フランス文化に造詣が深く、海外山岳書をはじめフランス書籍の翻訳、また、自らも執筆する飯田年穂(いいだ としほ)先生が山岳部長に就く。飯田部長は1948(昭和23年)東京生まれで、戦後生まれの先生が初めて山岳部長に就いた。飯田先生は1971(昭和46年)6月、国際基督教大学教養学部人文科学科を卒業、1977(昭和52年)に東京大学大学院博士課程(比較文化専攻)を終え、明治大学政治経済学部の専任講師となる。そして、助教授を経て1986(昭和61年)4月、政治経済学部教授に就いた。
飯田先生は1991(平成3年)3月から2年間、明治大学から在外研究の使命を受けフランスに渡る。グルノーブル大学で研究する合間にモン・ブラン、ラ・メイジュ、エギーユ・デュ・ミディ南壁などを登攀する。帰国後も毎シーズン、アルプスを訪れては多くのルートに挑んだ。2003(平成15年)夏、ヴァルテル・ボナッティの翻訳に際し彼の足跡をたどろうと、グラン・カピュサン(3838m)東壁のスイス・ルートをシャモニのガイドと登攀するなど、まさに“クライマー教授”そのものだった。
こうして本場アルプスでクライミングを積んだ飯田先生は、2005(平成17年)4月、小疇尚先生の後任として山岳部長に就任する。この当時、山岳部と炉辺会は一大イベントの「ドリーム・プロジェクト計画」が完結したときだった。この年、加藤慶信は北稜から無酸素でチョモランマに登頂。翌2006(平成18年)には「明治大学チョー・オユー、シシャパンマ登山隊」が出発、加藤慶信と天野和明の2人は、ノーマル・ルートからチョー・オユー(8201m)、続けて北壁からシシャパンマ(8013m)と、アルパイン・スタイルで8000m峰の連続登頂に成功する。このころヒマラヤへの挑戦は途切れることなく続いた。
こうした華々しい海外登山がある一方、足元の山岳部は部員の少数傾向が続き、それをサポートする若手コーチの負担は増すばかりであった。部長に就任して2年目、悲報がもたらされた。炉辺会のホープであった加藤慶信が2008(平成20年)10月、中国・チベット自治区にあるクーラ・カンリで雪崩に巻き込まれ亡くなってしまった(岳友たちの墓銘碑 – 故 加藤 慶信)。翌2009年6月20日から、故人の故郷にある南アルプス芦安山岳館で、「天空の頂をめざして―加藤慶信追悼展」が開催された。この追悼展のオープニング・セレモニーに飯田部長が出席し、山岳部を代表して故人の偉業を紹介した。
2010(平成22年)年度になると、これまでの「スポーツAO入学試験」と「公募制スポーツ特別入学試験」が一本化され、新たに「スポーツ特別入学試験」がスタートする。この制度により山岳部は毎年2名の枠が設けられた。
そうしたなか、2011(平成23年)に本学創立130周年、翌年には山岳部創部90周年を迎えることから、学生主体の「明治大学マッキンリー(現・デナリ)登山隊2011」派遣が決まる。学生部員の海外登山は1995(平成7年)のガングスタン遠征以来16年振りで、飯田部長のご尽力によって本学創立130周年スポーツ記念事業となり、実現する運びとなった。2019(平成31年)3月に山岳部長を退任した飯田年穂先生には、在任期間14年と長きにわたりお世話いただいた。退任挨拶の中で「在任中、命に関わる遭難事故が起きなかったことにホッとしている」と、胸の内を語った言葉に少し慰められた。
自らロッククライミングを実践する飯田年穂先生から薫陶を受けた多くの部員たちは、登山界並びに社会で今幅広く活躍している。