特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

赤星 昌(昭和7年卒)- 屋久島の自然保護を訴えた熱血漢

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 赤星昌は1904(明治37)年鹿児島市に生まれた。明大商学部に入学し、昭和の初め、発展期を迎える山岳部に籍を置いた。山岳部での渾名は「ダルさん」。戦後の1947(昭和22)年、彼は鹿児島県山岳連盟の創立に関わる。理事長を経て連盟会長を23年間務め、文字どおり鹿児島県山岳連盟の〝生みの親、育ての親〟となる。やがて赤星は、屋久島の豊かな自然に強く惹き付けられていく。その屋久島は植生が垂直に分布する自然豊かな島で、まさに“洋上アルプス”と呼ぶにふさわしい島だ。

 ところが、戦後の復興期になると、樹齢1000年以上の「屋久杉」の巨木は残されたが、400年以下の「小杉」は屋久杉でないと見なされ、1955(昭和30)年ごろからチェーンソーが導入されると、大々的に伐採されていった。こうした貴重な屋久杉の伐採を目の当たりにした赤星は、自身の五臓六腑に深々とメスを入れられるのと同じ行為だと憤る。やがて鹿児島県自然愛護協会の事務局長に就いた彼は、屋久杉保存に本腰を入れ、保護運動に立ち向かっていく。

 屋久島の自然保護の陳情で飛び回る赤星について、先輩の交野武一(昭和8年卒)は「屋久杉保存のことで林野長官に抗議しに行く時に同行した。ダルさんの直入型で屋久杉造材の非をなじる。林野長官が『造材の後は、すぐに屋久杉の幼苗を植えている』。すると赤星さんが『君は千年生きるつもりか』、こんなやり取りだった」と書き留めている。屋久島の自然を守るのが“天命”と自らに課し、屋久島を全力で守る努力を惜しまなかった。

 そうした赤星は、古の自然が残る屋久島を広めようと1968(昭和43)年、『屋久島~美しい豊かな自然』(茗渓堂)を世に送る。出版に当たって、当時の日本登山界を代表する槇有恒氏が「屋久島の思い出」を寄稿、また、松方三郎氏は序文を寄せた。とりわけ松方氏は屋久杉伐採に心痛め、赤星から詳細な資料と報告を受け、伐採中止に協力してくれた。

 この赤星の出版に、山岳部の交野武一と後輩の広羽清(昭和23年卒)は、一方ならぬ協力を惜しまなかった。「あとがき」に――「今、私が一番願っていますことは、この本を携えて、交野、坂本(出版元の茗渓堂店主・坂本矩祥氏)、広羽君と一緒に、南の美しい屋久島の自然の中を歩きますこと。このたびの苦労をホーッと吐き出しましたら、どんなにせいせいした、いい気持ちになることでしょう。そのことのみです。屋久島は、この本にあるより、はるかに自然の豊かな、はるかに興味のある島であります。この本がもととなって、屋久島が、さらによりよく紹介される本の出来ることを、心から願っています」と結んだ。

 屋久杉の保存に取り組んでいた赤星に、その努力が報われるときが訪れる。1975(昭和50)年5月17日、自然環境保全法に基づいて、屋久島がいち早く「原生自然環境保全地域」に指定された。スギを主とする温帯針葉樹林と、イスノキやウラジロガシなどを主とする照葉樹林が、原生の状態にあるとして保全地域となった。ところが、4年後の1979(昭和54)年、赤星は世を去ってしまう。それから14年後の1993(平成5)年12月11日、屋久島はユネスコの世界自然遺産に登録される。草葉の陰から、赤星の喜ぶ声が聞こえてくるようだ。

 屋久島が世界自然遺産に登録されると、年間1万人以上の見学者や観光客が押し寄せた。その結果、縄文杉の根元が踏まれ続け、樹勢の衰えが心配され始めた。そこで2010(平成22)年10月、日本山岳会は自然保護委員会の中に「世界自然遺産プロジェクト」を立ち上げ、「屋久島への提言~危機遺産にさせないため」を取りまとめた。この中で日本山岳会の第5代と第10代の会長を務め、同会の初代自然保護委員長に就いた松方三郎氏は、赤星が編集した**『屋久島~美しい豊かな自然』**の中にある次の一節を引用した――

《明治百年の歴史はまことに偉大な進歩と発展の歴史であった。然しそれは政治経済の面での話だ。別の角度から見れば、建国以来これほど日本の自然を破壊した歴史はない(屋久島は今そういう時代を迎えている)。富国強兵、近代国家の建設、どれもこれも意味があることであろう。だがしかし、その間わが国土は荒れ、自然は破壊されていった。(中略)破壊を少しでも食い止め、また残された自然を大切に保護する事は、われわれの祖先に対するつとめであり、われわれの子孫に対する、さらに一層大きな務めである。》

 天空を駆け巡る赤い星は輝きを増し、いつまでも屋久島を照らし続けていくことだろう。

〈著書〉

  • 赤星昌編 『屋久島~美しい豊かな自然』(茗渓堂、1968年4月発行)
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