山岳部 初の快挙とその後の絆 – 信州側からの白馬岳積雪期初登頂

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※本記事は、平成30年3月31日発行の『炉辺通信(No.186)』に掲載された「Play back 100年 あの日、あの時」第4回の内容をもとに、ウェブ記事として再構成・公開したものです。

目次

はじめに

 創部100周年を迎える山岳部の「山の履歴書」の冒頭を飾る快挙と言えば、信州側からの白馬岳積雪期初登頂であろう。創部から2年後に打ち立てられた記録は、遠藤久三郎が「炉辺」第1号に「4月の白馬岳」と題して書いている。しかし、コンパクトすぎて詳しい内容が掴めなかった。今回、馬場忠三郎が大学の新聞に詳しく書いた寄稿文が見つかり、その全容が分かった——。

 1920年代に入ると学生登山界は、「スキーで雪山へ」という新しい段階に入り、氷雪に閉ざされる北アルプスの山々に挑んでいった。1924(大正13)年1月に槍ヶ岳が、2月に薬師岳が登られ、そして3月から4月にかけ穂高岳の主要な峰々に足跡が刻まれた。そうした最中、1923(大正12)年1月、槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫の3名はスキーで立山を目指したが、雪の松尾峠で板倉が死亡する雪山遭難が起きる。それでも各大学山岳部は、危険と隣合わせの雪山登山にしのぎを削っていった。

 白馬山域にもスキーを使って雪山に登る時代が到来する。「白馬岳」という山名は信州側の呼び名で、越後では「大蓮華山」、越中では「上駒ヶ岳」と呼んでいた。1920(大正9)年3月、慶応の大島亮吉らが杓子尾根から、続く1921(大正10)年2月に早大の舟田三郎ら一行が大雪渓から白馬岳に挑んだ。しかし、いずれも目的を果たせず引き返す。

 そうしたなか、関温泉で旅館を経営しスキーで名を馳せる笹川速雄と、富山師範学校の教諭内山数雄のふたりは、1921年3月31日、富山側の蓮華温泉から雪倉山麓を辿ってスキーで登攀、途中2泊した後の4月2日、旭岳を回って白馬岳の頂に立った。その後ふたりは山頂から大雪渓を白馬尻までスキーで滑降、積雪期における白馬岳初登頂に成功する。

 しかし、雪深い白馬岳は信州側からの登頂を拒み続けていた。積雪期初登頂から3年が過ぎた1924年4月、明大の新井長平、馬場忠三郎、遠藤久三郎の3人はふたりの人夫を伴い、雪に覆われる白馬岳に信州側の大雪渓から挑んだ。馬場忠三郎が本学の機関誌「駿台新報」に2回にわたって初登頂の模様を寄稿した執筆文を掲載する——。

4月の白馬 スキー登山 馬場忠三郎(昭和2年卒)

メンバー

新井長平(昭和2年卒)、馬場忠三郎(昭和2年卒)、遠藤久三郎(昭和3年卒)
以上3名と、北条村人夫:横沢房吉、横川庄次郎 計5名

登山期間

1924(大正13)年4月16日〜20日(4泊5日)

※コースタイムは1925年12月20日発行の「炉辺」第2号にある「大正13年度」の登山記録から添付した。
また、旧字・旧仮名遣いは新字・現代仮名遣いに改めた。

山林麓谷への道

 都では全く雪も想像されなくなった4月14日の夜、新学年の最初の登山を試みる日であった。新井と遠藤と僕とは雪焼のした顔で、新宿駅のホームを“色の黒いがスキーマンの誇り、と云うて心は雪のよう”、と鼻歌を歌いながら歩いていた。神宮先生が送りに来て下すった。

 翌15日。早朝松本駅に下車。信濃鉄道に乗り換えた。雪に覆われた山並みが見えてくる。初めて都の塵を脱して、解放の天地に行く自由さを感じ合った。汽車は春野を過ぎて皚々の光の国へと進行しつつある。マウンティニヤーの胸に秘められた自然への憧憬、決して好奇心と単に云い去ることは出来ない。自由な翼を拡げて自由の天地を仰いで見たい。我等の前には雪の山がそびえて招いている。早く其れを征服したい。

 汽車は12時、大町に着く。早速自動車にて四ツ谷に向かった。寒い風をきりながら湖水の傍や並木道を、北の国へ、北の国へと進んで行く。1時間余にして四ツ谷・白馬館に着く。ここにて人夫を雇い、準備を整えた。

猿倉の2日

 翌16日、バロメーターは下り、空はどんよりとしている。ここより2里半(約10キロ)の猿倉の小屋迄行くことにした。人夫ふたりと一行5名は、宿の人に送られて出発したのは8時半だった。ルックの負革がスキーの重みで肩に食い込んで痛い。二ノ俣を過ぎて半道程行くと、もう雪道が続いている。スキーを穿いて進むことにした。小粒の雨が落ち始めて来た。大降りには成りそうもない。春の水気を含んだ雪もスキーでの歩みは容易だが、人夫は足がもぐると見えて、少し苦しげに遅れがちである。途中2回程、適度なスロープを見つけては練習してみた。

 午後1時半頃、小屋のあるブナの森の中に入ったが、何処にあるのか分からない。僕等は勿論、夏の登高を試みて行った。人夫は夏に幾度も往復している。然し積雪のため夏とは変って地形が判然としない。

 2時、漸く小屋を見出した。全く雪の下となって積雪のため潰れて柱は全部倒れ、屋根は傾き多量の雪が乗っている。雨はしきりに降ってやまない。若し夜になって雪にでも変ろうものなら、寝て居る所を潰される恐れがある。皆は先ず屋根の雪下しをした。

1時間半後、小屋にもぐり込んだが、立つことは出来ない。かなり雪が吹き込んでいる。焚き木を集めて来て火を付けたが、煙くて苦しくてたまらない。遂に屋根の真ん中に大きな煙出を切った。鍋飯と味噌汁とが夕食だ。

 雨は止まず、小屋の中に漏る。防寒具を付けてデップリと太った体を毛布にくるまり、スリーピング・バッグにもぐり込んでルックを枕に9時消灯。学年試験終了後、未だ充分寒気に馴れぬ体も、どうにか焚火の暖かみで眠り得た。

〈コースタイム〉

曇後小雨 四ツ谷(8:00)〜二ノ俣(9:10)50分休ム〜猿倉(14:00)スキー練習

スキー練習

 翌17日、朝の3時頃から寒さのため目が覚めた。5時起床。終始霧が深く。小雨が降りしきった。バロメーターも下りぎみだ。付近の森の中でスキー練習をして其の日は暮れた。

〈コースタイム〉

霧後雨 終日スキー練習

白馬尻の小屋

 翌18日、矢張り寒さのため早朝より眠れない。6時バックをもぐり出した。霧は晴れないが、バロメーターは前日より数ミリ上って天気になることを予告していた。3人は急に元気付いて外に出て辺りを眺めていた。暫くすると朝日は霧を避けて照りはじめた。

 8時には全く晴上った。食料不足のため人夫が持ちに下山して行く。途中迄見送ってから、白馬温泉に通ずる道を少し登って斜面を調べた。白馬連峰の雪の尾根がくっきりと青空に連なっている。

 大雪渓を見上ぐれば、大小の雪崩が幾つもなく両側の雪壁より落ちている。裂け目が生じて明日落ちそうな所もかなりある様子だ。太陽は西に傾いて美しき夕映えが赤く輝いている。日中融解した表面が凍って、スキーは猛烈に走る斜滑降にジャンプ・タアン一点張りで5時半小屋に帰った。

 強力は帰って来て、火を焚き付けて待っていてくれた。バロメーターは朝と変らない。気温もかなり低い。夕焼が次第に消えて星が現れて来る。今夜は丁度満月の夜だ。真ん丸い月の光が我等の前途を祝福してくれる様に、煙出しから小屋の中に差し込んでくれた。実に静かな夜だ。無人の世界の月光だ。谷川の音がかすかに聞えて来るのみだ。明日は天気に違ひない。必ず目的を果さなくてはならない。皆は緊張して早く眠りについた。夢にスキーの極致なるムーンライト・スキーイングであった。

〈コースタイム〉

晴、夕方曇
強力2名食糧補給ニ下山
午前:スキー練習〜昼寝(13:00〜15:30)〜小屋出発(16:00)〜白馬尻(17:10)〜猿倉小屋(17:30)

(1924年5月5日発行「駿台新報」28号掲載「4月の白馬スキー登山(1)」より)

葱平まで

 翌19日、寒さのため目を覚ました。バックより頭を出せば、満月の光は入口より自分のバックを照らしている。枕下の時計を見れば1時半だ。再び眠らうと努めたが無益だった。2時半起床。直ちにバロメーターを見れば上っている。寒暖計は零下3度である。

 朝、昼2食分炊き、4時半朝食。昼食を飯盒につめて出発したのは5時半だった。太陽は照り始めた。雪は固く凍ってスキーでの登高は困難だ。皆はシュタイガイゼン(鉄カンジキ)を付けて行くことにした。スキーは強力に頼む。白馬温泉に行く道を少し登り、杓子岳の稜の下を真直ぐ横切って進んだ。

 45度程の斜面にシュタイガイゼンの8本の足が突き刺さって確実に止まる。靴の裏からは表面の凍雪が破れてサラサラと気持ちのよい音を立てて谷に落ちて行くのは何とも云へぬ。1時間にして白馬尻に出、ここより千古消えない大雪渓だ。大きな雪崩が白馬杓子の尾根から落ちて登高の邪魔をしている。最近落ちたものである。その上を渡ったり避けたりしつつ急な傾斜面に小さな電光形の足跡を印しながら頂きへ向っての緊張した無言の登行。

 人間の歩行は何んと偉大なものであろう。白馬の信州側の斜面は東向きだ。雪は融けて足がもぐり始める。まだ雪崩の落ちる時間ではない。然し時間柄だから心配になる。若し落ちて来たら、この狭い谷では逃げることも不可能だ。死か。何の恐れることがあろう。山男は常に死を背に負うて登高を試みるのだ。何の進めぬことがあろう。両側の斜面に注意を払ひながら重い足を早めた。8時葱平の岩の表われて居る所に着いた。

山頂の幸福

 ここまで来られれば一安心だ。休むことにした。人夫は1時間程遅れて大雪渓の真ん中だ。スキーを背負った2つの黒い姿が十字架の如く白雪の上に浮かんで見える。何と清い十字架であろう。雪は段々に融けて来る。3人は強力のことを心配しながら谷を注目していた。幸いにも昨夜より今朝の寒さのため、雪は下まで凍っていたらしく、唯一の恐るべき雪崩にも遭わず5名は無事ここを通過して、杓子岳の肩に向って歩を進めた。夏ならば優しく咲き乱れている御花畑は、まだ鎖された冬だ。

 10時少し、枯草の表われている所に腰を下して昼食をとった。飯盒の飯に生味噌だ。アパラートで雪を融かしてレモンティを作った。ティを入れた湯は可愛らしい音を立てて沸騰した。これ等のすべてもアルピニストの味わい得る味だ。

 少しの休憩の後、再び自然との戦いが開始された。岩を攀り50度の雪面にピッケルでステップを切りながら進む。11時、雪庇を登って杓子岳の肩に出た。3人は喜び勇んで雪庇の上の尾根伝い、頂上目掛けて一直線に登った。然し、あまりの美に対して数度の美的観覧をせざるを得なかった。

 12時、頂上の小屋に着いた。4つの小屋は全部天井まで雪が入っていて戸も開かない。ここから頂上へは5丁(約550m)だ。風のために雪も吹き飛ばされて無い。人夫はまだ尾根の南斜面で遊んでいるらしい。30分すると登って来た。県設小屋の上をスキー・デポートとし、5名は無事絶頂に立った。12時40分。海抜9500尺。長き苦しい登高でアイゼンを付け重き足も急に軽くなった。

 山男の山頂きに立ちし幸福!それは無言の偉大な幸福であった。朝から少しの変化もない日本晴れで、眺望は理想的だ。立山、剣岳、烏帽子岳、槍・穂高の北アルプスの主峰が、誇らしげに化粧をして蒼空に真白な輪郭を示している。信越の山々も見える。実に雄大な白銀の波のうねりである。5名は無事を祝し合って頂上を後にした。小屋の傍で焚火をしながら2回目の昼食をし、2時間休憩した。

校歌を歌う

 2時半、スキー・デポートに下り、スキーを穿く3人は、小雪渓の急斜面に美しいスラロームの波を交えながら、今迄積雪期に誰も滑走したことのないヴァージン・スノーのスロープに痛快なステムボーゲンとリフテッド、ステンミング、ターン。雪は水気の無い良好なザラメ雪。滑りの良いこと実に愉快な滑感を与えてくれる。

〈コースタイム〉

快晴
起床(3:00)〜朝食(4:30)〜猿倉小屋出発(5:30)〜白馬尻上(6:30)〜葱平(8:00)
強力ヲ待テ1時間休ム〜杓子花畑(9:20)昼食1時間半休〜杓子岳北尾根〜白馬小屋(11:50)
30分休ム、強力待ツ〜白馬頂上(12:40)〜白馬小屋(13:00)〜小雪渓スキーデポート(14:30)〜葱平(14:45)1時間半陽ノ入ルヲ待ツ〜白馬尻(16:40)〜猿倉小屋着(17:35)

〈4/20 コースタイム〉

快晴
猿倉小屋(8:00)〜四ツ谷着(12:00)〜四ツ谷出発(16:30)〜大町着(17:30)泊

(1924年5月12日発行『駿台新報』29号掲載「4月の白馬スキー登山(2)」より)

解説

 この大記録の背景に創立者・米澤秀太郎(大正12年卒)の遺言があった。馬場忠三郎がまとめた「我が部の事ども」に記述されているが、生前、米澤から“スキーを使って雪山登山に挑むときは、白馬岳に行きなさい、と奨められていた。米澤が亡くなる前年(大正12年)の6月、同期の三沢寿郎(大正12年卒)と白馬岳山麓でゾンメルシー(残雪期に使う短いスキー)を使いスキー滑走を試みている。白馬に通った米澤は、本格的なスキー登山を実践するには、白馬岳の大雪渓がふさわしいと馬場たちにアドバイスしたのだろう。故米澤先輩の一周忌を迎え、新井と馬場、そして遠藤の3人は、先輩の教えを実践すべく積雪期の白馬岳に向かったのだった。

 3人の明大パーテイは期待に胸ふくらませ4月14日帝都を出発、翌15日に四ツ谷(現在の白馬村)に入る。四ツ谷で人夫を雇った3人は、16日四ツ谷から猿倉小屋に入る。ところが17日は濃霧で視界が悪く、その後も雨が降る生憎の天候となり停滞する。翌18日は天気となったが、今後の悪天候を想定し食糧を補給した方が良いと、ふたりの人夫を下山させ、新たに食糧を荷揚げしてもらう。その間、3人は本番に備え白馬尻まで偵察に赴き、大雪渓の雪の状況や雪崩の危険性を調べている。雪山登山の基本を踏まえた用意周到さが窺える。

 そして、いよいよ積雪期の白馬岳に挑む日を迎える。4月19日は快晴と絶好のアタック日和となる。馬場の“必ず目的を果たさなければならない、という並々ならぬ決意のもと、3人の男たちは人夫を伴い白々と明ける早朝、闘志を秘めて猿倉小屋を出発した。8本爪のアイゼンを付けて雪渓を登ったとき、遅れ気味に登ってくる人夫たちを待つ。

 このとき一行は、両側からの雪崩が人夫たちを襲わないか見張りをしている。合流してから3人はさらに上を目指す。やがてまた人夫たちと距離が離れたため、白馬小屋で休憩しながら待つ。こうした人夫たちを思いやる友情が、馬場の一文に滲み出ている。再び合流した一行は昼の12時40分、念願の白馬岳の頂上に立った。馬場の一文を読むと、このとき5人の喜び合う姿が目に浮かんでくるようだ。猿倉小屋を出発して7時間で頂上を極めた。

 好天に恵まれ北アルプスの展望を堪能した後、一行は白馬岳を後に下山に入る。3人は小雪渓の頭でスキーに履き替え、午後3時前葱平に着く。ここで一行は雪崩の危険を避けるため太陽が山陰に隠れるまで1時間半も待機している。この辺にも慎重に慎重を重ねる一行の周到ぶりが見てとれる。スキーを履いた3人は得意のスキー・テクニックで大雪渓を踏降しながら下山する。夕闇迫る5時35分、全員無事猿倉小屋に帰り着き、12時間に及ぶ長い一日が終わった。

 遠藤が『炉辺』第1号に書き留めた「4月の白馬岳」に、「猿倉から頂きへの一日は、余り容易過ぎる感じがする」と書いている。確かにこの成功は4月中旬で、早立春に挑んだ2月、3月に比べると、安定期に入った天候の下で成し遂げられた。しかしその反面、気温が上ると雪崩の危険性が高まる季節であつた。遠藤は「大雪渓は雪崩の多い処だ」と書いている通り、一行は雪崩の発生に細心の注意を払いながら大雪渓を登り降りしていることが分かる。その一方で馬場は、「何の恐れることがあろう。山男は常に死を背に負うて登高を試みるのだ。何の進めぬことがあろう」と書き留めている。この鬼気迫る言葉には、彼の持ち前のアグレッシブさと同時に、故米澤先輩に報いるような気迫がみなぎっているように思える。

 ところで馬場の寄稿文に「バロメーター」という言葉が度々登場する。また遠藤の一文にも「何故ならば其の音が余りに気圧に影響して居るから、短時間に於けるバロメーターの上等は又面白い」と書かれている。当時はラジオからの天気予報などなかった時代で、積雪期の山に登る際は気圧計を持参し、天候を予測したのであろう。

 この積雪期の白馬岳登山に際し、一行は雪で半壊状態となった猿倉小屋を根城にした。ところが、あまりの寒さで眠れないことが記述されている。現在のように優れたテントをはじめ羽毛シュラフや防寒着類がない時代だに、まだ春浅き寒さに耐える厳しさは想像に難くない。そのため当時、小屋泊りするスキー登山は人夫を雇い、ある程度の食糧や装備品を担いでもらわなければ出来ない時代であった。

 この金字塔を打ち立てるまでの山岳部は、恒例の関温泉をはじめ富士山で雪山登山に必要なスキーの練習に明け暮れた。そして山行記録を調べると、白馬岳に行く前の3月、馬場たち4名は関温泉をベースに妙高山にスキー登山を試みている。おそらく積雪期の白馬岳を想定してのトレーニングであったのかもしれない。

 最後に馬場たちが信州側からの積雪期初登頂を果たした白馬岳を振り返ると、その後の山岳部と悲喜こもごも結ばれる縁が浮かんでくる。1930(昭和5)年3月、交野武一(昭和8年卒)ら一行が、後立山連峰の唐松岳まで積雪期初縦走に成功したのは、白馬岳を起点にしている。

` それから5年後の1935(昭和10)年10月、我が山岳部待望の山小屋「明大山荘」が建てられたのは、白馬連峰が一望できる八方尾根であった。また1944(昭和19)年3月、戦前最後の春山合宿が行なわれたのは白馬岳と杓子岳である。そして忘れてはならないのは1957(昭和32)年3月、白馬鑓ケ岳で起きた未曾有の二重遭難であろう。このあと新人合宿は、残雪期の総合技術養成とし、あの二重遭難を忘れまいと毎年、白馬岳周辺で行なわれている。

 すでに白馬岳の積雪期初登頂から94年の歳月が過ぎようとしている。山岳部史から見ると、馬場たち一行が白馬の大雪渓に踏み込んだ一歩一歩は、始動したばかりの山岳部の高みを目指す大きなステップになったと言える。北アルプス北方の盟主“白き天馬”は、これからも明大山岳部の“栄光の山”として、また心の中の“忘れぬ山”として登り続けることだろう。そして何より新人部員たちの“入門の山”として、若き山岳部員たちを見守り続けていくに違いない。

参考資料

  • 馬場忠三郎「処女雪を蹴って 妙高へスキー登攀」
  • 『駿台新報』27号(1924年4月28日)
  • 遠藤久三郎「4月の白馬岳」「炉辺」第1号(1924年12月20日)
  • 『大正13年度登山記録』『炉辺』第2号(1925年12月20日)
  • 山崎安治『日本登山史』(1969年6月13日・白水社)
  • 石沢清『北アルプス白馬ものがたり』(1972年12月25日・信濃路)
  • 中村周一郎『北アルプス開発誌』(1981年4月20日・郷土出版社)
  • 山崎安治『新稿 日本登山史』(1986年1月31日・白水社)

この記事を書いた人

鳥山 文蔵

  • 昭和49年卒部
  • 日本山岳会宮城支部 会報・編集出版委員会
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