基本情報
遭難発生日 | 1959(昭和34)年 12 月 24 日 |
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山行計画 | 冬山・剱岳合宿(新人は高所幕営と稜線歩行、上級生は登攀技術強化) |
遭難場所 | 立山・雷鳥沢 雷鳥荘東側テントサイト(雪崩による埋没死) |
山行メンバー | CL=田村宏明(昭和31年入部 4 年)、SL=赤松威善(同32年入部 3 年) 正部員=川崎伸(同31年入部 4 年)、中川恭司(同32年入部 4 年)、渡辺一重(同32年入部 3 年)、弓納持貞雄(同33年入部 2 年)、末松清剛(同33年入部 2 年)、柴田興志(同33年入部 2 年)、沓名義明(同33年入部 2 年)、木村敏之(同33年入部 2 年)、渡部義正(2年) 新人(同34年入部)=矢沢剛、黒川惣一、岩谷憲道、石黒晴久、木下善雄、河野真、牛島隆雄 計18名 |
遭難概要
1959年12月18日、田村宏明リーダー以下17名は冬山合宿のため立山に向かった。12月23日、ミクリガ池から立山側を通り尾根伝いに雷鳥荘に下り、初めは地獄谷を幕営地に予定していたが、翌日からの行動を考慮し、別山乗越に近い雷鳥荘東側(夏期テント場)約25mの場所を幕営地とした。
小屋側からNo.59-2、No.59-1、No.58のテント3張を設営。この場所は対岸までの幅が約150~200m、テント場と沢底までは25mあり、雪崩が起きても浄土沢を越えてテント場まで到達しないと判断していた。この日の気温はかなり高く、12時で零下6度、テント場付近は膝ぐらいのラッセルとなっていた。
入山6日目の12月24日、朝から猛烈な雪模様で、9時ごろまでに60㎝の積雪があり、停滞となった。その後さらに40㎝積もり、気温は12時で零下10度、18時で零下14度に下がり、風も強まった。20時ごろ、新人が浄土沢へ水汲みに向かうも、胸までのラッセルとなり断念。このころから風が弱まり、20時30分ごろには全員が寝袋に入ったものの、クリスマス・イブということで誰も眠ることなく静寂の中で過ごしていた。
しかし20時45分ごろ、「ズシン!」という音が鳴り響き、数秒後には「ゴォーッ!」という轟音が。突風とともに瞬間的に雪が「バサッ!」とテントを埋めた。雪崩の勢いでどのテントも押し倒され、被害の少なかったNo.58でも30~40㎝の厚さで雪に覆われ、小屋寄りのNo.59-1とNo.59-2の2張は完全に潰され、50~70㎝の雪に埋もれた。
各テント内は一瞬にしてパニック状態となり、雪崩の本流に近い小屋側のテントほど深く埋められ、事態は刻々と悪化していった。
救出概要
No.58テントは雪のブロックが倒れたと思い、入り口の新人に外に出るように言ったがすでに遅く、雪で体が押さえ付けられてしまった。後室側にいた川崎、末松、渡辺の3人はテントを支えようとしたが、すぐに「ギューッ」と重みが加わり、固定されてしまった。天井までなんとか50~60㎝の高さがあったので、ナイフでテントを切り裂き、わずかなスペースから雪を掻き出した。地上に抜ける穴が開くと空気が流れ、夢中で外に脱出した。
3人が雪面に飛び出すとテント場は真っ平となり、埋まっているかもしれない仲間を捜し、そこら中を裸足で走り回った。しばらくして3人はNo.58テントの新人3名(木下、黒川、牛島)を救出すると、大体の見当を付け残り2張のテント発掘に取り掛かった。数分後、No.59-2テントから木村、No.59-1から弓納持が自力で脱出する。零下18度という気温も気にせず、素手で無我夢中で掘った。やがてNo.59-1から田村、石黒、沓名、渡部、岩谷、河野の順で救出、No.59-2からは中川を救出、少し遅れてNo.59-1から失神状態の赤松を助けた。
「雪崩に埋没して15分以内に発見できれば、生存している可能性は非常に高い」と言われるが、埋没から15分後に柴田と新人の矢沢を除く全部員が救出され、残る2人を必死で探した。21時ごろ、意識不明の柴田を発見。
しかし、上半身は掘り出せたが下半身がポールで押さえられ、引き上げることができなかった。紫色に変色した顔面を殴打すると意識を取り戻す。柴田発見から数分後、矢沢の顔が出た。目を閉じ、顔色はすでに土色で、口を少し開けていた。必死に雪を掻き分けると、テントのポールが胸の上を斜めに通り、体を押さえ付けていた。
ようやく矢沢を引き上げると寝袋に入ったままで、雪崩を受けた瞬間にテントのポールが体を押さえ、自由を奪ってしまったようだ。彼の寝袋を切り、直ちにビタカンファー注射と人工呼吸を施したが、寒気がひどく注射液も凍ってしまい、体内に入らなかった。結果的に矢沢を蘇生させることができず、小屋に移した。
事後処置
全員発掘後の21時15分、雷鳥荘に避難した。大部分が裸足、素手で脱出したため、軽度の凍傷に罹り手当する。また、矢沢を別室に運んで火を燃やし、衣服を脱がせて人工呼吸をしたり胸部を圧迫し、ビタカンファー注射を続けた。その間に、比較的埋没が浅かったNo.58テントから寝袋や食糧、燃料、個人装備などを掘り出し、小屋に運び入れた。そうした中で雪崩の音を1回聞いたが、全員精神的なショックは隠せず、取り敢えず新人たちを寝かせた。
別室では「矢沢! 矢沢! 起きろ~!」と声を限りに叫ぶが全く反応せず、蘇生させるべく努力したが体温は戻らず、沈黙の時間が無情にも過ぎていった。25日午前零時5分、体が硬直を来したため衣服を整え寝袋に収容、全員を起こし、冥福を祈って黙禱を捧げた。
翌25日、夜明けとともに渡辺、木村、末松の3名が室堂山荘に滞在する気象観測の越冬隊に出向き、東京本部と矢沢宅へ無線連絡を依頼した。残った部員たちは埋没品を発掘した後、矢沢の遺体を室堂山荘に運び、ここで合宿を中止した。
遭難の原因
雪崩発生後の現場報告を読むと、雪崩は稜線直下約200mの所で起き、厚さ1~1.5mの亀裂があった。乾燥新雪表層雪崩の長さは100~150mと、規模は大きかった。テントを設営した23日の浄土沢は、水面が幅50㎝から1m現れていたが、24日の降雪(約1.2~1.5m)と雪崩でほとんど埋まっていた。
そのためテントのある台地と雷鳥沢はほとんど平らな面となり、浄土沢はわずかに低い地形に変わっていた。発生した雪崩は雷鳥荘の北東の隅をかすめ、テント場全体とその東側20mぐらいのエリアを覆い、さらにテント場の後方40mまで達していた。山小屋の近くに雪崩は来ない、という神話を信じた判断ミスとなった。