基本情報
遭難発生日 | 1977(昭和52)年 5 月 13 日 |
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遠征計画 | 未踏の東壁からヒマルチュリ(7893m)登頂 |
遭難場所 | ヒマルチュリ東壁のJACルート(雪庇崩壊の氷塊が頭部直撃) |
遠征メンバー | (「海外登山史」参照) |
遭難概要
「明治大学ヒマルチュリ登山隊」は1977年3月24日、シュラン谷4100mのベースキャンプ(BC)から長大な東尾根に向かって登山活動を開始した。後半戦が始まった4月24日、ラニー・ピークの壁を下降し、リダンダ氷河側のコル6100mに第4キャンプ(C4)、28日にジャンプ台の下6800mに第5キャンプ(C5)、そして5月11日、7150m地点に最終キャンプ(C6)を建設、アタック態勢が完了した。
12日、第1次アタック隊の長谷川良典と五十嵐武美が頂を目指し未踏の東壁に挑んだ。ところが、予想もしない深いラッセルに苦しめられ、健闘も空しく東壁上部の稜線直下まで後50mの地点(7650m)で時間切れとなり、退却する。
翌13日、第2次アタック隊の近藤芳春と三谷統一郎は最終キャンプを出発、前日の第1次隊が張ったフィックス・ザイルに導かれ、東壁を上へ上へと登り詰める。14時、稜線の雪庇を崩し、未踏の東壁を突破した。それから稜線上を頂上へと向かったが16時15分、頂上直下100mの地点で時間が遅くなり、アタックを諦め引き返す。
トランシーバーでの定時交信の後、近藤と三谷は東壁をフィックス・ザイルに導かれて下降し、無事C6に帰着するものと誰もが思っていた。
ところが、19時の定時交信でC5の長谷川からのショッキングな連絡に打ちのめされる――「18時40分ごろ、東壁に大きな雪崩の音を聞きました。すぐ天幕外に出て確認したところ、雪崩は私たちのルート上に起きて、デブリはC5とC6の中間地点で止まっています。壁を下降している者は1人しか確認できず、雪崩の落下方向に黒点2つが認められます。これから長谷川、田中、五十嵐、アンツェリンの4人でその確認を行います。すぐ出発しますので、トランシーバーは開局して待機していて下さい」と、高揚した声が飛び込んだ。
19時15分、長谷川たちは救援に向かった。19時40分ごろC6から下ってきた三谷と出会い、五十嵐を付けてC5へ帰幕させた。長谷川、田中、アンツェリンの3名は、20時にデブリの中から近藤のベストを発見、20時10分に近藤隊員の遺体を発見した。暗闇となり遺体搬送は無理と判断、安全な場所に遺体を安置しC5へ戻った。
後で詳しい報告を聞くと、18時40分ごろ突然、稜線上の雪庇が崩壊し氷塊の一部が近藤の頭部を直撃、さらに氷塊の落下で発生した雪崩に流されたという。近藤の下を下降していた三谷も雪崩に流されたが、かろうじて助かる。
雪崩が収まってから三谷は18時50分、C6に帰幕し、近藤の名前を呼ぶが応答はなかった。C6は危険と判断、C5へ下る途中で近藤のオーバー手袋とザックを発見したという、信じられない報告だった。
翌14日、第3次アタックを諦め、登山は中止となる。2隊に分かれ、長谷川と田中はC6の撤収作業、五十嵐とアンツェリンはデブリの検証を行った。その後、合流して近藤の遺体をC5へ収容した。
C5で近藤の遺体を再梱包し、遺髪を採る。C5の撤収は上がってきたC4のメンバーに任せ、C4へ下る。17時過ぎ、夕闇迫るC4に無言の近藤隊員は帰幕した。ラニー・ピークの壁での遺体引き上げは困難を極めたが、19日にBCに戻り、佐々木ドクターが検死、22日、BC近くの岩の上で近藤隊員の遺体を荼毘に付し、別れを告げた。
遭難の原因
一つに気象条件を挙げると、この年のヒマルチュリ周辺は、例年になく降雪が多かった。登山を開始して3日目、C1上部で雪崩が発生、そのためC1の上部への移動を余儀なくされた。また、後半戦に入った5月1日昼前、C5上部で表層雪崩が発生しテントが埋没、中にいた和田、田中、アンツェリンは、テントを切り裂き脱出する事態も起きた。さらに登山期間中、テントが埋没するくらいの降雪で行動不能となり、停滞する日々が続いた。
アタック・ルートに選んだ東壁は、急峻な氷の斜面に新雪が積もり、腰までのラッセルを強いられる雪壁に変わっていた。さらに稜線は西側からの強風で東側に雪庇が大きく張り出していた。その稜線の雪庇崩壊で近藤の命が奪われるとは、信じられない事態になってしまった。
C6の撤収に向かった長谷川と田中は、近藤がいたと思われる地点に大きな穴が無数にあるのを肉眼で確認している。また、その地点から重い塊りが斜面を転がった跡も見られ、さらに岩場を飛び越えた斜面にも同様の筋があり、しばらく下った斜面から雪崩が発生したことが判明した。
こうした現場の状況から、アタック当日の無風快晴の天候が稜線から東壁側に張り出した雪庇を緩ませ、それが崩壊につながり、崩壊した雪庇の塊りが斜面にバウンドし、四方八方に散らばった。その無数の氷塊が東壁斜面に落下したことにより、衝撃で雪崩を誘発したようだ。
また、佐々木医師の検死結果も、崩壊した氷塊の一部が近藤隊員の頭部を直撃し、死亡に至ったことが分かった。決まり文句ではあるが、「山では何が起こるか分からない」という、自然の恐ろしさを教える近藤隊員の死であった(「海外登山史」参照)。