– 焼け野原から再起する部員を「気持ちで負けるな」とエール-
戦時下の小島憲(こじま けん)先生は、勤労動員部長として奔走していた。そのとき勤労動員に通っていた大塚博美と広羽清の2人は、石川島造船所で小島先生と出会う。この出会いが戦後初めての山岳部長に就任するきっかけとなる。
1946(昭和21)年4月、戦後初めての山岳部長として小島憲教授が就く。同時に再開した山岳部に20名を超す新入部員が入ってきた。同年10月に繰り上げ卒業する戦前の部員送別会が、本校の師弟食堂で開かれた。小島部長とともに前部長の末光績先生も出席、現役部員13名、炉辺会員は部員数より多い21名が集まり、さながら戦後の再出発を期す決起大会のような熱気に包まれた。
この時代の小島憲部長について、特別会員の小野幸氏は「戦後、再スタートを切った明大山岳部の部長に就いた小島憲先生の教えは、苦しい戦後を気持ちで負けなければ、道は必ず開ける。先生の教えは登山と人生の大切な羅針盤となった」と述懐している。「気持ちで負けるな」という激励は、再建に取り組む戦後の部員たちの大きな支えとなった。
小島先生は山岳部長に就いた当時を「戦後の混乱期で、戦前から学内体育会各部がまだ復活しないものがあり、また有名無実のものが多かった時代に、いち早く山岳部が活動を開始したが、熱心かつ指導力があり、山を愛すること人後に落ちない末光部長の後釜に私をということで戸惑ったが、大塚さんや広羽さんなどから頼まれて盲蛇に怖じず、つい受けてしまったものの、何もせず部に申し訳ないと、今でも名前だけの部長であったことを恥じている。だから歴代部長のように、こんなことをしたというような思い出はない。ただ部の皆さんがよくやって下さったというだけである。(中略)山岳部長になれとの話しがあったとき、あるいは部員諸君と共に登山の機会もあるかもしれぬとの心が動いたので、引き受けたのであるが、とても道楽半分の登山とは異なり、山岳部の本格的な登山は私には、到底無理なことがわかって、下手なことをして部に迷惑をかけてはと、部長時代に八方尾根の明大山寮にも行かなかったことを部に対して済まなかったと思っている。(以下略)〈昭和58年3月15日 記〉」と振り返っている。
小島先生は根っからの山好きであった。学生時代から山登りに興味を持ち、とりわけ富士山に登ったのは、本学在学中の1916(大正5年)8月というから、山岳部が誕生する6年も前のことである。また、1929(昭和4年)には、当時の山岳部長の神宮先生と後に部長となる末光先生と3人で、中房温泉から槍ヶ岳まで縦走している。
さらに70歳で定年退職したとき、「人生五十というから、今は二度目の二十歳。それなら成人式の記念に」というわけで、1963(同38年)8月、中房温泉から燕岳―西岳―東鎌尾根―槍ヶ岳―上高地と“北アルプス・表銀座コース”を2日間、たった独りで縦走し、周囲をアッと言わせた。小島先生は「老いらくの恋を成し遂げた感激は、永久に忘れることができない」とのちに語っている。
1980(同55年)、本学総長になっても、山に登りたいという意欲に変わりはなかった。ところが、大学側から「登山は遠慮して下さい」とお達しされる。このときのことを小島先生は「3000メートルの登山を封じられたのが残念でしてねぇ。17年前に定年の記念にと、生まれて初めて登山靴をはいて、ひとりで北アルプスを縦走してから毎年続けていたんですが、遭難でもしたら大学の面汚しになるというので」と悔しさを滲ませた。
ここで、次の山岳部長となる泉靖一先生との結び付きに触れる。法学部政治科の学生であった小島青年は、泉靖一先生の父君・泉哲先生の教え子であった。本学は1925(大正14年)、法学部の政治科と商学部の経済科を併せ政治経済学部を創設する。この新学部の設立に泉哲先生と小島先生が深く関わった。こうした恩師・泉哲先生との師弟関係からご子息の泉靖一先生を本学に迎え入れ、のちに山岳部長に招く道筋となる。
山岳部は32年後に小島先生と再び出会う。1981(昭和56年)2月20日、明大創立百周年記念事業・エベレスト登山隊の出陣式が本校中庭で開かれた。交野武一総隊長以下11名の隊員が一列に並び、大学から小島憲総長、山本進一学長が門出の言葉を贈った。小柄な小島総長は凛としたたたずまいで、隊員一人一人に温かい眼差しを送っていた。静かに見守る姿は32年間というブランクを感じさせない、かつての“山岳部長”そのものだった。
それから6年後の1987(同62年)5月20日、小島憲先生は急性心不全で逝去され、94歳の天寿を全うした。戦後の最も苦しい時代に、山岳部長として大変お世話になった。「気持ちで負けるな」という、負けず嫌いの先生の励ましが、焼け野原から再起した戦後の山岳部員たちの大きな原動力になったのは間違いない。