特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

“クソ(苦素)”と呼ばれた明大山岳部長・神宮徳壽の軌跡と功績

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– 哲学的に山岳思想を説いた指南役 –

 神宮徳壽(じんぐう よしとし)部長は、大正末期から昭和初期にかけ、明大山岳部の草創期に大きな足跡を残した。山岳部長に二度も就き、また、初代の炉辺会長も務めるなど、我が山岳部の部史を語るには、欠くことのできない山岳部長である。

 神宮先生が登山や山に傾注するきっかけを作ってくれたのは、父君の職業(神社の神官)にあったようだ。先生は山岳部が創部される前年の1921(大正10)年9月、日本山岳会に入会している(会員番号791番)。当時の日本山岳会には、明治大学の2代目校長(大正9年の大学令で初代の学長)となる木下友三郎氏(会員番号11番)がすでに入会していた。日本山岳会の創立当時に入会した木下氏は1921年6月、学長を辞め、1924(同13)年12月に名誉顧問に就いている。木下氏は日本山岳会の会報や会員名簿で、本校の予科講師である神宮先生が、日本山岳会の会員であることを知っていたと思われる。

木下友三郎氏の肖像。画像出典:明治大学デジタルアーカイブ

 そこで元学長の木下氏は次期山岳部長に、日本山岳会の会員でもある予科講師の神宮徳壽先生を推薦したのではないだろうか。1924年4月、大谷部長の後任として34歳の神宮先生が就任する。この当時の山岳部は創部されてまだ2年後で、部活動はじめ未熟な面が多かった。その最中に関東大震災が起き、部室は消失、テントやスキー用具をはじめ山岳書籍などを失い、部の再建に取り組んでいた。さらに追い打ちを掛けるように山岳部創設者の米澤秀太郎が急死、精神的な支柱を失い、山岳部は最悪の状態にあった。

 そうした折、登山に造詣の深い神宮先生が就任し、部員たちは期待に胸を膨らませたに違いない。機関誌『炉辺』を紐解くと、部員会や卒業生送別会のみならず山行にも参加、部員たちに寄り添う神宮部長の姿が読み取れる。神宮部長のニックネームは「苦素」である。その由来は先生が玄米食を食し“1尺くらいのクソが出るのが健康体だ”と部員に話したことから「苦素」と名付けられた。

 記念すべき『炉辺』第1号(1924年12月発行)に、畏れ多くも「クソ」というあだ名で執筆している。それは部員たちに寄り添う気持ちを込め、肩書の「部長」ではなく「クソ」というあだ名をわざわざ使ったのだろう。この記念すべき『炉辺』第1号は、当時の山岳部員の熱い想いが結集し創刊された。それだけに神宮部長が寄稿してくれたことは部員たちを励まし、この寄稿文によって神宮部長と部員たちの距離は一気に縮まり、結束を強める機会となった。

機関誌『炉辺』1号に掲載された神宮部長の寄稿文

 この当時、山岳部員であった三木文雄は神宮部長について「予科1年の時から神宮教授のドイツ語と哲学概論の講義を受けた。先生から時々、山の話を聞き興味を覚える様になった。ことに先生は山岳宗教に詳しいので、修験道の話、山伏の服装等についても伺いました。外国の山、日本の山、山伏の話、山の道、登山者の心得、特に自然を守るように、危険防止の話等を聞きました。独語、哲学の授業の5分程の間に外国の山行の話も聞きました。度々お宅へも伺いました」と述懐している。

独習ラテン語の研究の書影。画像出典: Amazon 独習ラテン語の研究 神宮徳寿 郁文堂

 登山以外に山岳宗教や修験道の話をしたことは、神官であった父君の影響があり、一時、御嶽教(みたけきょう)の管長も務めた神宮部長の生い立ちを知ることができる。日本山岳会の機関誌『山岳』を調べると、神宮先生は日本山岳会の小集会に何度か出席している。山岳部長に就任する前の1923(同12)年11月11日に開かれた日本山岳会の「臨時茶話会」に、当時、山岳部のリーダー的存在であった馬場忠三郎(大正11~昭和2年)が神宮部長と一緒に同席している。おそらく予科講師の神宮先生は、予科生で山岳部を立ち上げた馬場のことを知り、登山の視野を広げてもらおうと馬場を誘ったのだろう。

 1926(同15)年6月9日、山岳部卒業生のOBで組織する「炉辺会」の発足式が催された。前月に退任したばかりの神宮先生が初代会長に就く。現役の部員ばかりでなく卒業生から、いかに敬愛されていたかがうかがえる。神宮徳壽部長は哲学的な論理で山岳論を説き、登山に励む多くの部員たちの羅針盤となって導いてくれた。

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