特別企画展の案内:「植村直己・わが青春の山岳部」

故 人見 卯八郎(昭和10年入部)

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基本情報

遭難発生日1938(昭和13)年 9 月 24 日
山行計画谷川岳・マチガ沢での岩登り山行
遭難場所谷川岳・マチガ沢本谷(墜落死)
山行メンバーL=人見卯八郎、小国達雄(昭和10年入部)
部員=後藤大策(同11年入部)、松永豊(同12年入部)、国貞和夫(同12年入部)、寺島鉄夫(同13年入部)、永山盛泰(同13年入部)、山本康男(同13年入部)計8名

遭難概要

 1931(昭和6)年9月に上越線が全線開通すると、谷川岳は注目を集め、岩場に挑む登山者が多くなる。1938年9月23日夜、人見卯八郎と小国達雄をリーダーに6名の部員たちは上野を発ち、谷川岳・マチガ沢での岩登り訓練に向かった。

 24日早朝、土合に着く。朝6時に「土合山の家」を出発し、ときどき小雨が降るなかマチガ沢へと向かう。午前9時過ぎにF2の滝の下に着き、午前10時に登攀を開始する。滝の左側を登って滝上に出て、小尾根を左に巻いて左の沢に入る。この沢を約100m登ったが、状態が悪く左の尾根に取り付く。その後は50mぐらいのヤブこぎとなり、小岩峰を右にへつり、最初に小国が小岩峰を登り、次に人見が続いた。

 二人が登り終えてザイルを下ろし、残りの部員がザイルに確保され小岩峰を登った。この上は再び50mのヤブで、登った者から上を目指し、小国と人見は最後にザイルを回収し後に続いた。すると突然、「あっ!」という声と同時に、「国貞が落ちた!」という声がした。右を見ると、奇跡的に岩の溝に国貞が止まるのを見た。その下はまっすぐな絶壁となっていた。

 国貞は草付と岩のスラブの間から約30m落下したが、大事には至らなかった。仰向けになった国貞の左足のズボンは裂け、出血していた。

 小国と人見は善後策を話し合い、事故を連絡するため人見と寺島が麓に降りることにした。残った小国以下5名で国貞の救出作業に取り掛かった。小国は確保用ザイルのピトンを打ち、横たわる国貞の所まで下降する。意識不明の国貞に、小国は「国貞!国貞!」と呼び掛けた。しばらくして「う~ん」と力のない返事をして薄目を開け、ときどき「寒い~」とか「痛い~」と唸った。

 小国は国貞の体にザイルを結び、引き上げる準備をした。そのとき、人見が「スラブだから、クレッター・シューズでなくちゃ危ないぞ!」と注意してくれたので、小国は「ヤッホー!」と返した。この人見の注意が最後の言葉となってしまった。

 しばらくして突然、岩が落ちて来る音がしたので小国が上を見上げると、岩塊が自分の方に落ちてきた。本能的に首を引っ込めた途端、人見の体がもんどり打って小国の前で大きくバウンドし、血しぶきとともに宙を飛んでいった。2、3秒してから「カラン、カラン」と2つばかり音がした。

 国貞が「今、落ちたのはなんですか?」と聞いてきたので、小国は「岩だよ」と答え、首を出して下を見ながら「人見~!」と呼んでみた。50、60m下に、人見は静かに横たわっていた。岩壁の上に残る部員たちと顔を見詰め合い、しばらく静寂の時が流れた。茫然と立ち尽していると、国貞が「僕、大丈夫ですよ」とフラフラ立ち上がろうとした。

 慌てて座らせ、部員のいる所まで国貞を引き上げた。上に着いた小国は墜落した人見の現場に急行し、皆で人見の遺留品を探し、遺体に黙禱を捧げた。

 小国は、動揺している新人たちをどうやって下山させるか考えた。安全に下山させるには、いったん谷川岳の西黒尾根に登り、西黒沢を下ることにした。取り敢えず上のピークにいる寺島の場所まで登ることにし、度重なるアクシデントで落ち込む仲間を励まし、国貞を確保しながらの登高となるため、ザイルを全部つないだ。

 全員が西黒尾根に着いたのは17時近くとなり、懐中電灯が1つしかなかったが、それもやがて使えなくなり、やむなく西黒沢で露営した。夜が明けて出発し、25日朝8時ごろ土合に着いた。「土合山の家」から大学や山岳部関係者に電報を打ち、負傷した国貞を後藤が連れて帰京し、大学と山岳部に事故の報告を依頼した。その一方で、人見の遺体搬送の人夫を手配し、翌26日、墜落現場から人見の遺体を運んだ。

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