特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

赤松威善(昭和35年卒)- 山岳映像撮影で奮闘した名カメラマン

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 テレビが家庭に普及するまで、「映画」は一般庶民の娯楽の中心であった。学生時代から映画に興味があった赤松威善は、映画製作に携わることを夢見ていた。

 映画のカメラマンを目指した彼は、劇場映画から記録映像のカメラマンに転向する。 初めはドキュメンタリー作品の撮影が多かったが、やがて映画会社やテレビ局の契約カメラマンとして登山隊に同行する機会を得る。

 山岳専門カメラマンとしてのデビュー作は、1970(昭和45)年の山学同志会・冬期アイガー北壁直登隊(隊長:遠藤二郎)である。赤松は日本テレビ(NTV)の契約ディレクター兼カメラマンとして、難壁で苦闘する直登隊を16㎜カメラで撮影した。

 下部岩壁では赤松がカメラを回したが、上部は隊長や隊員に撮影を依頼した。ところが、この登攀は悪天候が続いて長期化し、NTVからの映像の催促に悩まされた。核心部の第 2 氷田を抜ける登攀はヘリコプターから撮影したが、最終アタックは天候が悪く、ヘリは飛ばなかった。赤松は40日間にわたる厳冬期登攀での撮影で様々な経験を積み、山での撮影に手ごたえを感じた。この経験は、9年後のグランド・ジョラス北壁に活かされる。

 次は3年後の1973(同48)年、ポスト・モンスーンの世界最高峰に挑む「日本エベレスト登山隊」(隊長:水野祥太郎)となる。この隊は南東稜からサポートし、未踏の南壁(南西壁)から初登頂を目指した。

 この登山隊に、テレビ局の撮影スタッフ合わせ5名の報道班が同行する。赤松(当時37歳)はテレビ・クルーの一員(TBS契約カメラマン)として参加、高度6500mからは酸素マスクを着けカメラを回した。しかし、期待した南壁撮影は登山断念で実らなかった。

 それから2年後の1975(同50)年、彼に再びエベレストに向かうチャンスが訪れる。女性初の世界最高峰を目指す「日本女子エベレスト登山隊」(隊長:久野英子)である。読売新聞社とNTVが後援する登山隊に7名の報道班が同行、赤松はNTVの契約カメラマンとして加わる。

 登山隊がウェスタン・クウムに建設した第2キャンプ(6400m)に入った5月4日午前零時30分、突然、ヌプツェの斜面から雪崩が襲った。飛んで来たアイス・ブロックで報道班のテントは潰されたが、テント内にいた読売新聞記者の江本嘉伸、カメラマンの北川、そして赤松の3名は、かろうじて助かった。

 エベレストから戻った赤松は、一転して現場が海洋の記録映画撮影に向かう。1975年7月20日から、沖縄の本土復帰を記念する「沖縄国際海洋博覧会」が開催される。この事業の一環として、数千㎞を航海する小さなカヌー「チェチェメニ号」をカメラで追った。『チェチェメニ号の冒険』という記録映画は、のちに沖縄博覧会の会場で上映された。

 1977(同52)年8月、日本山岳協会が派遣する「日本K2登山隊1977」(隊長:新貝勲)の映画撮影のチャンスが舞い込み、赤松は再び白い雪と氷の世界に戻る。世界第2位の高峰K2(8611m)に日本人が初めて登頂するまでを、北斗映画プロダクションが企画・製作、撮影班に監督の門田龍太郎(41歳)はじめ、カメラマンに赤松(当時44歳)ほか阿久津悦夫(45歳)など7名が選ばれた。

 撮影するカメラマンたちの苦労は、並大抵ではなかった。とりわけ標高8000m以上に35㎜カメラを設置するという、当時としては世界初の試みで撮影された。第2次アタック隊がファイナル・ピークに向かったとき、撮影班の門田と赤松は、林原隆二、丹生統司両隊員にサポートされC4(7460m)からC5(7920m)に入る。40歳を過ぎた赤松は、C6(8130m)まで往復する働きを示した。こうして長編記録映画『白き氷河の果てに』(配給:東宝東和)は、1978(同53)年6月に一般公開された。

 K2から戻った赤松は山岳映画の手腕を買われ、北斗映画プロダクションに移る。1979(同54)年初頭、当時屈強のアルピニストとして名を馳せる長谷川恒男氏が、アルプス三大北壁の中で最も困難なグランド・ジョラス北壁に、冬期単独登攀を試みることになった。

 長谷川氏はマッターホルン北壁、アイガー北壁の冬期単独初登攀に成功、残るはグランド・ジョラス北壁だけとなり、日本はもちろん世界からも注目された。こうした三大北壁の冬期単独初制覇が成るかという挑戦に映画撮影のプランが浮上、話題性が高いことから映画化が決まる。この映画はK2のような大登山隊とは異なり、苛酷な北壁をたった独りで登攀する別世界の撮影となる。

 1979年2月、長谷川氏は映画撮影隊を従え麓のシャモニに入った。2月25日から北壁(ウォーカー側稜)に取り付き、最難関と言われる北壁をたった独りで登り始める。赤松を含む5人のカメラマンたちは、麓や対岸の山から望遠レンズで彼を追った。3月4日午前10時30分、長谷川氏は174時間にわたる激闘の末、グランド・ジョラス北壁を制覇、ウォーカー・ピーク(4208m)の頂に立った。

 最後の登頂の瞬間は、上空を飛ぶヘリコプターから撮影された。赤松は単調な岩壁登攀の撮影アングルに苦労するが、難易度が高い北壁を登攀する長谷川氏の一挙手一投足を逃すまいと、必死でカメラを回した。映画『北壁に舞う』は日本ヘラルドが配給元となり、一般公開された。

 翌1980(同55)年2月、赤松は朝日放送のテレビ番組で皆既日食を撮影するため、後輩の水戸守巌(昭和37年卒)を助手にキリマンジャロ(5895m)に登る。赤道付近が撮影ポイントになり、アフリカ最高峰から皆既日食を狙った。

 こうして数々の登山撮影で手腕を発揮した赤松は、自分が巣立った明大山岳部のエベレスト遠征(1981年)のとき、映像制作の企画を持ち込んだ。それは「エベレスト8848m」という企画書で、16㎜カメラで撮影した映像をテレビ局で放送するというものだった。とくに西稜ルートからということで、斬新なアングルで世界最高峰を撮影できるとアピールしたが、残念ながらこのテレビ企画は実らなかった。

 赤松威善は、駆け出しのときからフリーの契約カメラマンという、下積みの時代が続いた。そこでカメラワークの腕を磨き、さらに山岳部出身という登山経験が買われ、山岳撮影のプロ・カメラマンとして揺るぎない地位を築いていった。

 身を削りながら撮影した山岳映像の数々は、多くの人々に感動と勇気を与えた。そのいずれの作品にも、ファインダーから狙い続けた彼の熱い想いが映し出されている。

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