特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

高橋文太郎(昭和2年卒)- 習俗や伝承を調べた孤高の民俗学者

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 高橋文太郎は登山に打ち込む一方、機関誌『炉辺』の発行や執筆で多彩な才能を発揮し、とりわけ戦前まで民俗に関わる執筆の旺盛さには驚くばかりである。

 彼の民俗学に関する第1作は、1928年(昭和3年)3月に刊行された民俗雑誌『旅と伝説』に「伝説と歌の黒髪山」と題し発表した。雑誌の発行年月を見ると、大学を卒業した翌年に発表している。すでに学生時代から民俗学に大きな関心を寄せていたことがうかがえる。

 民俗研究に勤しむ高橋は、『炉辺』第5号(1931年12月発行)に「山と民俗について」を寄稿する。好きな登山から民俗学に進んだ彼は、山村に住む人たちの生活や風習に興味を抱き、調査研究の虜になる。

 彼は1928年から1932年(昭和7年)までの5年間、地元の武蔵野や北多摩郡保谷村周辺に残る習俗や伝承を調べ、研究成果を様々な民俗雑誌に発表する。

 その一方、1931年(昭和6年)ごろから民俗学に傾注する経済人の渋沢敬三氏と親交を深めていく。渋沢氏は独自の民俗研究に情熱を傾ける新進気鋭の高橋に一目置き、やがてふたりは民俗研究で意気投合する。

目次

渋沢敬三氏との共同研究と『山と民俗』

 高橋は渋沢氏との常民研究で、東北の端々から九州の山懐まで足を運んでいる。そして、1933年(昭和8年)に出版された『山と民俗』(山と溪谷社)は、高橋にとって処女作となる。

 渋沢氏は『山と民俗』に序文を寄せる「高橋君は極めて謙虚に、率直に、あせらず、偏狭でなく、妙な競争心もなく、しかも事象については驚くべき正確さをもって認識すると同時に、詩人にも見るような温かいうるおいのある心で山の美、人の姿を深く味わう人である」と高橋の人柄を絶賛している。

 1934年(昭和9年)11月、「日本民族学会」が設立され、高橋は渋沢氏や吉野清人氏たちと会務を担当、人類学界と提携し『民族学年報(民族学研究)』を刊行する。1936年(昭和11年)夏に、高橋は渋沢氏に伴って朝鮮の調査に同行、民俗研究の領域は国外まで広がる。この調査行の帰り、渋沢氏は京城帝大生の泉靖一青年と面会する。

 渋沢は朝鮮のオロチョン族の研究成果をまとめた泉を激励、『民族学研究』に発表するよう助言している(「山岳部長史」参照)。この年に発行された『炉辺』第6号(1936年9月発行)に、高橋は「山案内職について」を寄稿、彼の民俗研究は広さと深みを増していった。

民族学研究所の設立とその後の展開

 1937年(昭和12年)5月、渋沢氏を中心に「民族学研究所」が設立される。当時、高橋家は保谷で屈指の大地主で、素封家であった。

 高橋は保谷村に所有する約1万坪の土地を提供し、敷地内にある家屋2軒を寄贈。そのうち2階建ての建物は、日本民族学会の事務所兼付属研究所となり、もう一つの平屋の建物には、アチック・ミューゼアムの収蔵品2万点余りが三田の渋沢邸から移管され、研究所付属の民族学博物館となった。

 渋沢氏念願の博物館は1939年(昭和14年)5月、草深い保谷に開館し、日曜日は一般にも公開された。そうした1938年(昭和13年)、高橋は民俗を主とする山村の思索を綴った『山の人達』を世に送る。

『山の人達』の書影

 ところが、渋沢氏と高橋文太郎の間に研究手法や運営方法に対立が生じ、ふたりの仲は一挙に冷え、破局を迎えてしまう。当時、渋沢氏は42歳、高橋は35歳と分別のない年齢ではなかったが、1940年(昭和15年)1月、高橋は民族博物館の所員も辞し、民族学研究所とも疎遠になってしまう。渋沢氏との決別は民俗学界における高橋の足場を失うことにつながり、高橋の胸中を察すれば複雑だったに違いない。

高橋文太郎の晩年とその影響

 それでも高橋は、孤軍奮闘するかのように独自の民俗研究に勤しんだ。1942年(昭和17年)5月、日本常民文化研究所から『輪樏(わかんじき)』を出版する。また、翌年には名著『山と人と生活』を出版し、“高橋民俗学”は開花していった。しかし、世の中は暗い戦争に突入してしまう。そして、戦後間もない1948年(昭和23年)11月22日、高橋は病に倒れ45歳の若さでこの世を去ってしまう。

『山と人と生活』の書影

 高橋文太郎から民俗学の影響を受けた人物には、後述する後輩の森谷周野がいるが、もうひとり戦後に山岳部長となった泉靖一先生がいる。彼の父・泉哲氏は明大政経学部の教授で、高橋の恩師であった。

 高橋は自ら編集者となって発行した『炉辺』第3号(1926年12月発行)を泉哲教授に贈呈した。朝鮮の京城帝国大学に進んだ泉靖一青年は、父の書斎にあった『炉辺』や高橋の著書にある「マタギの話」を読み、朝鮮の“火田民”を研究するきっかけとなる。

 泉靖一先生は戦後、ペルー・アンデスなどの遺跡調査に専念するが、こうした調査研究の下地として、高橋から受けた影響は大きかった。

 皮肉にも高橋文太郎が世を去った1948年、彼から多大な影響を受けた泉靖一先生は、高橋が巣立った明大山岳部の部長として就任する。“民俗学”が取り持つ運命的な巡り合わせを感じざるを得ない。

高橋文太郎 民俗関係寄稿および著書一覧

寄稿および著書掲載誌および出版社発行年月日
伝説と歌の黒髪山旅と伝説1-31928(昭和3)年
夏と子供の歌民俗芸術11928(昭和3)年
越後新津の盆踊民俗芸術11928(昭和3)年
武蔵北多摩郡保谷村の魂祭民族学研究3-51928(昭和3)年
信濃小縣の盆踊民俗芸術11928(昭和3)年
祭囃子と面踊り民俗芸術11928(昭和3)年
諸国市日記事(保谷村上保谷の馬かけ市)民族学研究4-11928(昭和3)年
諸国市日記事(武蔵北多摩郡田無の團磨の市)民族学研究4-11928(昭和3)年
武蔵関の嫁市旅と伝説21928(昭和3)年
化け弁天旅と伝説21929(昭和4)年
奥上州戸倉の子供歌民俗芸術21929(昭和4)年
雛様遊びの唄民俗芸術21929(昭和4)年
曲がり松の話その他民族学研究4-31929(昭和4)年
武蔵野の石仏民俗芸術21929(昭和4)年
お松様の話旅と伝説21929(昭和4)年
精神的躍動(第4回郷土舞踊と民謡の会批判)民俗芸術21929(昭和4)年
樹木と天狗の話旅と伝説21929(昭和4)年
六地蔵の縁結び民俗学1-11929(昭和4)年
武蔵の樹木信仰をたづねて旅と伝説21929(昭和4)年
武蔵野の子供(写真2葉の説明)民俗芸術21929(昭和4)年
武蔵野の小祠小社をたづねて(1)山口村大鐘の正観世音旅と伝説31930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記(2)府下練馬町谷戸の日限延命地蔵旅と伝説3-21930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記(3)埼玉県山口村の仏蔵院勝楽寺旅と伝説3-31930(昭和5)年
五郎松の話旅と伝説31930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記(4)高麗村台の瀧不動旅と伝説31930(昭和5)年
寄合咄—-一本杉と山神祠民俗学2-51930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社をたづねて(5)江古田の武蔵野稲荷旅と伝説31930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記膝折のオシャクジ様旅と伝説3-71930(昭和5)年
蛇と蚯蚓の話其他民俗学2-81930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記地福寺の石神旅と伝説31930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記重忠の墓碑と樫旅と伝説3-91930(昭和5)年
老婆から聴採った形容句民俗学2-91930(昭和5)年
武蔵野の小祠小社記旅と伝説31930(昭和5)年
童詞三項郷土研究51931(昭和6)年
嫁入唄郷土研究51931(昭和6)年
武蔵北多摩郡保谷村婚葬習俗民俗学3-61931(昭和6)年
労働唄民俗学3-61931(昭和6)年
東京付近の農具市民俗芸術41931(昭和6)年
利根川上流地方の口碑山と溪谷9号1931年9月1日
山と民俗について炉辺第5号1931年12月15日
山と民俗―その1(山の花摘みに)山と溪谷12号1932年3月1日
山と民俗―その2(アルピニズムとフォークロリズム)山と溪谷14号1932年7月1日
山と民俗―その3(龍石その他)山と溪谷16号1932年11月1火
賽の神と粟棒稗棒その他旅と伝説1932(昭和7)年
伊豆の積石郷土(松本)21932(昭和7)年
武州の鹿子木について飯能町及び青木村郷土研究61932(昭和7)年
植物名方言―武蔵多摩郡保谷村民俗学4-71932(昭和7)年
山の方言採集のために日本山岳会会報「山」26号1933年5月25日
山と民俗駿台新報360号1933年9月16日
雑録:朝日山麓三面村記日本山岳会山岳第28年3号1933年11月28日
南九州の花売り旅と伝説61933(昭和8)年
東紀州「シバタバコ」の話旅と伝説61933(昭和8)年
越後関山村にて俚俗と民譚11933(昭和8)年
大隈国内之浦探訪記民俗学51933(昭和8)年
南薩摩の話と方言民俗学51933(昭和8)年
大隅内之浦にあった話民俗学51933(昭和8)年
鹿児島市にあった話民俗学51933(昭和8)年
誕生習俗―東京府北多摩郡保谷村旅と伝説61933(昭和8)年
山と民俗山と溪谷社1933(昭和8)年
運搬用具の採集―私稿として民俗学51933(昭和8)年
越後粟島採訪録旅と伝説61933(昭和8)年
雪具について:主としてスキー・橇類及びカンジキ民俗学51933(昭和8)年
橇とスキーの原始型二三山と溪谷23号1934年1月1日
ツェルマットの民話山と溪谷25号1934年5月1日
山岳紀行文と民俗山小屋29号1934年6月1日
山と民俗と(上)梓書房山第1巻第6号1934年6月1日
山と民俗と(下)梓書房山第1巻第7号1934年7月1日
島の山と村ケルン14号1934年7月1日
南島に於るコトバの方言その他
日本山岳会
会報「山」37号1934年7月30日
高原の姿・呼名梓書房山第1巻第10号1934年10月1日
再び南島コトバのこと日本山岳会会報「山」39号1934年10月20日
南島飯匙蛇談山と渓谷28号1934年11月1木
ホイトガサのことなど(1)旅と伝説71934(昭和9)年
ホイトガサのことなど(2)旅と伝説71934(昭和9)年
ホイトガサのことなど(3)旅と伝説71934(昭和9)年
奄美十島及び大島に於る民具―主として運搬具と仕様法―旅と伝説71934(昭和9)年
一つの嚢旅と伝説71934(昭和9)年
「後方羊蹄日誌」から梓書房山第2巻第7号1935年7月1日
富士のもつ姿山と溪谷33号1935年9月1日
採集者とふるさと旅と伝説81935(昭和10)年
武蔵保谷村郷土資料アチック・ミューゼアム1935(昭和10)年
アイヌのシュトゥとテシマについて
日本山岳会
会報「山」54号1936年2月29日
ハデ雪のころ梓書房山第3巻第5号1936年5月1日
積雪期における秋田マタギの生活とその印象ケルン37号1936年6月1日
山案内職について炉辺第6号1936年9月5日
或る山々のこと~山の型二つ~山と溪谷40号1936年11月 1 日
「山の神とコダマ鼠の話」解説
日本山岳会
山岳第31年第1号1936年11月20日
輪縲に関して二三旅と伝説91936(昭和11)年
下野古里村に於ける子供組行事民族学研究1936(昭和11)年
熊狩の日記ケルン51号1937年8月1日
東日本に於ける狩猟者とその狩猟~越後・赤谷村探訪を中心として~日本山岳会山岳第32年第1号1937年11月30日
樹木信仰の事例について民族学研究1937(昭和12)年
秋田マタギ資料アチック・ミューゼアム1937(昭和12)年
人の型旅と伝説101937(昭和12)年
人の型と綽名、家名旅と伝説101937(昭和12)年
女神の怒り―外来者の登山ひだびと381937(昭和12)年
シカリアチック・マンスリー1937(昭和12)年
釣師の花輪山と溪谷48号1938年3月1日
伝説取り扱ひについての疑問民間伝承3巻7号1938年3月20日
途上所見(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)旅と伝説111938(昭和13)年
会津の木地屋部落旅と伝説111938(昭和13)年
途上所見(8)(9)(10)(11)旅と伝説111938(昭和13)年
山の人達龍星閣1938年8月20日
ナマハゲを観る日本民族学会学報Ⅶ1938(昭和13)年
雪崩の方言分布について民族学研究1938(昭和13)年
山岳語彙蒐集について(1)日本山岳会山岳第33年第1号1938年9月30日
山岳語彙蒐集について日本山岳会会報「山」83号1938年12月26日
ナマハゲのくる冬山と溪谷54号1939年3月1日
木地屋文書並びに工具民族学研究1939(昭和14)年
奥美濃の民俗旅と伝説131940(昭和15)年
「山の民俗」要目旅と伝説131940(昭和15)年
景鶴山山名再考山と溪谷70号1941年11月1土
男鹿のナマハゲ旅と伝説1941(昭和16)年
採集余談民間伝承6巻11号1941年8月1日
春山に於ける狩人の営み―狩法・登高法・露営法山と溪谷72号1942年3月1日
山と地形のことば(1)(2)(3)(4)(5)旅と伝説1942(昭和17)年
輪樏(わかんじき)日本常民文化研究所アチック・ミューゼアム1942年5月20日
山と人と生活金星社1943年8月20日
鳥海のふもと山と溪谷81号1943年9月1日
盆さまと年の神旅と伝説1943(昭和18)年
輪縲の古語民間伝承9巻5号1943年10月30日
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