を呼び掛ける
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒)<ロバート・スワン隊長(英国の探検家)ほか隊員8名>
- 活動概要: 3月20日、カナダ最北端のエルズミア島オルドリッジ岬を出発。マイナス40度の中、2ヶ月余り氷原を歩き通す。乱氷、クラック、ホワイト・アウトなどに遭遇するも、北緯86度線を越えると広大な氷原が現われ、行動時間が長くなる。途中5回の補給を受けながら8人は、スキーと橇で5月14日北極点に到達する(炉辺会では植村直己に次ぐ2人目の北極点到達者)。この日は大西の27歳の誕生日だった。
55. マッキンリー捜索・収容隊
- 登山時期: 1989(平成元)年3月~4月
- 目的: 3月、マッキンリー(現・デナリ、6194m)の冬期登頂を目指して遭難した山田昇、小松幸三、三枝照雄3名の捜索と遺体収容
- 参加者: 山本篤(昭和61年卒)<宮崎勉隊長ほか隊員19名>
- 活動概要: 遭難から3日後に成田を出発。現地で飛行機による捜索で、デナリ・パス直下5200mの雪面に遺体を発見。3月17日から極寒の中、遺体収容に入り、31日に4200mのC2まで下ろす。翌4月1日、カヒルトナ・パス直下にある空輸地点のABCに下山。
56. カトマンズ・クラブ エベレスト登山隊1989
- 登山時期: 1989(平成元)年8月~10月
- 目的: ポスト・モンスーンに南東稜からエベレスト(8848m)登頂
- 参加者: 登攀隊長=三谷統一郎(昭和53年卒、33歳)、隊員=中西紀夫(同56年卒、31歳)、山本篤(同61年卒、27歳)、大西宏(同61年卒、27歳)<金沢健隊長ほか隊員22名>
- 活動概要: 8月29日からアイスフォールへルート工作開始。C1(6050m)、C2(6450m)の後、7300mにC3を建設。サウス・コルにAC(7906m)を設け、アタック態勢となる。10月5日の1次隊(三谷、山本、大西とシェルパ3名)、7日の2次隊(黒滝、二俣、中西、シェルパ3名)は、いずれもチリ雪崩に遭い8200mで敗退。この後、強風が吹き荒れる天候となり、いったんBCで態勢を立て直す。13日、3次隊の三谷、山本、大西とシェルパ2名がエベレストに登頂。15日の4次隊は強風のため8500mで敗退。
57. 市ヶ谷クライマーズ・クラブ
- 登山時期: 1990(平成2年)2月~3月
- 目的: ネパール・ヒマラヤのアイランド・ピーク(イムジャツェ、6160m)とパルチャモ(6187m)に短期速攻で登頂
- 参加者: 隊長=大川邦治(平成2年卒)<山本(明治学院大学4年)の2名>
- 活動概要: 3月10日から登山活動を開始、5800mにHCを設営しアイランド・ピークに登頂。14日いったんナムチェ・バザールに下り、16日出発して、翌日リオ(4600m)に着きBC建設。18日パルチャモにロングラン・アタックをかけたが、6100mで登頂を断念する。下りで時間切れとなり5500mでビバーク、翌日に帰幕。
58. 高所登山研究所・ポーランド合同マカルー登山隊
- 登山時期: 1990(平成2年)3月~5月
- 目的: 北西稜から世界第5位のマカルー(8463m)登頂
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒、27歳)<原 真隊長ほかポーランド女性登山家2名 計4名>
- 活動概要: 5月6日、原と大西は7800mの最終キャンプ(C4)を出発する。原は8300m地点で断念するが、大西は単独でマカルーに登頂、BC設営から28日目という速攻登山となる。しかし、ポーランド人と不協和音があり、ぎくしゃくした登山となる。
59. 日本山岳会マッキンリー第1次気象観測機器設置登山隊
- 登山時期: 1990(平成2年)6月
- 目的: マッキンリー(現・デナリ、6190m)の気象を観測するため機器の設置
- 参加者: 廣瀬学(平成4年卒)
- 活動概要: 6月3日より登山活動に入る。17日マッキンリー登頂後、デナリ・パス上部5710mの岩峰上に自動観測器を設置する。
第4部 (1984~2002年)
60. 日本山岳会第1次パミール登山隊1990
- 登山時期: 1990(平成2年)7月~8月
- 目的: パミール高原のコムニズム峰(現・イスモイル・ソモニ峰、7495m)とコルジェネフスカヤ峰(7105m)両峰に全員登頂
- 参加者: 佐野哲也(平成2年卒、22歳)、廣瀬学(同2年卒、22歳)<大谷亮隊長ほか隊員6名>
- 活動概要: 7月18日より登山活動に入る。25日C1(5200m)、26日C2(5800m)を建設しC3(6300m)に入る。27日にC3を出発、ツェトリン稜から大谷、佐野、廣瀬、滝沢守生がコルジェネフスカヤ峰に登頂。いったん下山した後、レーニン峰に向かい8月3日C1(4200m)、翌4日C2(5200m)を建設。ところが5日、順応不足の熊崎和宏と体調不良の廣瀬と滝沢は下山。そこで大谷と佐野の2人で上を目指し、ラズジェニナヤの小ピークを越え6500mのC4に入る。翌6日大谷と佐野は、西稜からレーニン峰(7134m)に登頂。コムニズム峰は大量降雪で雪崩の危険があり、ソ連側の判断で断念。
61. 日本山岳会 日中合同ナムチャバルワ峰偵察隊
- 登山時期: 1990(平成2年)11月~12月
- 目的: ヒマラヤ山脈東端にある当時、世界最高の未踏峰ナムチャ・バルワ(7782m)の登路偵察
- 参加者: 大西宏(昭和61年卒、28歳)<重廣恒夫隊長ほか日本側隊員4名、中国側隊員7名>
- 活動概要: 西北西稜のラテラル・モレーンにABCを設け、放射状に側稜を5600mまで試登。どれも雪崩の危険性が高く断念し、ナイプン・ルートの偵察に転進。その結果、6900mのナイプン直下の氷の割れ目にナムチャ・バルワとの最低コルへ下降するルートを探し、フィックスを張る。上部登路を偵察しナイプンに挑んだが断念、偵察終了。
62. 日本山岳会1991年ナムチャバルワ峰日中合同登山隊
- 登山時期: 1991(平成3年)9月~11月
- 目的: ナイプン(7043m)経由で南稜からナムチャ・バルワ(7782m)の初登頂
- 参加者: 大西宏(29歳)、山本篤(昭和61年卒、28歳)、廣瀬学(平成2年卒、24歳)<隊長=重廣恒夫、登攀隊長=高見和成ほか日本側隊員8名、中国側隊員8名 計16名>
- 活動概要: 9月28日3520mにBC設営、10月2日から登山活動に入る。13日5600mにC3建設後、降雪で2日間停滞。16日C4予定地を偵察するため、高見、木本哲、大西と中国隊員2名の5人はラッセルを交代しながら6200mのプラトーに到達。ここから大西が先頭に立ち、木本が後を追い、雪壁を空身で登高。ところが13時40分ごろ、大西が6250m付近で雪崩の直撃を受け死亡。その後も深い雪と強風に悩まされながら登山を続行し、11月19日にナイプンと主峰のコル(6700m)にC6を建設。翌20日、第1次隊は頂上直下の垂壁7230mまでルート工作するも流雪が頻発し引き返す。22日、第2次隊(高見、山本、木本、ツェリンドルジ、ペンバザシ)は頂上まで300mを残した7460mを最高到達地点として断念。第3次隊は中止(「岳友たちの墓銘碑」参照)。
63. 日本山岳会青年部第3次海外登山
- 登山時期: 1992(平成4年)7月~8月
- 目的: 中国の阿尼瑪卿峰(アムネマチン、6282m)の登頂
- 参加者: 副隊長=中澤暢美(昭和62年卒)、大川邦治(平成2年卒)<熊崎和宏隊長ほか隊員6名>
- 活動概要: 7月28日4400mにBC建設、登山活動に入る。30日5100mの氷河台地上にC1を設営、上部を偵察するとクレバスがズタズタに切れ、アイスフォールのようなセラック帯となる。フィックス・ロープを張ったが、600m用意したロープはなくなってしまう。8月3日5500mの岩峰に到達するも、その先は懸垂下降が必要なピッチで、さらにC2予定地はナイフリッジとなり、フィックスなしでの往復は危険すぎると判断し断念。
64. 日本山岳会1992年日本・中国ナムチャバルワ合同登山隊(第2次遠征隊)
- 登山時期: 1992(平成4年)9月~11月
- 目的: ナイプン経由南壁ルートからナムチャ・バルワ(7782m)初登頂。また、日中国交正常化20周年を記念し親睦を深める
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒、36歳)、山本篤(同61年卒、30歳)<重廣恒夫隊長、山本一夫登攀隊長ほか日本側隊員6名、中国側隊員6名>
- 活動概要: BC(3520m)からC1(4350m)、C2(4800m)、C3(5600m)、C4(6200m)と高度を伸ばす。10月11日ナイプン(7043m)の肩にC5(6900m)を建設したが、その後悪天候で停滞。26日C5を再建、27日に肩から急斜面を約200m下ったコルにC6(6700m)を建設しアタック態勢となる。29日山本一夫、青田浩、山本篤と中国側隊員3名の第1次隊はC6を出発、雪崩回避のため氷壁にルートを取り、夜7600m地点でビバークし翌30日に登頂。30日三谷、佐藤正倫と中国側3名の第2次隊も1次隊のロープを頼りに登り、途中で降りてきた1次隊と会い、2次隊も頂に立つ。未踏の最高峰ナムチャ・バルワ初登頂により、文部省から「スポーツ功労賞」、また、初登頂した三谷統一郎と山本篤の2人は、本学から「明治大学特別功労賞」を授与される。
65. アンターティック・ウォーク南極点探検
- 登山時期: 1992(平成4年)11月~1993(平成5年)1月
- 目的: 南極大陸パトリオット・ヒルズから南極点まで1100kmの無補給徒歩による踏破。また、踏破行程とパトリオット・ヒルズ周辺で環境調査
- 参加者: 歩行調査隊=佐野哲也(平成2年卒、24歳)<吉川謙二隊長(北大大学院環境科学研究所)、松原尚之副隊長の計3名、定着調査隊2名 計5名>
- 活動概要: 11月11日、歩行隊は南極大陸のパトリオット・ヒルズを出発、75日分の装備と食糧を積んだ橇は1人分150kgになる。3日目にエルスワース山脈を越えると、前方に大雪原が広がる。12月29日ティール山脈基部に到着。年が明けた1月16日南極点の20km手前にテントを張る。翌日ラスト・ランに出発し、チリ時間17日19時20分南極点に到達。この南極点に徒歩到達した佐野哲也に「明治大学特別功労賞」が授与される。
66. コンデ・リ登山
- 登山時期: 1993(平成5年)12月
- 目的: ナムチェ・バザールの西に屹立するコンデ・リ(6187m)登頂
- 参加者: 佐野哲也(平成2年卒、25歳)、大川邦治(平成2年卒)の2名
- 活動概要: 12月16日から登山開始、南面5550mにアタック・キャンプ(AC)を建設。18日から2人で上部のルート工作を行いアタックに備える。19日は強風で停滞。20日に2人はACを出発、ナイフリッジの主稜線からスタカットで進む。岩稜を抜けるとコンデ・リ南峰(主峰)で、最後の岩場は確保し合い頂上に立つ。下降で空中懸垂の最中、ザイルが引っ掛かったピナクルが折れ、滑落の危機もあったが食い止め、夜ACに無事帰幕。
67. アフリカ大陸高峰登山
- 登山時期: 1994(平成6年)2月
- 目的: ウガンダにあるマルゲリータ(5109m)とケニア山ネリオン(5189m)、そしてアフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)登頂
- 参加者: 佐野哲也(平成2年卒、26歳)、宮本功(平成4年卒)、高柳昌央(平成5年卒)の3名
- 活動概要: スタンレー氷河からマルゲリータ東稜に取り付く。尾根を登り切るとマルゲリータ頂上となる。下山に入ると高柳が高山病になり、アフリカ人のレスキューに担がれて降りる。数日経ってからネリオンへ向かう。朝4400mのアメリカン・キャンプを出発、ダーウィン氷河を登り詰めダイヤモンド・クーロワールに取り付く。途中、コンティニュアス100mを交え、3Pでダイヤモンド氷河に出る。“霧の門”から北側を3P登り、夜ネリオン頂上に立つ。帰路は頂上直下の小さな小屋でビバーク、翌朝ノーマル・ルートを10P懸垂で氷河に降り立つ。キリマンジャロは日数不足と登山料の高騰で断念。
68. 原久美子 モン・ブラン チャレンジ94
- 登山時期: 1994(平成6年)7月
- 目的: 盲目のジャズシンガー・原久美子さんをサポートしながらヨーロッパ・アルプス最高峰モン・ブラン(4810m)登頂
- 参加者: 隊長=和田一郎(昭和49年卒)、佐々木洋一(昭和49年卒)、大西規雄(昭和53年卒)、高柳昌央(平成5年卒)<隊員7名>
- 活動概要: 盲目の原久美子さんをサポートするパーティは、7月4日シャモニを出発。アレート・パヨを経由し3167mのテートルース小屋に入り1泊。5日朝、アイゼンを装着し出発、3817mのグーテ小屋に着く。アタックの6日は完全装備で午前2時半、グーテ小屋を出発する。ヴァロ小屋に6時30分に着き、ここから稜線をひたすら登り、朝グーテ小屋から5時間半でモン・ブランの頂に立つ。
69. チンボラソ登山
- 登山時期: 1994(平成6年)12月~1995(平成7年)1月
- 目的: エクアドル・アンデスの最高峰チンボラソ(6268m)登頂
- 参加者: 金子文雄(昭和56年卒)<西村豊一リーダーほか隊員5名>
- 活動概要: 現地ガイド2名を含め7名が1月3日夜、アタックに出発、限りない雪だけの斜面を登る。4日朝、丸い頂上のチンボラソ西峰(6267m)に登頂。
70. 日本山岳会マカルー登山隊1995
- 登山時期: 1995(平成7年)2月~6月
- 目的: 中国チベット自治区にある未踏の東稜から世界第5位のマカルー(8463m)登頂
- 参加者: 登攀隊長=山本宗彦(昭和57年卒、35歳)、山本篤(同61年卒、33歳)<重廣恒夫隊長ほか隊員13名>
- 活動概要: 7200mから東稜を忠実にたどるのは技術的、時間的に難しいと判断し、大プラトー側への迂回ルートを採用。5月19日7350mにC6、翌20日7650mに最終キャンプC7を設営、アタック態勢が整う。21日に第1次隊の田辺治、山本篤、松原尚之、荒井俊彦が、翌22日に第2次隊の山本宗彦、小野岳、谷川太郎、竹内洋岳がマカルーの頂に立つ。高度7200m付近から最後の2kmは、岩稜を避けたため目標の東稜完登にはならなかったが、約13kmの長大な東稜を克服、登山開始から52日目の登頂となる。
71. 日本山岳会青年部シータ・チュチュラ登山隊1995
- 登山時期: 1995(平成7年)3月~4月
- 目的: ダウラギリ山群にあるシータ・チュチュラ(6611m)に未踏の北稜ルートから登頂
- 参加者: 隊長=大川邦治(平成2年卒)<隊員3名 計4名>
- 活動概要: 悪天候による日程の遅れで撤退。
72. カトマンズ・クラブ マナスル学術登山隊1995
- 登山時期: 1995(平成7年)9月~11月
- 目的: 北東面の日本山岳会ルートから世界第8位のマナスル(8163m)登頂と高所医学研究
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒、39歳)<金沢健隊長ほか隊員9名>
- 活動概要: 偵察の結果、北東面のJACルートから登攀する。9月19日4800mのBCに移動、22日C1、10月1日C2を設営。高所順応しながら7150mにC3を建設しアタック態勢を整える。第1次隊は13日、無酸素でアタックしたが7400m付近で時間切れのため断念。三谷ら第2次隊は酸素を吸って16日にアタックしたが、7350mで諦めるという結果に終わる。第3次隊を予定していたが、17日午後からの降雪で登山活動を打ち切る。
73. 東京都山岳連盟冬季シベリア登山隊
- 登山時期: 1995(平成7年)12月~1996(平成8年)1月
- 目的: チェルスキー山脈にあるシベリア最高峰ポベーダ峰(3147m)の厳冬期初登頂
- 参加者: 高柳昌央(平成5年卒)<川嶋保幸隊長ほか隊員12名、ロシア側6名>
- 活動概要: 12月31日、ポベーダ峰から約350km離れたススマンの町に全員到着し、零下45度の洗礼を受ける。天候不良で3日間停滞した後、年明け1月4日、標高1400~1500mのBCに入る。翌5日、第1次隊4名(中村、吉村、高柳、西川)は2次隊のサポートを受け、C1予定地を過ぎ2400mにC2を設営。7日朝、第1次隊はヘッドランプを頼りに北西壁に取り付く。ところが、雪崩が発生しトップの吉村が滑落、高柳が止めようとしたが足元が崩れて一緒に落ち、標高差300m流されて止まる。C2直前まで来ていた2次隊メンバーに救出されC2に収容された後、ヘリコプターで病院に搬送。
74. 日本山岳会青年部K2登山隊1996
- 登山時期: 1996(平成8年)5月~8月
- 目的: 南南東リブから世界第2位のK2(8611m)登頂
- 参加者: 隊長=山本篤(昭和61年卒、33歳)、高橋和弘(平成8年卒、22歳)、豊嶋匡明(4年-平成9年卒)<松原尚之副隊長、谷川太郎登攀隊長ほか隊員18名>
- 活動概要: 6350mにC1、7050mにC2を設営し、7月28日までに7850mのアタック・キャンプ(C3)に16人の隊員が到達。8月3日から悪天候で長い停滞となる。天候が回復し、1次隊が10日にBCを出発、翌11日に待望のC3建設。12日C3を出発した第1次隊の松原、谷川、赤坂、村田、椎名、吉田は深いラッセルを克服して登頂。14日にC3を出発した第2次隊の山本、稲葉、長久保、竹内、佐野、高橋は、無風快晴のアタック日和の下、登頂を果たす。K2登山史上初の2桁12名の登頂者となり、高橋はK2登頂史上の最年少記録(当時)を樹立。豊嶋は7850mが最高到達地点で断念。
75. ノエビア・エベレスト登山隊1997
- 登山時期: 1997(平成9年)3月~5月
- 目的: 南東稜からエベレスト(8848m)登頂と登山活動の撮影
- 参加者: 登攀隊長=山本篤(昭和61年卒、34歳)、高橋和弘(平成8年卒、23歳)<大倉昊隊長、辻田希代彦副隊長ほか隊員5名>
- 活動概要: 山本は7200mで断念。
76. 日本リャンカン・カンリ登山隊1999
- 登山時期: 1999(平成11年)4月~5月
- 目的: 中国チベット自治区にある未踏峰リャンカン・カンリ(7534m)初登頂(当初、未踏峰ガンカル・プンスムを予定していたが、種々の経緯でリャンカン・カンリに変更)
- 参加者: 登攀隊長=山本篤(昭和61年卒)、隊員=高橋和弘(平成8年卒)、加藤慶信(同10年卒)<伊丹紹泰隊長、中村進副隊長ほか隊員11名>
- 活動概要: 4月21日4750mにBC建設、25日5350mにC1、30日6200mにC2を設営。その後、大きなヒドンクレバスのスノーブリッジにフィックスを張り、稜線に出る。ピーク6927m手前の岩陰6900mにC3を建設しアタック態勢に入る。5月9日、第1次隊の鈴木、角谷、竹内、高橋、加藤の5名はC3を出発し、未踏のルートに手こずったが初登頂に成功。翌10日には第2次隊の山本、中村、小林、通訳の佐藤、高橋ドクターの5名も頂上に立ち、明大からの3名を含め10名が未踏峰に初登頂する。
77. テレビ番組撮影・北極圏700km走破
- 登山時期: 2000(平成12年)4月~5月
- 目的: 南極点徒歩到達に成功した大場満郎氏が若者10人を組織し、北極圏にある北磁極に徒歩旅行する「第1回冒険ウォーク2000」をテレビ・カメラで撮影
- 参加者: 廣瀬学(NHKプロデューサー、平成2年卒)<大場満郎リーダーほか>
- 活動概要: カナダ北極圏のレゾリュートを出発。途中何度か空輸を受けながら環境教育の一環として氷河や氷山、野生動植物を観察。4月30日にはレゾリュートから258km進み、5月11日に507kmに達する。その後22日、目標の700km付近で飛行機にピックアップされ冒険ウォークは終了。廣瀬を含む取材班も同行撮影を終える。
78. テレビ番組撮影・アコンカグア登山隊
- 登山時期: 2000(平成12年)11月~12月
- 目的: テレビ番組で俳優の西田敏行を南米最高峰アコンカグア(6962m)に登頂させる
- 参加者: 加藤慶信(平成10年卒)<小西浩文隊長ほか隊員5名>
- 活動概要: テレビ朝日の「ネイチャリング・スペシャル 西田敏行 南米最高峰アコンカグアに挑む」という番組で、西田および撮影クルーをサポートするパーティに加藤が参加。西田は6830mで高度障害がひどくなり撤退。西田の下山を加藤がサポートし帰幕させる。
79. キリマンジャロ・ツアー登山
- 登山時期: 2001(平成13年)8月
- 目的: アフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)登頂
- 参加者: 川崎伸(昭和35年卒、64歳)<ツアー・リーダー含め11名、現地ガイド5名>
- 活動概要: 8月6日1970mの登山ゲートからジャングルの樹林帯を進み、マンダラ・ハット泊。翌7日3700mのホロンボ・ハット、8日に最終キャンプ地4703mのキボ・ハットに到着。高度馴化のため5000m地点まで往復。9日深夜、雪の降る中ヘッドランプを頼りに山頂を目指し、朝ウフル・ピーク(5895m)に登頂。
80. 日本雪男探索・ガウグリ登山隊
- 登山時期: 2002(平成14年)7月~8月
- 目的: 雪男確認とダモダール・ヒマールにあるガウグリ(6110m)初登頂
- 参加者: 根深誠(昭和45年卒)<シェルパ1名、コック1名、馬方1名>
- 活動概要: ダモダールクンド・コーラ源頭にある氷河の基部にテントを設営。頂上へ続く氷河の斜面は3段から成り、次第に雪も深くなり膝まで潜る。斜面の幅が狭まり傾斜も落ち、雪稜から無名峰のペワ・ヒマールⅢ峰の山頂部に到着。ガウグリ登山はダモダールクンド・コーラの徒渉に難儀し断念。
第5部 (2002~2010年)
81. 日中友好チョー・オユー女子合同登山隊2002
- 登山時期: 2002(平成14年)8月~10月
- 目的: 南西稜(ノーマル・ルート)から世界第6位のチョー・オユー(8201m)に全員登頂。また、日中女子登山者の交流促進、高所における女性の医学研究
- 参加者: 大窪(後姓岩堀)三恵(平成8年卒、28歳)<日本側隊長=橋本しをりほか隊員6名、中国側隊長=グイサンほか隊員5名>
- 活動概要: 日中国交正常化30周年記念事業として、日本山岳会と中国チベット登山協会による日中の女性だけの登山隊が編成された。10月1日、第1次アタック隊の恩田、大窪、柏と中国隊員3名がチョー・オユーに登頂。翌2日に第2次隊の足立と中国側隊員2名が登頂。大窪の成功は、炉辺会の女性として初めての8000m峰制覇となる。
82. 日本山岳会テンギ・ラギ・タウ偵察隊
- 登山時期: 2002(平成14年)11月
- 目的: 日本山岳会集会委員会がシニア登山隊の候補として選んだ、ロルワーリン山群にあるテンギ・ラギ・タウ(6943m)の登路偵察
- 参加者: 隊長=根深誠(昭和45年卒)<シェルパ1名、ポーター兼雑用係1名>
- 活動概要: 根深が1981年の明大エベレスト西稜遠征のとき目を付けていた山で、約1200mの大岩壁を有する未踏峰であった。ところが、偵察に向かう途中、日本隊が初登頂したという知らせが入る。それでもC1予定地までルート工作を兼ね登路を偵察した。なお、日本山岳会集会委員会は、このテンギ・ラギ・タウに2004年春、未踏ルートから第2登を目指しシニア登山隊を派遣したが敗退。これに根深は不参加。
83. 日本山岳会カングリ・シャール シニア登山隊
- 登山時期: 2003(平成15年)4月~5月
- 目的: シニア会員によるカングリ・シャール(6811m)登頂
- 参加者: 登攀リーダー=根深誠(昭和45年卒)<朴元鐘徳隊長ほか隊員11名(平均年齢61歳)>
- 活動概要: プモリを分かつ氷河にルートをとり、コルに抜けて国境稜線をたどろうとしたが、コルの氷壁基部(6300m)に巨大なクレバスがあり、そこが最高到達点となり敗退。
84. チャンチュン・コーラ源流踏査とカンテガ登山
- 登山時期: 2004(平成16年)6月
- 目的: チャンチュン・コーラ源流域の踏査と未踏峰カンテガ(6060m)登頂
- 参加者: 根深誠(昭和45年卒)<ペンバ、ラル、馬方プルバの4名>
- 活動概要: 6月13日、チャンチュン・コーラの上流域を目指しツァルカ村を出発。当初、未踏峰のカンテガを目指したが、北面から登られたことを知り、近くにそびえる無名峰(5766m)に転進。20日、5300mの氷河湖そばの台地にテントを張る。翌日3人は谷の左岸ガレ場の斜面を登る。300~400mの高度差をいったんコルまで下り、氷河湖のほとりから400~500mを登り返し、無名峰の山頂に立つ。
85. チョー・オユー登山隊
- 登山時期: 2005(平成17年)4月~5月
- 目的: 西北西稜から世界第6位のチョー・オユー(8201m)登頂
- 参加者: 加藤慶信(平成10年卒、29歳)<奥田仁一隊長、隊員4名>
- 活動概要: 5月1日、全盲の竹下氏をガイドしながらアタックに向かう。秋季に比べ春季は岩が露出する部分が多く、竹下氏には不利なルートとなり時間がかかってしまう。結局、時間切れとなり7950mが最高到達点で断念。
86. チョモランマ登山隊
- 登山時期: 2005(平成17年)5月~6月
- 目的: 中国側の北稜からチョモランマ(8848m)無酸素登頂
- 参加者: 加藤慶信(平成10年卒、29歳)<奥田仁一隊長、シェルパ:フラ・チリの3名>
- 活動概要: 5月26日、加藤はキャンプ地7900mを無酸素で出発。北壁より斜上し深夜、北東稜上に出る。翌27日の午前2時半に第1ステップ、4時半に第2ステップの梯子にかかる。一方、8200mのACから出発した奥田、フラ・チリのパーティは加藤を追い越す。三角雪田を直登し、北壁側をトラバースして岩のバンドを伝い稜線に出る。その先の雪稜を行きチョモランマの頂に立つ。日本人で23年ぶりの無酸素登頂となる。しかし、下山にかかると酸素欠乏による後遺症が出る。8500m付近で目が見えなくなり、途中で酸素を吸ったが回復せず、難儀しながら夕方、7900mのキャンプ地に無事帰幕。
87. ヨセミテ・クライミング・ツアー
- 登山時期: 2005(平成17年)9月~10月
- 目的: アメリカ・ヨセミテ国立公園の岩壁登攀
- 参加者: 早川敦(平成9年卒)、天野和明(平成12年卒)
- 活動概要: ワシントンコラム・ビッグウォール「プラウ」完登、エルキャピタン「タンジェリン・トリップ」完登、ビショップ・ボルダリング・ツアー。
88. 東欧ブルガリアの山
- 登山時期: 2006(平成18年)9月
- 目的: ブルガリア最高峰でバルカン半島の最高峰ムサーラ山(2925m)とブルガリア第2位のヴィフレン山(2914m)、また、首都ソフィアに近いビトシャ山(2290m)の登頂
- 参加者: 小久保裕介(平成17年卒)<隊長=小疇尚山岳部長、明大地理学専攻生ら計9名>
- 活動概要: 9月7日麓の町バンスコから標高約2000mのヴィフレン小屋まで車で移動。ここから登山を開始、カール底から白い岩壁を迂回して斜面を登り、ヴィフレン山頂に立つ。下山後の8日、ムサーラ山の麓ボロベッツに入る。9日ムサーラ小屋、レデノエビロ小屋を通り、登山道をたどってブルガリア最高峰に着く。翌10日ビトシャ山に登り、東欧での登山を終える。
89. 2006マナスル公募登山隊
- 登山時期: 2006(平成18年)9月~10月
- 目的: 世界第8位のマナスル(8163m)登頂
- 参加者: 山本篤(昭和61年卒、44歳)、加藤慶信(平成10年卒、30歳)<角谷道弘隊長ほか隊員3名、公募隊員5名 計8名>
- 活動概要: 9月27日BCを出発、C1(5800m)に入る。翌28日はC2(6900m)を目指したが、公募隊員の女性が体調不良でBCに下山。29日は角谷と加藤が公募隊員4名とC3(7400m)に入り、山本はBCからC2へ入る。そして30日、C2からアタックに向かった山本とC3から出発した角谷、加藤と公募隊員3名はマナスルの頂に立つ。
90. アマ・ダブラム公募登山隊2006
- 登山時期: 2006(平成18年)10月~11月
- 目的: 南西壁からアマ・ダブラム(6812m)登頂
- 参加者: 天野和明(平成12年卒、29歳)<長岡健一隊長、公募隊員4名 計6名>
- 活動概要: JAGUの長岡氏のアシスタントとして参加した天野は、南西稜から3名の公募隊員とともにアマ・ダブラムの頂に立つ。
91. カナダ アイス・クライミング・ツアー
- 登山時期: 2007(平成19年)3月
- 目的: カナダ・バンフ周辺の氷壁・氷瀑登攀
- 参加者: 天野和明(平成12年卒)、三戸呂拓也(同18年卒)<有村哲史の3名>
- 活動概要: 3月13・14日アイスミックス・クライミングの練習場所ハフナー・クリークで訓練。15日シャンプー・プラネット、16日ツーオクロック・フォールの滝を登攀。17日悪天候の中、ウィーピング・ウォール、18日憧れのポーラー・サーカスを登り切る。最終日の19日は再びハフナー・クリークに移動、M7、M8のルートを登攀。
92. 高松勤労者山の会ムスターグ・アタ登山隊
- 登山時期: 2007(平成19年)7月~8月
- 目的: 中央アジア・パミール高原にある中国領のムスターグ・アタ(7546m)登頂
- 参加者: 隊長=三谷統一郎(昭和53年卒、51歳)<隊員3名 計4名>
- 活動概要: 8月22日三谷と隊員もう1名はムスターグ・アタに登頂、ほかの2名は7050mと6500mで断念。4名の平均年齢が57歳のシルバー登山隊で、43日間の駆け足登山となる。
93. 山本・角谷エベレスト・ガイド登山隊2008
- 登山時期: 2008(平成20年)4月~5月
- 目的: ガイドがリードし、南東稜から世界最高峰エベレスト(8848m)登頂
- 参加者: 隊長=山本篤(昭和61年卒、46歳)、加藤慶信(平成10年卒、32歳)<角谷道弘ガイド、公募隊員=増田義人(60歳)、藤森幹仁(68歳) 計5名>
- 活動概要: 5月24日世界最高峰に山本篤と加藤が登頂。これで加藤は北稜と南東稜の2方面からの制覇に成功する。このガイド登山で加藤と角谷に確保され、公募隊員の増田と藤森も登頂を果たす。
94. チームホンダ ドリーム・プロジェクト2008
- 登山時期: 2008(平成20年)6月~8月
- 目的: 西ネパールの未踏峰タカプー・ヒマール(6395m)登頂とスキー滑降
- 参加者: 登攀隊長=加藤慶信(平成10年卒、32歳)<本多通宏隊長、児玉毅(プロスキーヤー)、鈴木彩乃(スキーヤー)、門谷優(記録) 計5名>
- 活動概要: 当初目指したタカプー・ヒマールは住民の反対で断念。8月5日未踏峰(5700m)に登頂、児玉と鈴木は頂上からスキー滑走する。
95. GIRI GIRI BOYSインド・ヒマラヤ登山隊2008
- 登山時期: 2008(平成20年)9月
- 目的: ガルワール・ヒマラヤのカランカ(6931m)を北壁ルートから、また、西隣にあるチャンガバン(6864m)をアルパイン・スタイルで登頂
- 参加者: 隊員=天野和明(平成12年卒)<一村文隆、佐藤裕介 計3名>
- 活動概要: 9月15日早朝、北壁の取付に向かう。3人はダイレクトに頂上に出るラインを目指したが、下部スラブ帯では大きく左手を迂回する。18日これ以上オープン・ビバークはできないと上を目指す。1ピッチ半ほど登った6600mにテントスペースを見付ける。この後、降雪が激しくなり21日まで3日間停滞。22日頂上へ通じる大クーロワールをトラバースし、左上するクーロワールに入る。夕方、稜上に張り出す雪庇を切り崩すとカランカの頂だった。下降は雪崩の恐怖を感じながら下り、翌23日氷河に降り立つ。なお、この初登攀により同隊は第17回「ピオレドール(金のピッケル賞)」を授与される。チャンガバン北壁は、日数不足と体力の消耗が激しく断念。
96. 日本クーラ・カンリ登山隊2008
- 登山時期: 2008(平成20年)8月~10月
- 目的: 未踏の北稜からクーラ・カンリ主峰(7538m)の登頂。その後、東峰(Ⅲ峰、7381m)、中央峰(Ⅱ峰、7418m)を経由し主峰へ初縦走
- 参加者: 隊長=高橋和弘(平成8年卒、34歳)、登攀隊長=加藤慶信(平成10年卒、32歳)、三戸呂拓也(同19年卒)<桜井孝憲、有村哲史、中村進、志賀尚子ドクター 計7名>
- 活動概要: 10月1日に雪崩で加藤、有村、中村の3名が死亡、登山を断念する(詳しくは「岳友たちの墓銘碑」参照)。
97. チームホンダ 西ネパール登山隊2009
- 登山時期: 2009(平成21年)5月~6月
- 目的: 西ネパール・ムグ地区の未踏峰コジチュワチュリ(6439m)登頂
- 参加者: 川村雄太(平成21年卒)<本多通宏隊長ほか隊員5名>
- 活動概要: 5月25日5400mのC 2を出発、5600mからコンティニュアスで行く。5800mのコルからは平坦で広いクレバス帯の稜線を進み、6100m付近から急なナイフリッジとなる。次第にガスが懸かる中、コジチュワチュリ北峰に登頂。北峰から本峰へは鋭いナイフリッジが続き、往復するのに時間がかかると本峰登頂を断念。下りは6200m付近でビバークし帰幕。
98. GIRI GIRI BOYSスパンティーク登山隊2009
- 登山時期: 2009(平成21年)6月~7月
- 目的: パキスタンのスパンティーク(7027m)北西壁ゴールデン・ピラーを無酸素、アルパイン・スタイルで登攀
- 参加者: 隊員=天野和明(平成12年卒)<一村文隆、佐藤裕介 計3名>
- 活動概要: 6月20日北西支稜を登攀中、雪崩に襲われ、数百m流されたが、大きなケガもなく装備の紛失もなかった。7月8日ゴールデン・ピラーに向かって登攀を開始、9日は円形劇場下6000mでビバーク。10日はリッジ上のテラス6400mに達し、唯一快適な場所でビバーク。11日は未明まで22時間行動した後、スタンディング・ビバークで仮眠。翌12日クライミングを開始、雪壁を1P半で6750mのプラトーに抜け出る。その後、コンティニュアスで行き、広いスパンティークの頂上に立つ。下降はホワイト・アウトとなりセラック下6800mでビバーク、翌13日に下山。
99. GIRI GIRI BOYSアラスカ遠征2010
- 登山時期: 2010(平成22年)4月~5月
- 目的: アラスカにそびえる氷壁および岩稜の初登攀とマッキンリー(現・デナリ、6194m)の登頂
- 参加者: 天野和明(平成12年卒)<長門敬明、増本亮 計3名>
- 活動概要: 4月18日・19日でルース氷河のピーク7400ftにある西壁950mの “楽天主義者ルート” を初登。大量降雪で4日間停滞した後、25・26日にマウント・チャーチ北壁の新ルートを登攀。天野はマッキンリーで亡くなった友やクーラ・カンリで遭難した加藤慶信、有村哲史を悼み、ルート名を「My Friend Forever」と命名。5月1日タルキートナに移動、翌2日からデナリに向かい、8日3名が頂上に立つ。11日~16日まで休養した後、19日から22日にかけデナリ南西壁の「デナリ・ダイヤモンド」ルートに挑み成功、完全フリーでの初完登を果たす。3日後の26日から27日まで、ハンター北壁の「ムーンフラワー・バットレス」に挑み、バットレスの頭直下で終了。
100. マッキンリー公募登山隊
- 登山時期: 2010(平成22年)6月
- 目的: ノーマル・ルートから北米最高峰マッキンリー(現・デナリ、6190m)の登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成18年卒)<公募登山者>
- 活動概要: 大勢の公募登山者との人間関係に苦悩したが、6月23日マッキンリーに登頂。
第6部 (2011~2019年)
101. NHKエベレスト撮影班
- 登山時期: 2011(平成23年)4月~5月
- 目的: 南東稜からエベレスト(8848m)に登頂、頂上から360度のハイビジョン撮影
- 参加者: 番組ディレクター兼登山リーダー=廣瀬学(平成2年卒)<アシスタント・ディレクター、カメラマン、制作技術含め計4名>
- 活動概要: 4月23日5300mのBCから登山を開始。5月8日ウェスタン・クウム7900mに最終キャンプを建設したが悪天候となり、いったんBCに下山し態勢を建て直す。20日再度BCを出発、23日最終キャンプに入る。翌24日夜、ヘッドランプを点け出発。25日早朝8000mに到達、この後、南峰を越え、4名の撮影クルーとともにエベレスト頂上に立つ。撮影班は世界最高峰の頂から、世界で初めて高精細ハイビジョン撮影に成功(「登山以外の活動史」参照)。
102. 信濃高等学校教職員山岳会(信高山岳会)ヤズィックアグル峰登山隊
- 登山時期: 2011(平成23年)7月~8月
- 目的: 中国の崑崙山脈・アクサイ山群の主峰ヤズィックアグル峰(6770m)初登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒)<松田大隊長、大西浩登攀隊長ほか隊員6名>
- 活動概要: 8月4日6070mのC2を出発、主稜線までフィックス・ロープで登る。6400m付近から斜度が大きくなり、スタカットで上を目指す。上部に行くほど雪が深くなり、頂上直下の60度近い斜面では膝上のラッセルとなる。急斜面の6Pを4時間半かけて登り、三戸呂を含む5名はヤズィックアグル峰に初登頂。
103. 高松勤労者山の会キリマンジャロ登山
- 登山時期: 2012(平成24年)8月
- 目的: ステラ・ポイント経由アフリカ最高峰キリマンジャロ(5895m)登頂
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒)<平井竹幸、三宅章子の3名>
- 活動概要: 8月14日マチャメ・ゲート(1800m)から登山開始。マチャメ・キャンプ(3000m)、2日目シラー・ケイブ(3720m)、3日目バランコ・キャンプ(3900m)、4日目カランガ・キャンプ(4000m)を経由、5日目最終地バラフ・キャンプ(4600m)に泊まる。19日深夜アタックを開始、ステラ・ポイント(5735m)を経由しウフル・ピークに登頂。
104. 日本シスパーレ登山隊2012
- 登山時期: 2012(平成24年)8月~10月
- 目的: パキスタン・フンザにそびえるシスパーレ(7611m)を南西壁から登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒)<平出和也の2名>
- 活動概要: バトゥラ山脈の高峰シスパーレの南西壁は壁が4000mも続く難壁で、核心部の斜面は雪が膝まで積もり、その下は蒼氷で滑落すると止まらない斜度となる。辛い登りで高度を稼げず、さらに悪天候も重なり壁の半分にも達しない5750mで断念。
105.《アコンカグア単独行》
- 登山時期: 2012(平成24年)12月~2013(平成25年)1月
- 目的: ノーマル・ルートから南アメリカ最高峰アコンカグア(6962m)に単独登頂
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒)
- 活動概要: アルゼンチンのメンドーサから登山口プエンテ・デル・インカまで車で入る。標高4300mのプラザ・デ・ムーラスをベースに5000m、6000mと高所順応する。2つのキャンプを設け、12月29日頂上に向かい、強風で鼻先が凍傷になったが南米最高峰に立つ。
106.《MIURA EVEREST2013》
- 登山時期: 2013(平成25年)3月~5月
- 目的: 三浦雄一郎氏が80歳の最年長記録を目指し南東稜からエベレスト(8848m)登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒、28歳)<三浦雄一郎隊長、三浦豪太副隊長ほか隊員3名、BCサポート隊3名>
- 活動概要: 4月16日BC(5350m)に入り、高度順化と酸素休養する。5月16日から登山を開始しC1(6050m)建設。17日C2(6500m)、19日C3(7000m)、20日C3+(7450m)、21日C4(7980m)と延ばし、22日最終キャンプのC5(8500m)に入る。翌23日のアタックでシェルパを含め10名が登頂。三戸呂は7100mまでサポート。
107.《栃木K2登山隊2013》
- 登山時期: 2013(平成25年)6月~8月
- 目的: 南東稜からK2(8611m)登頂
- 参加者: 佐々木理人(平成24年卒、24歳)<北村誠一隊長ほか隊員5名>
- 活動概要: 7月25日第1次隊はC2(6700m)に入り、26日C3(7300m)に入る予定だったが、上部に積雪多く危険なことから行動を中止し、BCに下り出直す。2日後の28日C3で大規模な雪崩が発生、ニュージーランド人2名が死亡、栃木隊はじめ各隊のテントやデポした酸素などの装備が流される。これ以上の登山続行は厳しく断念。
108.《テレビ番組「世界の果てまでイッテQ」マナスル登山》
- 登山時期: 2013(平成25年)9月~10月
- 目的: タレントのイモト・アヤコをサポートし、北東面からマナスル(8163m)登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒、28歳)<リーダー=角谷道弘ほか隊員3名>
- 活動概要: 日本テレビのバラエティ番組「世界の果てまでイッテQ」の「イッテQ登山部」で、三戸呂がサポート隊員として同行、10月2日マナスルに登頂。
109.《テレビ番組「世界の果てまでイッテQ」エベレスト登山》
- 登山時期: 2014(平成26年)4月~5月
- 目的: タレントのイモト・アヤコをサポートし、東南稜から世界最高峰エベレスト(8848m)登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒、29歳)<リーダー=角谷道弘ほか>
- 活動概要: 4月18日、ネパール人登山ガイド13人が雪崩で死亡する、エベレスト登山史上最悪の事故が発生。現地ガイドは登山中止を決め、4月28日に断念。
110.《アイランド・ピーク単独行》
- 登山時期: 2015(平成27年)3月
- 目的: クーンブ・ヒマールにあるアイランド・ピーク(イムジャツェ、6160m)登頂
- 参加者: 佐々木理人(平成24年卒)
- 活動概要: 単独でアイランド・ピークに登頂。
111.《モン・ブラン単独行》
- 登山時期: 2015(平成27年)7月~8月
- 目的: ヨーロッパ・アルプス最高峰モン・ブラン(4810m)に登り、5大陸最高峰を制覇
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒、59歳)
- 活動概要: 7月30日から31日にかけイタリアのグラン・パラディゾ(4061m)に登る。7月下旬モン・ブランは落石による登山禁止が解除され、8月2日頂上に向かう。3日夜グーテ小屋を出発、朝モン・ブラン頂上に立ち、植村直己に次いで5大陸最高峰を制覇。
112.《日本山岳会学生部ネパール東部登山隊2015》
- 登山時期: 2015(平成27年)9月~10月
- 目的: カンチェンジュンガ山群のジャネⅡ峰(6318m)およびローナクⅡ峰(6070m)の初登頂
- 参加者: 登攀隊長=宮津洸太郎(平成27年卒)<真下孝典隊長ほか隊員6名>
- 活動概要: 9月末、ローナク氷河とブロークン氷河の二股に中間キャンプを張る。ここを起点にブロークン氷河内にBCを設け、ローナク・ピークに向かう。しかし、頂上直下の壁は崩壊が顕著で撤退、ジャネⅡ峰に転進する。10月1日チジマ氷河舌端下部5650mにACを建設、ルート工作を行う。10月4日宮津と木村健太が先発隊として出発、後続隊の4名が後を追う。国境にそびえる未踏峰ジャネⅡ峰の狭い頂に6人が立つ。
113.《日本アピ登山隊2015》
- 登山時期: 2015(平成27年)9月~10月
- 目的: 未踏の南西壁からアピ(7132m)登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒)<平出和也、中島健郎の3名>
- 活動概要: 南西壁は雪が少なく状態が悪いため諦め、東稜上のコルから氷河を下り北面に転進する。10月21日6000mのC5を出発、北面から山頂に向かって延びる尾根をたどり、1960年同志社大隊の初登ルートからアピに登頂。
114.《NHKデナリ・スキー滑降撮影隊》
- 登山時期: 2017(平成29年)5月~6月
- 目的: 山岳スキーヤー・佐々木大輔氏が、北米最高峰デナリ(6190m)南西壁を滑降するテレビ撮影
- 参加者: 関裕一(平成11年卒)、三戸呂拓也(平成19年卒)<メンバー16名>
- 活動概要: 関、三戸呂たち撮影隊員は、撮影前の5月31日に高所順応を兼ねウェスト・バットレスからデナリに登頂。その後6月18日、標高差2500m、斜度50度を超える南西壁を滑降する佐々木大輔チームのテレビ撮影に成功。
115.《チンボラソ単独行》
- 登山時期: 2017(平成29年)8月
- 目的: エクアドルの最高峰チンボラソ(6268m)の単独登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒)
- 活動概要: 8月4日に入山、登山準備を整え5日夜に出発。6日早朝、山頂に着く。
116.《日本ニルギリ登山隊2018》
- 登山時期: 2018(平成30年)9月~11月
- 目的: 北壁からニルギリ北峰(7061m)登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒)<青木達哉と2名>
- 活動概要: 北壁のコンディションは思いのほか厳しく、ルート確保に苦しんだ結果、5900mを最高到達点にして下降、断念する。
117.《日本山岳会青年部チャムラン登山隊2018》
- 登山時期: 2018(平成30年)9月~10月
- 目的: 西稜からチャムラン(7319m)登頂
- 参加者: 宮津洸太郎(平成27年卒、27歳)<杉原一樹、佐々木優の3名>
- 活動概要: メラ・ピーク(6467m)で高度順化した後、10月3日BCに入る。登山準備やルート偵察の後、6100mのC1に入る。翌12日C2入りを目指したが、ナイフリッジが山頂へ続く6350m付近で隊員1名の体調が悪化、少し下った6300m付近で幕営する。13日上部へ向かうが、再び隊員の状態が悪くなったので諦め、6400mを最高到達点に断念。
118.《メラ・ピーク登山
- 登山時期: 2018(平成30年)10月~11月
- 目的: ネパール・ヒマラヤのトレッキングでメラ・ピーク(6467m)登頂
- 参加者: 伊藤彰則(昭和53年卒)、三谷統一郎(昭和53年卒)、シェルパ1名 計3名
- 活動概要: ルクラからゼトワ・ラ(4600m)を越え、クーンブ方面をトレッキング。10月24日にメラ・ラに登って高度順化を行い、25日緩い氷河を登り5750m地点にハイキャンプを設営。26日伊藤は高度障害がひどくメラ・ラに戻り、三谷とシェルパの2人で3時45分出発。7時半ごろメラ・ピーク頂上に立つ。その後下山し、伊藤と合流。
119.《デナリ登山》
- 登山時期: 2019(平成31年)6月~7月
- 目的: ウェスト・バットレスからデナリ(6190m)登頂
- 参加者: 山本篤(昭和61年卒)、宮津洸太郎(平成28年卒)<久保田直也ほか5名>
- 活動概要: ウェスト・バットレスのルートから6月28日、デナリ頂上に立つ。
120.《ガッシャーブルムⅠ・Ⅱ峰公募登山隊》
- 登山時期: 2019(平成31年)6月~8月
- 目的: ノーマル・ルートからガッシャーブルムⅠ峰(8068m)とⅡ峰(8035m)の連続登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒)
- 活動概要: 7月18日南東稜からガッシャーブルムⅡ峰に登頂。しかし、Ⅰ峰はパートナーとの意思疎通がうまくいかず断念。
第7部 (2019~2021年)
121.《ストック・カンリ登山》
- 登山時期: 2019(平成31年)7月
- 目的: インド・ヒマラヤのストック・カンリ(6125m)登山
- 参加者: 三谷統一郎(昭和53年卒)<ガイド3人>
- 活動概要: 2泊3日の行程で7月25日レーを出発。3日目、頂上稜線をアンザイレンして登頂。
122.《カールン・コー遠征2021》
- 登山時期: 2021(令和3年)12月~2022(令和4年)1月
- 目的: パキスタン北部にあるカールン・コー(6977m)に未踏の北壁から、また、隣にそびえる未踏峰(6020m)に初登頂
- 参加者: 三戸呂拓也(平成19年卒、36歳)、平出和也(東海大学山岳部OB、42歳)の2名
- 活動概要: 厳冬期の12月17日、未踏峰に初登頂。かつて日本隊に参加し事故死したハイポーターの名前をとり「サミ・サール」と命名。なお、続けて挑戦する予定であった隣のカールン・コーは、未踏の北壁に取り付くことができず断念。