山岳部長に昭和生まれ、46歳という若い先生を迎えた。なおかつ専門は地理学で、高山や寒冷地を研究し、山にも積極的に登る小疇尚(こあぜ たかし)先生である。
こうした極地や高山など幅広く研究する先生が、学内の文学部にいることを知った木村礎先生は、1972(昭和47)年、小疇先生を炉辺会の特別会員に推挙する。木村先生は文学部の助教授であった小疇先生と駿台史学会で顔馴染みであり、いずれ山岳部の部長後継者に、との想いから炉辺会に招聘したのだろう。
小疇先生と山岳部との初めての縁は、先生が3年生の春、鳳凰三山の薬師岳で気象観測と地形調査をしたとき、南御室小屋で山岳部員の秋山光男と出会い、お互い明大文学部史学地理学科と名乗り合ったときだった。また、同じ学科の村関利夫と親しくなり、クラスの友人や2人で北海道の日高山脈や大雪山に登ったという。小疇先生は、村関を通じて山岳部の活動実態を知る。
それから20年後の1980(昭和55年)冬、植村直己率いる「日本冬期エベレスト登山隊」の学術班に参加する。明大から小疇教授とOBの岡澤修一が参加した(日本冬期エベレスト登山隊 学術班 )。この学術班が帰国して9ヶ月後の1981(昭和56年)10月、小疇先生は山岳部長に就任する。前任の木村先生は、思惑どおり山岳部長のバトンを小疇先生に託した。
部長に就いたころから、山岳部は部員減少という難題に直面する。就任前の3月に4名が卒業すると、1982年は3名、1983年から1985年まではそれぞれ1名、1986年は3名、1987年は2名のみの卒業と、部員の減少が続いた。このころの山岳部は入部する部員数が少なく、入部しても中途退部者が絶えず、監督やコーチ陣にとって頭の痛い問題となる。この部員減少の問題は、明大山岳部に限らず大学山岳部共通の悩みの種で、現在も危機的状況から抜け出せないままである。
就任して10年目の1991(平成3年)春、「明治大学チョモランマ峰登山隊」(平野眞市隊長)に学術班が同行する。小疇部長(当時55歳)が隊長となり、岡澤修一ほか2名が加わる4名で、未知のカンシュン氷河の地形などを調査した(明治大学チョモランマ峰遠征隊 学術班)。
ところが、この学術調査から帰国した年の冬、12年ぶりの遭難が起きてしまう。1991年の冬山合宿で12月28日、染矢浄志が利尻山のヤムナイ沢に転落、行方不明になる。12月30日から捜索活動に入ったが、長期にわたる遺体捜索となり、小疇部長は第1次(1月)、第4次(4月~5月)の2回現地に入り、捜索隊を励まし関係先への挨拶回りをしていただいた。また、東京で開かれた捜索委員会は37回を数え、小疇部長には半分以上ご出席いただいた。そして、遺体発見後も地元の町や警察へ御礼に同行していただくなど、遠く離れた利尻島まで何度も足を運んでいただいた(岳友たちの墓銘碑-故 染矢浄志)。
そうしたなか、21世紀のMAC・炉辺会を担う小疇部長の教え子たちが羽ばたく。1995(平成7年)、「明治大学山岳部インド・ヒマラヤ登山隊」がガングスタン(6162m)に遠征、全員登頂に成功するという快挙を成し遂げる。また、21世紀を目前にした2000(平成12年)3月、山岳部創部80周年・本学創立120周年記念の「ドリーム・プロジェクト」が動き出す。このプロジェクトで活躍した主力メンバーは、小疇部長時代の教え子たちだった。そして、登山隊にドッキングする学術調査隊も派遣され、小疇部長の専門分野である氷河地形などの調査で数々の成果を挙げる()。このドリーム・プロジェクト成功の2年後、小疇先生は明大を定年退職する。
前述のとおり小疇先生の山岳部長時代は、部員の減少という大きな壁が立ちはだかる苦難の時代であった。21世紀に入った2001(平成13年)度は1人も入部せず、部員数は3年生2人だけという危機的状況に陥り、明大山岳部は“存亡の危機”に陥った。炉辺会の理事会はじめコーチ会は、「部員減少に歯止めをかけねば」と様々な角度から検討を重ねた。
そこで、大学入学前の高校生の意識を知ろうと、高校山岳部に部活動と部の現状に関するアンケート調査を行った。この高校山岳部へのアンケート調査結果を基に高野剛監督、コーチ陣は小疇部長と話し合い、大学側へ「スポーツ推薦入試制度」の適用申請に踏み切る。その結果、2003(平成15年)度から2名の推薦枠(現在は1名枠)が決まる。間口が広がったことは、山岳部にとって大きな前進となった。
晩年、長年にわたって山岳地形や氷河などを研究された先生は「日本の山岳景観に関する研究」で平成30年度の「秩父宮記念山岳賞」を受賞する栄誉に輝いた。小疇尚部長先生には1981(昭和56年)から2005(平成17年)まで、23年半という四半世紀に近い間、お世話になった。すなわち“昭和から平成へ”、そして“20世紀から21世紀へ”という大きな時代の移り変わりの中でご指導いただき、苦難の山岳部を支えていただいた。