特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

故 石島 修一(昭和43年入部)

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基本情報

遭難発生日1971(昭和46)年 9 月 26 日
山行計画第 2 次夏山合宿(上級生強化、穂高岳・涸沢定着)
遭難場所北穂高岳・滝谷第 4 尾根(墜落死)
山行メンバーCL=石島修一( 4 年)、部員=河野照行(昭和44年入部 3 年)、佐々木洋一(同44年入部 3 年)
林直記(同45年入部 2 年)、梶川清(同45年入部 2 年)、増戸清隆(同45年入部 2 年)計6名
同行OB=菅沢豊蔵(同40年卒)、長谷川良典(同44年卒)

遭難概要

 上級生の岩壁登攀技術を高めるため、夏山合宿を終えてから穂高の涸沢において第2次合宿が実施された。石島修一をリーダーに3年・2年部員合わせ6名は9月23日、涸沢に入った。翌日は朝から雨模様となり停滞。25日は好天となり涸沢を出発、「松高ルート」、「北条・新村ルート」、「甲南ルート」の3隊に分かれ、それぞれ4峰正面壁を登攀した。

 翌26日は曇り空で、岩壁登攀の第2ラウンドに挑んだ。朝5時に出発、7時前に松濤岩に着いた。ここから「クラック尾根隊」に林、長谷川OBパーティ、「第3尾根・ドーム中央稜隊」に河野、増戸、菅沢OBパーティ、そして、「第4尾根隊」に石島、梶川のパーティが挑み、3隊がそれぞれのルート登攀に向かった。

 「第4尾根隊」と「第3尾根・ドーム中央稜隊」はC沢左俣を下り、出合まで一緒に行く。別れてから「第4尾根隊」の石島と梶川はスノーコルまで登り、ここで登攀の準備をする。梶川がトップで30mをコンティニュアスで登り、Aカンテ、Bカンテはスタカットで快適に登る。Bカンテを登り切った台地で、石島は笠ヶ岳をバックに写真を撮る。

 このころより滝谷に少しガスが湧き始めた。「第3尾根隊」のメンバーにコールを掛け合いながら、梶川が再びトップで登り始める。ピナクルを越え、ツルムの下で2人はフランスパンを半分ずつ食べる。このころから雨が少し降り始める空模様となる。

 食べ終えてから登攀を再開する。ツルムから15mほどアプザイレンし、Dカンテ下部に着く。Dカンテは石島がトップで登り始めたが、雨のため岩が滑るので慎重に登った。このDカンテを2人は難なく登攀し、上の台地に着いた。

 ここで第4尾根の核心部を終了したので、登攀具類をすべてサブザックに納め、ヘルメットを着けたまま梶川、石島の順で縦走路を目指した。

 しばらく登り続けて、縦走路直下約20mの地点に達したとき、「ゴロッ!」という落石みたいな音がしたので梶川が後ろを振り向くと、石島がひと抱えもある岩をつかんだ状態で落ちていった。一瞬、石島がその岩を離して右の方へ避けようとした感じだったが、逃げ切れずそのまま堕ち、D沢の方へ消えてしまった。

 石島の突然の墜落に驚いた梶川は、我に返ってから縦走路の稜線にいた2名の登山者に、松濤岩にいる明大山岳部パーティに墜落事故の連絡を頼んだ。この後、梶川は独りでD沢の上部まで下り、何回もコールを掛けたが応答がなく、すぐ稜線まで引き返し、松濤岩にいる長谷川OBに石島の墜落事故を連絡した。

 直接の原因はホールドに使った岩が浮き石で、それを掴まえて墜落してしまったこと。石島たちは第4尾根の核心部登攀を終え、稜線まで後わずかという場所だった。どこかに安堵感があったのか、ほんの気の緩みが死を招いてしまった。

 石島の墜落事故は戦前、マチガ沢で墜落死した人見卯八郎と酷似している。矢沢剛の雷鳥沢遭難以来12年ぶりとなった遭難は、この後、連続遭難という最悪の事態を招いてしまう。

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