特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

故 梶川 清(昭和45年入部)

  • URLをコピーしました!
目次

基本情報

遭難発生日1972(昭和47)年 8 月 2 日
山行計画夏山合宿A隊(不帰東面~黒部川・上廊下)
遭難場所不帰Ⅰ峰・Ⅱ峰間ルンゼの雪渓上部(滑落死)
山行メンバーCL=梶川清、部員=富山洋(昭和45年入部 3 年)、大野正美(同45年入部 3 年)
和田耕一(同46年入部 2 年)、竹田和夫(同46年入部 2 年)
新人(同47年入部)=田中淳一、小林成夫、明尾泰行、川崎美津子 計9名
同行OB=長谷川良典(同44年卒)

遭難概要

 1972年度の夏山合宿は多くの新入部員が入ったため、2隊に分かれての分散合宿となった。A隊一行は7月29日から合宿の実動に入った。30日に不帰沢と唐松沢の出合にベースキャンプ(BC)を設営、雪上訓練や登攀ルートの偵察などを行った。8月1日は不帰「Ⅰ峰尾根下部隊」、「Ⅰ峰尾根上部隊」、「北峰ルンゼ隊」、そして「阪大ルート隊」の4隊に分かれ登攀した。

 翌2日も4隊(「Ⅰ峰尾根下部隊」、「Ⅱ峰甲南ルート隊」、「Ⅱ峰南峰ルンゼ隊」、「中央リッジ隊」)に分かれ、不帰東面を登攀した。それぞれルートを登攀した各パーティは、不帰Ⅱ峰の北峰に集結、全員でBCに帰幕する予定だった。

 北峰に集合したメンバーはまずⅠ・Ⅱ峰間コルへ下り、コルから右岸沿いにガレ場を下り、雪渓の中にある最後のクレバスに入った。朝から思わしくなかった天候が、このころから雨が降り出し、クレバスの中で雨具を着けた。この後、斜降を繰り返しながら雪渓が広くなる所まで100m下った。

 右岸沿いの安定したクレバスの縁に集まり、ここからグリセードで下った。1年生の男子は50~70mの間隔を開け、女子1名には梶川が付き添い、しばらくキック・ステップで下り、やや下った所からグリセードを始めた。

 男子が2回目のグリセードを終わり、甲南ルンゼの出合、約100m上の地点に集結した。女子はそこから約60m上の地点で、3回目のグリセードに入った。まず先行した富山がグリセードに失敗し、1年男子の50mほど下で停止、立ち上がった。そのとき1年女子は安定した姿勢でグリセードを始めたが、停止しきれずに梶川の5m上方から滑落する格好となり、梶川が止めに入った。

 しかし、止めようとぶつかったショックで梶川もスリップ、そのまま2人とも滑落していった。梶川は自ら止めようとするも加速されて止まらず、長谷川OBの大声で下にいた大野が振り返ったとき、梶川らはすでに通り過ぎていた。そこで一番下にいて立ち上がった富山に声を掛け、富山は滑落して来る2人に飛び付いた。しかし、スピードがつき過ぎて跳ね飛ばされ、梶川と1年女子が重なり、その2~3m下を富山が滑り落ちていった。3人は50~60mほど滑落し、すごいスピードで左岸のシュルントの中へ飛び込み、見えなくなった。

 すぐさま3人が落ち込んだシュルントまで、大野が急ぎグリセードで下った。長谷川OBは1年男子の所まで降り、2年生と1年男子をリードしながら斜降を繰り返し、シュルント近くまで下った。落ちたシュルントの中を調べると、上段に倒れている富山を発見、右足脛を複雑骨折していた。さらにシュルント下段の最奥に、岩壁と雪渓に挟まれる格好で梶川が仰向けに横たわり、その上に1年女子が重なって倒れていた。

 1年女子は精神的ショックがあるものの外傷はなく、立って歩けた。しかし、下敷きとなった梶川は意識がなく、首の骨を岩壁に強く打ち付けたため間もなく死亡する。

 富山を背負いながら16時30分、現場を出発、BCに着いたのは夜の7時半ごろとなる。翌3日、大野と2年生1名が不帰沢から唐松岳を経由して細野(現・八方)に下山、東京本部へ救援を依頼した。

遭難の原因

 新人女子部員のスリップを食い止めようとしたリーダーの梶川が、そのスピードに巻き込まれて滑落、打ち所が悪く犠牲となる悲運な事故であった。

 グリセードで下降する前に雨が降り出し、雨具を着用したことが皮肉にも悲劇を招いてしまった。初めは女子部員を安全に下降させるためキック・ステップで下り、その後グリセードに切り替えている。

 結果としてグリセードの未熟さから転倒、さらに着用した雨具が雪面との摩擦抵抗をなくし、滑落スピードを加速させてしまった。それを食い止めようとした上級生も加速したスピードに跳ね飛ばされ、3人で滑落する事故となった。

 2年続いた夏山での連続遭難を重く受け止めた炉辺会は、山岳部の活動を自粛・謹慎とし、翌年の春まで「再建委員会」を設置、部の再建を図ることになる。

  • URLをコピーしました!
目次