特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

困難を乗り越えた明大山岳部の再建|木村礎先生が示した3つの約束「遭難しない、退部しない、卒業する」

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木村礎先生の肖像。画像出典: 明治大学デジタルアーカイブ

 木村礎(きむら もとい)先生は学園紛争の嵐が吹き荒れる1970(昭和45年)4月、前任の渡辺操先生が亡くなられて1ヶ月のち、山岳部長に就いた。このとき先生は、大学改革の準備委員会委員長として多忙を極めていた。実は就任する10年前の1960(同35年)、渡辺部長が大学創立80周年記念のアラスカ学術調査で長期不在にすることから、文学部の後輩教授で、なおかつ駿台史学会で一緒の木村先生が山岳部長代理を務めた。この縁もあり、在職中に亡くなられた渡辺部長の後任として、山岳部長就任につながったと思われる。

 木村先生が山岳部長に就任して間もなくの5月11日、植村直己が日本人として初めて世界最高峰の頂に立つニュースが大々的に報じられ、炉辺会はじめ山岳部は歓喜に沸いた。ようやく大学問題から解放され、初めて担当する山岳部の明るいニュースに浸る間もなく、思いもよらない“山岳遭難”という問題に直面する。1971(同46年)9月26日、山岳部主将の石島修一が、穂高の滝谷で転落死亡するという遭難が起きる(岳友たちの墓銘碑 – 故 石島修一)。しかし、これで終わらなかった。再び悪夢が木村部長を襲う。石島遭難から1年も経たない1972(同47年)8月2日、夏山合宿で3年生部員の梶川清が、北アルプスの不帰東面で滑落死する事故が起きてしまう(岳友たちの墓銘碑 – 故 梶川清)。山岳部は2年連続遭難という前代未聞の事態に陥り、木村部長は失望と落胆を隠せなかった。

 木村部長は登山に詳しくないので、自らの研究室の課外活動を引き合いに出し、2年連続の死亡遭難を起こした山岳部員に遭難防止を強く呼び掛けた。この事態を重く受け止めた炉辺会が総力を挙げて指導した結果、山岳部は再建に向けて動き出す。ところが、木村部長が退任する2年前の1979(同54年)7月、夏山合宿で1年生部員の松本明が急死する事故がまたしても起きる(岳友たちの墓銘碑 – 故 松本明)。これで在任期間中に起きた遭難事故は3件で、3名の若い部員が還らぬ人となってしまった。それも全て夏山での遭難事故であり、木村部長にとってはなんともやるせない出来事となった。おそらく山岳部長を退任するその日まで、先生の頭の中から、ひとときも“遭難”という二文字が消えることはなかったことだろう。

 山岳部の再建に見通しが立ったころ、炉辺会で1981(同56年)、大学創立百周年記念エベレスト遠征計画が動き出す。このビッグ・プロジェクトでは、木村部長に大学側との様々な交渉の窓口になっていただいた。部長のお力添えもあり大学側から1500万円の助成金が認められ、計画は大きく前進することになる。

 11年という長きにわたり山岳部長に就かれた木村先生は、9月に退任する。新任の小疇尚先生との歓送迎会で木村先生は―「大学創立百周年記念事業のエベレスト遠征は、全員奮闘し頂上まであとわずかというところまで到達し、全員無事に帰って来れたということで、私もこれで晴れ晴れとした気持ちで山岳部長を離れることが嬉しく思います。私は歴史の方が専門で、歴史というのは“人”がいなければなりませんので、高い所は元来行きません。人がいるところへは随分歩きます」とユーモアを交え挨拶された。

 登山には縁がなかったが、部長在任中、山との“縁”が芽生え、山岳部員や炉辺会員との“絆”は深まっていった。木村先生は部長退任後、1982(同57年)4月に第4代の炉辺会長に就任する。部長先生がOB会の会長に就くのは、初代会長の神宮徳壽先生以来2人目である。1986(同61年)3月まで4年間、炉辺会長を務めていただいたことから、特別名誉会員に推挙される。この間で最も大きな出来事は、植村直己のマッキンリー遭難(1984年2月13日)であった(岳友たちの墓銘碑 -故 植村直己)。部長、会長を通じると4件目の遭難となり、先生には「遭難」という二文字が最後の最後まで消えることはなかった。

 木村先生は山岳部長を退任した後、1988(同63年)4月から1992(平成4年)まで明大学長を務める。歴代の山岳部長で学長・総長に就くのは春日井薫先生小島憲先生に次いで3人目である。この学長時代に本学創立110周年記念のチョモランマ遠征が実現する。しかし、木村学長に朗報を届けることはできなかった。2004(平成16年)11月27日、木村礎先生は脳内出血で逝去、享年80。

 1971年、72年に起きた連続遭難の後、木村部長は山岳部員に3つの心得(部長三訓)を説いた。1つ目は「遭難を起こさない(山で死ぬな)」、2つ目は「山岳部で4年間、歯を食い縛って頑張れ。2年生で入部した者は3年間頑張る」、最後は「明大を卒業すること。学業成績は問わない。また、4年間以上かかってもいいから、卒業証書をもらいなさい」と。この約束は、山岳部長と部員との“山男の約束”であった。山岳部長11年半、炉辺会長4年と長きにわたりお世話になったが、ご心配とご苦労を掛け続ける歳月となってしまった。

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