特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

『伝統は尊い、伝統を継ぐものはなお尊い』明大山岳部と泉靖一の歩んだ道

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泉 靖一の肖像。画像出典:読売新聞オンライン

– 大学山岳部出身の先生が、縁あって山岳部長に着任-

 戦後復興が動き出した1949(昭和24)年、大学山岳部出身の部長先生が、明大山岳部に初めて着任した。泉靖一(いずみ せいいち)先生は小学生のとき、父君の泉哲教授が明大から朝鮮の京城帝国大学へ転任することに伴い、京城の小学校に転校する。京城中学校(旧制)に進学すると、朝鮮にある山々に登り始め、1931(昭和6)年夏に毘慮峰を制覇、翌年12月には毘慮峰の冬期登攀に成功する。

 1933(同8)年3月に中学校を卒業し、4月に父親が教鞭を執る京城帝国大学予科に入学する。泉青年は設立されたばかりの「京城帝国大学スキー山岳会」に入り、登山に熱中する日々を送る。冠帽連山に始まり赴戦高原・遮日峰(2506m)の冬期登攀、1934(同9)年3月には、朝鮮最高峰の冠帽峰(2541m)の積雪期登攀を果たす。翌年4月には京城帝大の法文学部国語国文学科に進学し、ここで学友会山岳部の設立に関わる。このころの泉青年は、学校へ行っても山岳部の部室に入り浸る日々が多かったという。

 こうした登山活動の一方で、高橋文太郎OBのマタギ研究に影響を受けた泉青年は、朝鮮半島の火田民やオロチョン族の調査に励む。朝鮮で登山や民族調査に没頭する泉青年は、大学を卒業し4年間の兵役を経た後、1942(同17)年1月に京城帝大の理学部助手となるが、朝鮮半島にも戦争の暗雲が覆い始めていた。

 戦後、1945(同20)年12月に引き揚げてきた泉先生は、1948(同23)年4月に縁あって本学政経学部の非常勤講師となる。この年の9月に政経学部の専任講師、翌年4月には政経学部助教授となり、同時に山岳部の部長に就任する。この経緯について前任の小島先生は―「京城大学助教授をしていた泉靖一兄が朝鮮から引揚げてきたので、政経学部の講義を持って貰うことにした。靖一兄が生まれたときから知っていたが、温厚な泉哲先生の子に似ず、なかなか積極的で、聞けば京城大学学生時代から登山が好きで、朝鮮半島の高山名山には殆んど登らぬところはないという。早速、山岳部長になってくれと云ったら、二つ返事で承諾してくれて、私の短い山岳部長時代は終わりを告げたのであるが、その泉君も東大教授に移ったので、部長時代はそう長くはなかったように思う」と述懐している。当時、山岳部長に就いた泉先生は34歳、小島先生は56歳で、父親的な部長から兄貴分的な部長にバトンタッチされたことになる。

 泉先生と明大山岳部の出会いは、実は山岳部長としてではなかった。先生は小学生のころ、明大山岳部の高橋文太郎とすでに出会っていた。実は泉哲先生のご家族は、高橋邸内の一軒家に住んでいた。まだ小さかった泉先生は、登山から行き帰りする高橋の姿に興味を抱いたという。泉少年は、高橋の登山と民俗調査に大きな影響を受けることになる。その高橋が在籍した明大山岳部の部長に就くとは、本人も運命的なものを感じ取ったに違いない。ここで泉部長の退任年月に触れておく。著書『遥かな山やま』の中で、「明大山岳部長を1949年から2年間つとめた」と書いている。しかし、「年報」第2号に寄稿したのは“1953年7月10日”の日付で、山岳部長名である。おそらく泉先生が実質的に山岳部長として深く関わったのは、就任してから2年間の1951(同26)年ごろまでと思われる。泉先生は1951(同26)年4月に政経学部教授となり、同年11月、東京大学助教授に迎えられ、人類学専門の東洋文化研究所に着任する。先生が東大に移られても明治大学は政経学部の終身講師として残し、後任が見付かるまで名前だけの山岳部長を続けたのではないかと推測する。

 泉先生はユネスコの調査と研究に携わり、1952(同27)年以降は在外研究のため海外渡航が多くなる。そのため山岳部の面倒を見ることができなくなり、このころから後任の山岳部長を大学にお願いしていたのだろう。一方で『炉辺』第7号(1962年3月発行)の「部日誌-昭和27年度」に「6月28日三輪邸にて泉靖一部長送別会」という記述がある。そこで、泉先生の山岳部長在任期間は、1953(同28)年3月までの4年間とした。

 当時のリーダー平野清茂は、泉靖一部長の思い出を「山岳部生活の中で、われわれに影響を与えたのが部長の泉靖一先生であった。先生は京城帝大山岳部の厳冬期白頭山遠征やタクラマカン砂漠にあこがれて、ご子息に『タクラ』と名付けられた話などを聞かせてくれ、これは若い2人の心を少なからず刺激した。冬の寒い一日、先生は2人を新宿の屋台へ連れて行かれ、カストリ焼酎に酔って『君たち、酒を飲まずして人生を語れるか』と言っておられたのも、いま振り返るとなつかしい限りである。(中略)— 経済的な苦境が続き、2人揃って山行に参加できず、リーダーとして資格がない、責任が持てないと悩み、幾度か退部を考えたが、その都度、泉靖一先生は『伝統は尊い。伝統を継ぐものは、なお尊い』という言葉で勇気づけられた」と書いている。酒を酌み交わしながら本音を聞こうと、酒好きな先生は平野と永井拓治の同期2人を屋台に誘ってくれた。部長と部員というより、まるで兄と弟という関係を彷彿させるひとコマである。

 1970(同45)年11月15日、泉靖一先生は脳出血で急死する。55歳と5ヶ月、余りにも早い旅立ちであった。

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