活動期間 | 1965(昭和40)年 2 月 〜 3 月 |
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目的 | ネパール地域経済の学術調査関係の資料収集と今後の調査準備。 |
調査隊構成 | 調査隊長=渡辺操(山岳部長・文学部教授) 以上 1 名 |
解説
山岳部、炉辺会としてヒマラヤへの初挑戦となるゴジュンバ・カン遠征計画は、マッキンリー同様、山岳部長の渡辺操先生がサポートしてくれた。大学からの助成をはじめ外貨およびパスポート取得の便宜を図るため“学術調査”を冠に付けてくれた。
タイミングとしては大学創立85周年に当たるが、 80周年のアラスカ学術調査団のような大掛かりなプランは無理となる。それでも渡辺部長は計画推進のため、敢えて学内に「明治大学ネパール・ヒマラヤ学術調査委員会」を設け、遠征隊を送り出す組織を作り、バックアップしてくれた。
【明治大学ネパール・ヒマラヤ学術調査委員会】
委員長 | 渡辺操(山岳部長・文学部教授) |
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委 員 | 岡正雄(政経学部教授・アラスカ学術調査団) 泉 靖一(元山岳部長・本学兼任教授) 交野武一(山岳部OB・炉辺会長・昭和 8 年卒・マッキンリー登山隊隊長) 後藤大策(山岳部OB・昭和16年卒) 大塚博美(山岳部OB・昭和23年卒) |
当初の計画ではドゥド・コシおよびイムジャ・コーラ奥地を探査し、地理学、考古学、民俗学等の学術研究というアドバルーンが上げられた。委員構成からも分かるように、アラスカ学術調査委員会の半分の人数で構成され、しかも岡正雄教授を除くと山岳部、炉辺会関係者で占められている。この組織を見ると、渡辺部長の配慮が見え隠れする。
そうしたところ64(同39)年 4 月 1 日から海外渡航が自由化され、外貨獲得の障壁は低くなる。それでも初のヒマラヤ遠征には多額の費用がかかり、大学側からの援助は欠かせないと、“学術調査”の看板を降ろさず実施に踏み切ったようだ。しかし、大学側からの補助金は、学術調査の弱さが見透かされたのか低い金額に抑え込まれてしまう。
この件に関して「明治大学新聞」1063号のコラムに次のような批評が載っている。
(前略)世界の屋根・ヒマラヤが明大マンによって征服された――実に愉快である。また学外の反響に接するたびに、大いに誇らかな気持になる。この反響の大きさは明大ばかりでなく、日本の業績の一つであることを誰もが知っている証左でもある。だが、それにつけても残念なのは今回の遠征に法人からは雀の涙ほどしか補助金が出ていないことである。
確かにこれは山岳部独自で計画し、山岳部のみで隊員を構成したものであり、アラスカ調査団のときとは事情が違う。カネを出すいわれはないと言下に斥けられるかもしれない。だが、登頂成功の反響はかくも甚大で、明大生は皆誇らしくて仕方ないのである。
たかが山登りではない。また、一運動部の活動でもない。山登りにカネを出してやるより、他にも使いたいところがたくさんあると言うだろうが、カネで買えないものにカネを出すことこそ、有効ではなかろうか。この種の計画で一番辛いのが帰ってからの借金である。そういう苦労をさせなくて済むなら、そうしてやりたい。まして町の山岳会ではない。よく言う“天下”の明治の山岳部ではないか。考えてほしいところだ。
とあり、「ネパール・ヒマラヤ学術調査隊」と銘打ったものの少ない助成金となり、登山隊側から見れば期待外れに終わったことは否めない。渡辺部長先生は60(同35)年 2 月11日、羽田空港を出発、カルカッタ(現・コルカタ)で登山先発隊の藤田佳宏たちと合流する。
2 日間インドを視察し、13日、空路カトマンズに入る。登山隊の出発準備が整ってから、部長は16日にカトマンズを離れ、ひと足先に帰国する。おそらく大学側からの助成金が少なかったことから、登山隊の経費に迷惑かけないよう、最低限の滞在にしたのではないかと思えてならない。渡辺部長の配慮、心遣いに心が痛む。
インド、ネパール滞在が 1 週間にも満たない短い期間であったが、この「ネパール・ヒマラヤ学術調査委員会」の委員長に就いた渡辺部長は、地域経済の専門分野として農村社会を視察して回った。残念ながら調査関連の資料は少ないが、高橋進が編集した『登頂ゴジュンバ・カン』に、渡辺部長は「学術調査に寄せて」の一文を寄せる。
登山隊名に“学術調査”の冠が付くのは、このネパール・ヒマラヤ学術調査が最後となる。この後、数々の遠征隊がヒマラヤの高峰を目指していくが、学術調査は登山隊と連携しながら続いていく。
- 高橋進編『登頂ゴジュンバ・カン』(茗渓堂、1967年 9 月発行)渡辺操「学術調査に寄せて」