基本情報
遭難発生日 | 1934(昭和 9)年 8 月 11 日 |
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山行計画 | 夏山山行後の穂高・涸沢上級生山行 |
遭難場所 | 北アルプス・横尾本谷に架かる丸木橋(転落、水死) |
山行メンバー | 北穂高岳隊:L=針ヶ谷宗次 部員=峰島秀一(昭和6年入部)、白井守二(同8年入部)、久保(旧姓:石原)信恕(同8年入部) 前穂高岳・北尾根隊:L=木谷(旧姓:宇野)六郎(同7年入部) 部員=大坪藤麿(同7年入部)、鏑木勝男(同6年入部)、海老根眞雄(同6年入部)、能登政次(同6年入部)、合木武夫(同7年入部)、小野木震吉(同7年入部) |
遭難概要
1934(昭和 9 )年、分散形式の夏山山行を終え、針ヶ谷宗次をリーダーとする上級生一行は、穂高周辺での山行に移り、8 月10日、涸沢に大テントを設営した。
ところが、夜になって風雨が強くなり、猛烈な嵐となる。11人が眠るテントのポールはきしみ、フライテントに激しい雨が打ち付け、やがてフライはちぎれ、テントの中に雨水が浸入する始末となる。全員眠ることができず起き上がり、ポールを握ってテントの倒壊を必死で守った。リーダーの針ヶ谷はテント保持のため、外に出て石を積んだり、張り綱を直したりと動き回り、その日の夜は全員、一睡もできず夜明けを迎える。
翌11日、天候の回復は見込めないと判断、登山計画を取りやめ撤収に入った。収まる気配のない嵐の中、11人は大坪を先頭に針ヶ谷が最後尾となり、下山を開始する。
このとき、針ヶ谷は左手にピッケル、右手に手鍋を持ち、雨衣を頭巾にして下った。激しく降る雨の中、下る道はまるで沢となり、足元を雨水が川のように流れた。11人は上高地を目指し、ひたすら黙々と下る。
そして一行は、横尾本谷橋と呼ばれる最初の丸木橋に差し掛かった。見ると横尾本谷は、夜半からの大雨で水量を増し、両岸に飛沫を上げていた。この丸木橋は、中程の大きな岩を挟んで長さ 5 m余りで、真ん中に 1 本の細い丸木を挟んだ 3 本組み幅の橋であった。
橋の下はすれすれに激流が迫り、かろうじて流されずに架かっているという状態だった。午前 9 時ごろ、先頭の大坪たち 3 、 4 名が渡り終え、頭巾を外した針ヶ谷は、鏑木の後に続いて渡った。4 、5 歩歩いたとき、針ヶ谷は何かの拍子にバランスを崩し、まだ渡り終えない後輩に影響を与えないようにしたのか、声を発することなく、出発時と同じ右手に鍋、左手にピッケルを持ったまま、橋に向かって右手、すなわち川下に向かう激流の中に身を投げ出してしまった。
これから渡ろうと待機していた木谷の呼び声で、鏑木や渡り終えて歩いていた大坪たちが、針ヶ谷の転落を初めて知る。皆が振り返ったとき、針ヶ谷は橋から11、12m離れた大きな岩角に、激流に押さえ付けられるようにして浮かび上がり、ザックのバンドを外そうともがいている上半身を 4 、 5 人の部員が見たのが最後となった。
捜索活動
針ヶ谷が沢に落ちたと知った宇野、海老根、能登、小野木、合木、白井の 6 名は、すぐ下流の横尾の岩小屋に向かって走り、大坪はこの事態を知らせるため徳沢牧場の事務所に走った。残る部員たちはザイルを取り出し、左岸の道から足元に注意しながら針葉樹の崖を下り、手分けして捜索しながら横尾の岩小屋に向かった。
しかし、流れの近くを探しながら下ったが、増水した横尾谷は濁流が渦巻き、針ヶ谷を発見することはできなかった。針ヶ谷はすでに横尾の岩小屋付近を過ぎて流されたと想定、全身びしょ濡れの部員たちは、岩小屋で休むことなく横尾谷と梓川出合へと急いだ。
一方、風雨の中、徳沢牧場事務所に走り込んだ大坪は、針ヶ谷が橋から転落し行方不明になったことを告げ、誰か上高地に連絡してもらうよう懇願した。そこで「針ヶ谷、今朝 9 時、涸沢出合の橋(横尾本谷橋)で墜落、行方不明。夏山本部及び学校宛、打電を乞ふ、田中君」と留守役の田中正信宛に書いたメモを渡し、再び横尾の岩小屋に引き返した。
いったん横尾の岩小屋に集結した部員たちは、峰島、鏑木、合木を連絡要員として待機させ、宇野、海老根、能登、小野木、白井、石原の 6 名で午前 10 時40分、さらに下流を捜索すべく上高地方面へ下る。大きな川幅となった横尾本谷と梓川の出合付近を捜し歩いたが、着衣 1 つ発見できなかった。
宇野一行は午後 1 時20分ごろ、徳沢牧場と吉城屋の中間で、上高地から上がってきた捜索隊の人夫 4 名と会う。捜索人夫 3 名は明神岳側より横尾方面に向かい、両側より川筋を捜索することになった。宇野は捜索本部を徳沢牧場事務所に置くことにし、宇野一行はさらに下流の捜索に向かった。
夕方 5 時ごろ、巡査と 1 人の人夫が徳沢牧場事務所に戻ると、巡査より午後 3 時半ごろ、横尾の岩小屋から約350m下で針ヶ谷の死体を発見した、との報告を受けた。
翌12日、無言の故針ヶ谷の遺体は上高地に戻り、西糸屋の 2 階座敷に安置され、赤十字の看護婦 2 人が来て遺体を消毒した。午後 4 時過ぎ、OBの高橋文太郎と学友会の尾崎幹事が上高地に入り、納棺を済ませた遺体は夕方 5時、河童橋脇から霊柩車で松本に向かった。
夜10時過ぎから松本の本願寺別院で通夜が営まれ、遅れて到着した小澤利一郎OB、部員一同が参列した。また、彼と同期の坪井芳太郎、須山治助も駆け付け、最後の別れを告げた。