特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

故 大西 宏(昭和57 ~ 61年在部)

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遭難情報

遭難発生日1991(平成3)年10月16日
遠征計画日中合同登山隊:未踏峰ナムチャバルワ(7782m)の初登頂
遭難場所ナムチャバルワのプラトー上部、6200m付近(雪崩による埋没死)
遠征メンバー〈日本隊〉
隊長:重廣恒夫
登攀隊長:高見和成
隊員:木本哲、大西宏(昭和61年卒)、山本篤(昭和61年卒)、廣瀬学(平成2年卒)
マネージャー兼通訳:梶田正人
ドクター:小島彰
以上8名

〈中国側隊員〉
8名
合計:16名

 ナムチャバルワはヒマラヤ山脈の最東端に位置し、当時、世界最高の未踏峰として注目を集めていた。同峰が位置するヤルツァンポ大峡谷は、複雑な山容が生み出す湿潤で温暖な気候が雨や雪を降らせ、雪崩が多発するため、人間を拒み続けてきた。

 日本山岳会は中国登山協会と合同で、未踏のナムチャバルワに挑むことになり、前年の1990(平成2)年11月に偵察隊を送った。その結果、西北西稜の支尾根は懸垂氷河の崩落で雪崩の危険性が高いと判断され、ナイプン峰(7043m)を経由する南稜ルートに決めた。

 偵察隊に参加した大西宏は、本隊隊員として登頂意欲を胸に秘め、未踏峰ナムチャバルワに挑んだ。

遭難概要

 1991年9月28日、隊長以下日中8名ずつの合同隊は、3520mのベースキャンプ(BC)に入った。10月8日から第3キャンプ(C3)へのルート工作が開始された。前年の偵察で経験済みの大西と、岩壁登攀のスペシャリスト・木本の2人が先行する。C2からは懸垂氷河の崩落に注意しながらラバ口を経由し、所々に出ている岩場を選びながらルートを延ばした。南稜上に14本のロープを固定、5600mのC3予定地に到達する。ナイプン峰は目前に迫り、ナムチャバルワは手の届きそうな位置に姿を現した。その後、必要物資を荷揚げし10月13日、C3を建設した。C3からは雪の長大な斜面が続き、その雪は深く、重く感じられた。しかし、14・15日と降雪が続き、2日間の停滞を強いられる。

 ようやく晴れ間が戻った16日、高見登攀隊長、木本、大西の3名は7時10分ごろ、中国側隊員2名は8時ごろ、それぞれC3を出発、第4キャンプ(C4)予定地の偵察に向かう。ルート上は前日までの降雪で深いラッセルとなり、5人が交代でラッセルしながら上部を目指した。やがて前年に試登したときの、C4(6350m)下の緩いプラトー(高度計は6150m)に到達した。しかし、この場所は傾斜地で適当なキャンプ地ではないと、さらに上を探すことになる。昼食後の13時15分、大西は「もう少し上まで登ってみます」と言い残し、傾斜を増す雪壁を空身で登っていった。少し間を置いて木本が後から続いた。C4予定地付近は傾斜40度前後の雪面で、大西は早いスピードで登っていった。

 ところが13時35分ごろ、大西の足元から雪崩が発生、大西の姿が突然、見えなくなってしまった。彼の下を登っていた木本は、20m流されたが脱出する。中国側隊員は次の雪崩を恐れて来ないので、高見と木本の2人はデブリの上を走り回りながら、必死で大西を探した。13時50分、デブリから右手が出ている大西を発見、中国側隊員も駆け付け掘り出しにかかる。大西は雪面下70~80㎝の所に、仰向けで埋まっていた。すぐにプラトーのデポ地(6150m)まで降ろし、人工呼吸と心臓マッサージを施した。14時20分ごろまで蘇生の努力を続けたが、瞳孔が開き脈もなくなる。BCの小島ドクターに状況を報告し、死亡を確認する。

 標高6250m付近で起きた雪崩は新雪表層雪崩で、規模は厚さ30~50㎝、幅150~200m、長さ80m(最長)、右側は50mくらいであった。大西の遺体はテントにくるまれ、5850mまで降ろし安置する。翌17日、遺体はC3下のラバ口まで降ろし、18日にラバ口から収容作業を行い、C2に安置した。

遭難の原因

 OBの山本宗彦が『山岳』第八十八年(1993年12月発行)に「雪崩事故について」と題し、遭難の原因となった雪崩の分析を報告している。それによると、大西の事故前2日間の降雪が雪崩を誘発したようだ。5600m付近の積雪は40~50㎝、事故現場の6200m付近は、それ以上の積雪と思われる。2日間にわたって新雪が降り続いた約40度の傾斜に踏み込み、そのために発生した新雪表層雪崩の可能性が高い、と述べている。

 その一方、雪の切断面にクラック状のものが見られ、風によってもたらされた積雪の密度や厚さの違いからバランスが悪くなり、ストレスの凹凸ができる斜面になっていた。降雪と言うより〝流雪〟と言うべきその中に踏み込んだため、バランスが崩れて起きた雪崩ではないかということで、単純な新雪表層雪崩ではないという見方も出された。

 大西が参加した前年の偵察は、遭難が起きたときより約1ヶ月遅い、11月から12月にかけてであった。そのため降雪は少なく、風が強まる時季であった。したがって、本隊のときのようにラッセルが深いということはなく、雪崩の危険性は少なかった。偵察隊で現地を知っていた大西にはそのときのイメージがあり、雪質の変化まで読み取ることはできなかったようだ。さらに2日間の停滞の後で、逸る気持ちで独り上部を見にいった大西は、躊躇なく危険な斜面に踏み込んでしまったようだ。

 エベレストと北極点を制覇した大西宏は、ナムチャバルワに参加する直前まで、自身にとって“3極”最後の南極点徒歩到達に向け準備をしていた。しかし植村直己同様、その夢は儚くも断たれてしまった。

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