特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

アラスカ地域総合学術調査団(1960) – 明治大学創立80周年記念

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活動期間1960(昭和35)年 3 月 〜 7 月
目的日本初期の先史文化とアラスカ地域の先史文化との関連を明らかにし、現存するエスキモーおよびインディアンを包含する原住民文化の起源を探り、その実態を解明する。また、これらの諸文化を育てたアラスカ地域の生活環境とその変化を究明するため、マッキンリー山地の氷河地形、山地地形、北極海およびベーリング海沿岸地形、並びに土地利用に関する調査研究を行う。
調査団の構成団  長=渡辺操(山岳部長・文学部教授・地理学班長)地理学班=渡辺操、松田孝(文学部助教授・地理学)、鍛冶晃三(国土地理院技官) 以上 3 名

考古学班=杉原荘介(班長・文学部教授)、戸沢充則(大学講師)、岡田宏明(考古学陳列館嘱託)、別府春海(ウィスコンシン大学)  山岳部員:東真人(昭和36年卒)、小林孝次(同36年卒)以上6名

民族学班=岡正雄(班長・政経学部教授)、祖父江孝男(政経学部講師)
以上 2 名

計11名
報  道  班=片柳英司(読売新聞社・社会部員)、鈴木金次郎(読売新聞社・写真部員)、高木真(日本テレビ・映画部員)、松田忠彦(東映撮影技師)、高橋宏(東映撮影技師)  以上 5 名
目次

解説

 大学創立80周年の記念事業としてマッキンリー(現・デナリ)遠征が計画された1950(昭和30)年代の半ばは、海外に出掛けるのに必要な外貨を得るのが至難の時代であった。

 当時、山岳部長であった渡辺操先生は、山岳部念願の戦後初めての海外遠征を実現させるため、山岳班を包括する地理学班、民族学班、そして、考古学班から構成する「アラスカ地域総合学術調査」プランを立案、大学側へ申請した。

 その結果、この学術調査は記念事業にふさわしいと大学側から認められ、59(同34)年 7 月、「アラスカ地域総合学術調査企画委員会」が発足する。

 このアラスカ学術調査の発端について、団長を務めた山岳部長の渡辺操先生は、「アラスカは極地から亜極地に連なる地域に位置し、その北部は氷雪とツンドラの荒地であり、南東部はフィヨルドと原始林の土地である。多くの開発の可能性をもつ自然資源とアメリカ原住民の生活史は、固く凍土に埋蔵され、経済的開発と学術的発掘の鍬を待つこと、すでに久しい土地であった。 しかもこの開発や発掘の仕事は、わが国にとっても決して無縁なものではなく、むしろ近年にいたり、わが国学界の積極的参加の必要が、ますます要望されるに至っている。本大学はこの要望にこたえ、80周年記念事業の一つとして調査団を派遣することに決し、 」と報告書の“まえがき”に書き留めている。アラスカという未開の地に眠る自然や資源をはじめ、アメリカ原住民と日本列島先史文化との関係、さらに戦後復興しつつある日本との経済関係など、幅広い調査が組み込まれた。

 そこで調査団は「山岳班」を除いて目的別に「地理学班」「民族学班」「考古学班」の 3 班に分かれ、それぞれの分野で調査活動することになる。「地理学班」はアンカレジ周辺、マタヌスカ河谷、ジュノー周辺、ノームなどでアラスカの資源分布や人口構成、また、産業開発状況等について調査を行った。

 「民族学班」は南東アラスカのケチカン、ヘインズ、シトカ地域で北西インディアンの民族学的実態調査を行い、さらにアナドブック・パスに入り、内陸エスキモーの社会構造や文化について実態を調査、その後、ポイント・バロー、ポイント・ホープ、シシマレーフ等で海岸エスキモーの調査に当たった。

 一方、「考古学班」は発掘作業の準備を整え、空路アリューシャン列島のポート・モーラーに入り、その周辺にあるホットスプリング貝塚の発掘調査を行った。その結果、人骨 4 体をはじめ石器や骨角器など約600点を発掘した。

 このとき登山隊員の東真人(文学部)と小林孝次(工学部)の学生 2 人は、登山終了後「考古学班」に合流し、貝塚発掘などの力仕事に従事した。このうち「民族学班」のアラスカ調査は、 2 年後の62(同37)年に第 2 次調査に向かい、また、67(同42)年にはネルソン島で暮らすエスキモー民族の集団調査を行う第 3 次調査へと継続、アラスカの文化と歴史を研究する一翼を担った。

参考文献
  • 『岩と雪』  6  号(1959年11月発行)大塚博美「アラスカの地域における学術調査並びにマッキンレー山群登山計画」
  • 『地理学理論』33巻11号(1960年発行)渡辺操「アラスカ調査報告」明治大学アラスカ学術調査企画委員会
  • 『創立80周年記念アラスカ学術調査団報告書』(1960年11月発行)
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