初夏の墓参──仲間を想う一日
5 月 11 日、初夏を思わせる汗ばむ陽気のなか、大川邦治さん(平成2年卒)と染矢浄志さん(平成3年利尻岳にて遭難)のお墓を訪ねました。同行したのは、平成2年卒の佐野哲也隊長をはじめ、同学年の広瀬学さん、平成4年卒の宮本功さん、平成5年卒の小杉秀夫さん・高柳昌央さん、平成12年卒の石田佳岳さん、平成13年卒の谷山宏典さん、そして私のあわせて8名です。
最初に訪れたのは、染矢さんのお墓でした。新浦安から海沿いへ車を走らせること10分ほど。静かな墓地に、「やあ、今日は」と刻まれた墓標が、どこか彼らしい優しい表情で迎えてくれました。平成3年12月28日、利尻でのあの出来事から34年の歳月が流れています。皆で丁寧にお墓を清め、同期の宮本さんが煙草を供え、それぞれの想いを胸に、静かに手を合わせました。
その後、袖ケ浦へと移動し、大川さんのお墓へ。大川さんは平成31年2月18日、51歳という若さで旅立たれました。私が4年生の時の1年生で、翌年からは主務としてMACを支えてくれた方です。卒業時には「もう山はやらない」と全ての山道具を手放したと聞いていましたが、やがて銀行を辞め、再び山へと向かいました。
インド・ヒマラヤのガングスタン遠征では、学生たちとともにコーチとして山に入り、仲間と、そしてMACという場を心から愛していた人好きの硬骨漢でした。千葉に暮らしておられたと聞いていたので、またいつか会えると、どこかで思っていたのですが……。今回のお墓参りでは、面識のなかった後輩たちが丁寧に墓前を整えてくれ、皆で静かに祈りを捧げました。帰路、皆でお寿司屋さんで献杯をし、皆で思い出語りをいたしました。
染矢さんには同期の宮本さんが、大川さんには同期の佐野さんが、それぞれ追悼の言葉を寄せてくれています。どちらも、深い友情と感謝の気持ちにあふれたものです。世代を越えて仲間を偲ぶこのようなひとときに、仲間の大切さ、そして共通の体験がもたらす絆の力を、あらためて実感させてもらいました。

大川君へ – 佐野哲也(平成2年卒)
5年ぶりでの墓参りとなった。染矢君の墓参りも暫くぶりで、お墓の場所もおぼろげなほどだった。大川君とは、部室で初めて顔を合わせた時から、変わった奴はいるものだという驚きの連続だった。
何か考え方が違い、田舎者の私にはこれが東京なのかという思いだったが、すぐにそれは彼だけの問題だということが判明した。ご家族に聞くと木更津高校時代は応援団に在籍し、山岳部は創設者らしい。
文化祭では、体育館に渡したチロリアンブリッジを使いボディーハーネスを装着したスーパーマン姿を披露したと聞いた。彼が床に降り立った時のドヤ顔がはっきりと想像できる。
彼は小柄なので、狭いテントのなかで高校応援歌「証城寺の狸ばやし」を、扇子の代わりにアルミ食器を振って、クルクルと踊ってくれたことがあった。家テンの奥で息をきらせて踊っていた。いくつかの九死に一生の事故寸前の話は多く、我々は運よく山岳部を卒業できたと思う。
卒業後、他大学の同期組と秋の前穂東壁に2パーティで行ったことを思い出した。登攀前夜は奥又白の畔で幕営。梓川でとったヌメリスギタケとイワナ入りのマーボー豆腐スープがうまかった。
翌朝、登攀はすんなり頂上に到達するも、前穂は初心者ということと、ガスのせいで下降点を間違ってしまい、とうとうビバーグする羽目になった。
テントには宴会用の酒と食料があるのに、みじめなビバーグである。夜は満天の星で気温が下がり小さなツェルトは寒かった。3人で川の字で寝るのだが、関西大学の奥田君を挟み佐野、大川の両端でツェルトを引っ張り合った。
ツェルトに包まると暖かく眠りにつけるのだが、同時に握力が緩む。そしてスルスルとツェルトが引っ張られ、すぐに半身が寒くなるのだ。お互い遠慮もせず引っ張るのだが、とうとう私は根負けし、一人ハイマツの中で寝た。あの時は大川に負けた。下山後、奥田君は俺たちの仲を心配していたが、これがいつものことで普通だと答えた。
その後、炉辺会の支援があり、ネパールの6000m峰コンデリに二人で行かせてもらった。登頂後の月夜の下降は、風も穏やかで、こちらはうまくいった。その時はザイルパートナーの大川が頼もしく感じた夜だった。
昔話は、些細なことに記憶力のいい大川君の独壇場であった。数々のバカ話ができないことが本当に寂しいかぎりである。
利尻訪問 – 宮本功(平成4年卒)
5月11日に佐野先輩からのお声がけで、染矢と大川さんのお墓参りに、竹村先輩、佐野先輩、廣瀬先輩、小杉さん、高柳さん、石田さん、谷山さんともに参加しました。
染矢は、自分の高校山岳部のときからの後輩で、1991年12月に利尻岳で遭難事故に会いその生涯を閉じました。翌年8月に染矢が発見されるまでには、炉辺会の多くの先輩に捜索に加わっていただきご尽力いただきました、また利尻の谷村さんをはじめ多くの利尻の方にも大変お世話になりました。
私は、1992年に染矢が利尻で発見されて以降、数年間は年末年始に谷村家を訪れ、年越しのそば打ちや三日月食堂の大掃除を手伝いながら、谷村俊朗さん・早苗さんご夫妻をはじめ、捜索当時にお世話になった利尻の方々と親睦を深め、年越しを迎えていました。しかし、自分に子供が生まれてからは、いつしか利尻への訪問からも遠ざかり、長い年月を過ごしていました。
再度、利尻に訪問する機会を得たのは、2019年に松田研一先輩からお誘いを受け、同年の9月に2人で利尻に訪問することになったからです。20年数年ぶりに谷村さん夫妻にお会いし、相変わらずのお酒三昧の利尻の夜に少し戸惑いながらも、自分をそのまま受け入れてくれる利尻の雰囲気に安らぎを感じました。
その翌年、谷村俊朗さんの訃報を聞いた時には、本当に驚き、コロナ禍ではありましたが、いてもたってもいられずに、谷村さんのお通夜・告別式に参列しました。利尻の方は、本州からの来訪者に、コロナ感染拡大の不安がよぎっていたと思いますが、「明大山岳部」がやってきたと悲しみが広がる中でも、家族同様に私を迎え入れてくれました。
告別式には、私の1学年後輩で、染矢の同期の高柳も日帰りで駆けつけてくれました。前年に、谷村俊朗さんにお会いできたことに松田先輩に感謝しつつ、染矢が引き合わせてくれたのだとも思います。
それからは、時々早苗さんと連絡を取り、ほぼ毎年のように利尻を訪問するようになりました。利尻訪問の時は、毎夜利尻の方が集まって、冨田のことや炉辺会の皆さんのこと、染矢発見当日の三日月食堂の壊れていた水槽の照明が突然灯ったこと等を振り返りながら、夜遅くまで語り合いました。
早苗さんからは、明大山岳部の世代を超えた絆や30年来炉辺会の皆さんが三日月食堂を訪れていることで、明大山岳部と知り合えたことを財産だと思っているとまで言っていただき、本当に有難く思っています。
また、早苗さんは、自分の同期の冨田のことをすごく気にかけてくれていて、染矢の遭難事故から、33回忌の区切りに、2023年10月に同期の冨田を誘い再度利尻を訪問することになりました。
冨田自身は遭難当時染矢とザイルを組んでおり、捜索以降は、自分が利尻を訪問して良いのかいつも悩んでいる様子で、遭難以降染矢のことを絶えず深く心に刻み、自分自身を責め続けて来たのだと改めて思いました。
唯一の同期である冨田と利尻を訪問し、2人で染矢が発見されたヤムナイ沢の大堰堤を訪れた際は、それまで雲に隠れていた利尻の山頂が姿を現し、染矢が迎え入れてくれている様に感じました。
今度は、冨田とお墓参りをできればと思っています。
